13、戦跡巡拝


   昭和44年、ビルマ政府は外国人の入国を許可した。かつてビルマに出征した各部隊の戦友会も巡拝旅行を計画するようになった。私は昭和58年、第二次工兵部隊巡拝団に参加した。参加人員は22名。
成田からバンコクまで日航機で飛び、バンコクからラングーンまではバングラディシュの飛行機で飛んだ。当時は日本から直接ビルマに飛ぶ航空協定がなかったためだろう。バングラディシュの飛行機は60人乗りくらいの小型機で、型もかなり古く飛行中はガタガタ音がして恐かった。

やっとラングーン着。
日本を発つ前に、ビルマは大変貧しい国で物資が不足しているから、家庭にあるカレンダーとか、ボールペンとか、100円ライターとか、タオルなど、ビルマ人への土産用に持参するべしとのアドバイスがあったので、トランクの中にそれらの品々をたくさん詰めてきていた。空港税関での荷物検査の時、最初の数名はトランクの中身を全部広げて検査されるので、時間がかかりイライラしていたが、巡拝団が予め用意しておいた土産品を税関幹部に渡すと、それ以降はフリーパスで外へ出ることができた。遅れている国だと痛感した。
ラングーンで宿泊したホテルは、かつてはイギリス人専用の高級ホテルで、建物も、内の施設も豪華そのものだった。
翌日朝食後、さっそく郊外にある日本人墓地に参拝にいった。広い墓地の一番奥に戦没日本軍人の慰霊碑があり、その前で香を供え合掌した。入口近くに、日本人女性の名を刻んだ小さな墓がたくさん並んでいるのに気がついた。苔むしたそれらの墓石はおそらく昔の「カラユキさん」たちのものであろう。日本の貧しかった頃、日本を離れこんな遠くの地まで身を売って流れてきた女性たちが憐れで、目頭が熱くなった。


ホテル発マンダレーへ。ビルマ国内機をチャーターしたが、予定の時刻より2時間も遅れて出発する始末だった。ビルマ国内機はたったの3機しかなく、型も古くいつ墜落するか心配が絶えなかった。なんとかマンダレーのホテル着。私たちはカンバルまで行くつもりでいたが、まだ遠隔の地は治安が悪く、ビルマ政府は許可をおろさなかった。シュエボーまでなら良いとのことで、おんぼろバスに揺られながらシュエボーに到着した。ここで第一回めの巡拝式を行った。各中隊ごとに戦死者の名前を書き込んだ日の丸の旗を3枚並べ、香を焚き、持参した日本酒や日本たばこを供えて亡き友のご冥福をお祈りした。お経を録音したテープも持参しており、参拝中ずっと流していた。

サガイン・ヒルで第二回めを行った。その丘の上には各部隊が建てたパゴダが10基ほど並んでいた。私たちの工兵部隊は慰霊碑を建てており、その前で参拝を済ませた。イラワジの大河は緩やかに蛇行して流れ、36年前と何も変わらぬ姿だが、この地で激しい戦いがあり多くの命が散っていったのだ。運良く生き残り、故国に帰れた私たちが戦跡を巡り、慰霊するのは当然の責務である。あの忌まわしい業火の中で亡くなった戦友と、生き残った私たちが逆になっていても決して不思議ではなかったからだ。
戦時中は見学できなかった古い王宮を観光したが、爆撃を受けほんの一部の建物が残っているだけだった。戦いの傷痕は30数年を経ても修復できず、戦争の空しさを感じた。

翌日はイラワジ河畔戦のカズンへ行くことになった。私と当時の小隊長ともうひとりとの3名は、カズンではなくその西南にある、連隊長から死守せよとの命令を受けた地点(集中砲撃された地点)へ行くことにして、他の団員とは別行動をとった。インド系の運転手を雇い、ジープで出発した。イラワジ河をフェリーで渡り、カズン方面を目指して進んだが、運転手も道順がよくわからず、途中で現地人に同行してもらうことにした。道は段々狭くなり、もちろん舗装などしておらず、牛車の轍でジープの腹がつかえて故障することが度々だった。運転手は予め承知の上か、若い修理工を同乗させていたので、そのつど修理しては進んだ。部落内に入ると、ものめずらしさに住民たちが道に出てきてジープと私たちを眺めていた。彼等の住居は高床式の小さな家で、屋根はニッパヤシの葉でふいてあり、周辺は悪臭漂う不衛生な場所で、30数年前から少しも進歩していない状況だった。

