10、終戦

   ビリンからビルマ南部のモールメイン近くへ移動。設営。
まだ英軍は追跡して来ず、上空を飛来する敵機に悩まされる以外はのんびりと過ごした。

行軍中、ヤシの木があり実がたわわになっていた。誰言うとなくあれを食べたいということになり、誰か木に登って取ってくる者はいないかと小隊長が言うので、私が名乗り出た。ヤシの木は高さ15m、幹は一抱えもあるところを両手両足でよじ登っていったが、ヤシの柄は太くて素手ではとても取れなかったので、両腕でしっかりと幹を抱えながら足でヤシの実を蹴り落とした。下で待っていた兵が逸早く実を割ろうとしたら、小隊長が「窪田が最初に食べるのだからお前達はそれまで手をつけるな」と叱っていた。ヤシの木には赤アリがたくさんいて尻を垂直に立てては私の肌に食い付いてきた。激しい痛みをこらえながら7〜8個落としたところでアリから退散する。一同久しぶりにヤシの汁を飲んだ。


   間もなく、サルウィン河上流のパアン部落にて渡河作業の命令を受け小隊長以下7〜8名で任務に就く。その付近は時々英軍機の爆撃を受けるくらいで戦場にはなっておらず住民も大勢普通の生活をしていた。私たちは民家に宿営した。その家には母親と子供達とおじいさんとが暮しており、さらに7〜8名を受け入れられるほどの大きな家で、地下には防空壕も備えていた。

渡河作業中は、私は初年兵ということで留守居役と炊事役とで民家に留まっていた。ビルマ語で炊事のことをタメンチェメというので、住人は私のことを「タメンチェメマスター」と呼んで特に好意を寄せてくれた。渡河作業をするにも軍から舟は支給されないので、民舟を徴発し、舟と舟の間を丸太材で連結して門橋船にして輸送にあたった。主に前線から後退してくる部隊を渡河するのが目的だった。


   8月半ば、それまでは毎日英軍機が爆撃していたのに、飛行機が来ないようになった。不思議だなぁと思っていたら、8月18日頃、終戦を知った。近くにいた通信隊から終戦の知らせを聞いたのだ。これで無事日本に帰れると思うと嬉しくてたまらなかった。負けたことはくやしかったが喜びの方がずっと大きかった。終戦とはいえ、私たちの渡河作業はしばらく続いたが、爆撃も撤退もない平穏な日々を過ごすことができた。

パアン部落の住民はカレン族といい、男はからだ全体に刺青をしていた。日本が負けたことも知っていたと思うが、とても好意的だった。私たちの設営地の近くに大きな寺院があり、そこの住職もとても親日家で私たちが訪れると優遇してくれた。寺の祭りの日、住民が大勢集まりビルマ舞踊「ジャンジャンママ」で賑わっていた。私たちの小隊も住職から招待され、祭り気分を堪能することができた。

近日中に英軍がパアンに進駐して来るという情報があった。予想以上にすぐ間近にまで英軍が追跡していたことを知り、慄然とし、改めて安堵の思いだった。パアンにある貨物廠が、英軍に没収される前にということで、たくさんの衣服や糧秣を支給してくれた。お蔭様で物々交換でビルマ人から欲しいものを何でも入手でき、贅沢三昧の暮らしができた。住民が好意を寄せていたのも、案外日本軍の物資に魅力があったのかもしれない。


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