ようやく目的地付近に到着。元小隊長が「この辺かね。」と聞くので「この辺でしょう。」と答えた。いかにせん同じような地形がずっと広がっているのではっきりとはわからないのだ。この地で散った戦友の霊を弔って、3人で深く合掌した。帰路はカズンへまわり、本隊も私たちを待っていたので同じコースでマンダレーへと帰った。

翌日はパガン観光に出掛けた。パガンは古代のビルマ王の居城があった地で、たくさんのパゴダが林立していた。すっかり崩れ落ちたパゴダや、崩れかけたパゴダの中に、原形のままに保存されたものもいくつかあった。イラワジ河に真赤に燃えて夕日が沈む頃、古いパゴダ群を眺めると、まさに一幅の名画のようだった。この都はいわゆる「蒼き狼」チンギス・ハーンの征服を受けて王朝が終ったと聞く。白人の観光客もかなり見受けられた。路傍で若い夫婦が小さな子どもを連れてバナナを売っているのが可哀相に思えた。さっそく1房買ってみんなで食べたが、ビルマのバナナは10cmくらいの長さで台湾バナナの1/3にも及ばないのだが、味はとてもおいしかった。

マンダレーからラングーンへ汽車で戻る。
一等客車両に乗ったが、シートは破れスプリングが直にお尻にあたるので、座っているよりも立っている方が楽なくらいだった。列車の中で折詰弁当が配給されたが、私はサガインのレストランで野菜サラダをたくさん食べ、それが原因でお腹をこわしていたので、弁当は車内にいた坊さんに差し上げた。ビルマの慣習では、左手は不浄の手と忌み嫌われるので、物をあげる時や子どもの頭を撫でる時などは、右手を使うようにしなければならない。この時ももちろん右手で差し上げた。


ラングーン空港よりバンコク行きの便を待つ待合室でのこと。
私の隣に座っていたビルマの中年男性が、「もう日本へお帰りですか。」と流暢な日本語で話し掛けてきた。彼の言うには、子どもの頃、村にたくさんの日本兵が駐留しており日本語を教えてもらったとのこと。日本の歌も唄えます、と「見よ、東海の空明けて・・・」を唄ったりもした。私は、この度巡拝旅行に来た故を語り、「戦争当時、ビルマの国や国民の皆さんに大変迷惑をかけて済まなかった。」と謝罪した。すると、彼は顔をこわばらせてこう言ったのだ。「マスター、なぜそんなことを言うのですか。日本の兵隊さんが私たちを支配していたイギリス人と戦ってくれたから、ビルマ人は民族魂が燃え上がり、ついに念願の独立を勝ち取ることができたのです。日本は私たちの大恩人です。どうかまた来る時はもっと胸を張って来てください。ビルマ人は日本の方を大歓迎します。」私は安堵した。あの戦争は負けたが、戦争の副産物も大きく残ったという誇りを持つことができた。

戦後、東京裁判で日本は侵略者であると決め付けられた時、裁判に出席していたオランダの弁護士は「それはおかしい。日本軍が東南アジアで戦ったのは、その地を植民地支配していた我々の軍と戦ったもので、現地住民と武力抗争をしたわけではない。それを侵略というのであれば、我々は一体何と呼ばれればよいのだ。」と叫んで本国へ帰ってしまった。同じく、インドのパール博士は国際法の権威であるが、「国際法には『世界の平和を乱した罪』などという罪名はない。ナンセンスな裁判だ。」と非難して、やはり本国へ帰ってしまった(編集者注)。 歴史は常に勝者の記録であり、自分達が正義であったことを後世に伝えるものだ。世界中の誰一人とて戦争を好む人などいない。戦争は悪業であることは誰もが承知している。しかしながら、今現在も世界のどこかの地で戦争は繰り返されているのだ。その原因は、民族抗争あるいは宗教対立など複雑に絡み合っているであろうが、それらの対立は人間のみならず、生きるものの宿命的なものであると思う。私は決して戦争を肯定はしないが、彼我の利害が大きく相反する場合、そこに争いが生じることは止む得ないことだと思う。

終り        ご覧いただきありがとうございました

 

編集者注:「パール博士は帰国した」との記述に対し、一時帰国したものの、その後再来日し、裁判に関与し、被告全員無罪の判決文を書かれた、との指摘が読者の方からありました。パール博士に興味のある方は「講談社発行 共同研究パル判決書 上下」という本が発行されいてるようですので、そちらをご参照ください。
(平成17年8月29日追記)


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