9、山中越え

   連日の猛攻撃を受け、平地を撤退するにはあまりに犠牲者が多いので、山中を撤退することになった。工兵隊はその道路偵察の任務を受けた。道路とはいえそれは山の中の道なき道を進むのである。山道を登ったり下ったりするのは大変なことだったが、それは英軍の追撃を避けるためであり、現に、ジープやトラックが移動手段の英軍は山の中には入ってこれなかった。時々上空を敵機が飛来してきたが、深い山の中では銃撃もしてこなかった。
一応生命の安全が保たれ、平穏な日々が続いた。


飛行機のことで思い出したが、私がビルマ戦線にいる間中、日本の飛行機を目撃したのはキヌー付近で飛んでいた一機のみであった。翼の日の丸を見て目頭が熱くなったことを覚えている。

平地戦で道路状況が悪いところでは、英軍は物資の輸送に飛行機を用い、上空から陣地内へ落下傘にて落していった。白い落下傘は食糧、青は水、赤は兵器弾薬と色分けされていた。彼我の陣地が接近していたので、どうかすると風向きで両軍の中間点に落下傘が落ちることもあった。そうすると日本兵が必死の覚悟で白い落下傘を奪いにいくのだ。その中身はチーズ、バター、乾燥肉、乾燥野菜、コーヒー粉、砂糖等々日本兵が口にしている粗末な食事とは比較にならないほどの豊かな食品であった。おまけにシガレットまでついていた。私たちはその食糧を「チャーチル給与」と呼んでありがたく頂戴した。


   やがて、山中の盆地シャン高原に出た。標高900mの高原で気温はちょうど日本の気候くらいだった。太い松の木がたくさん茂り、風も光りも爽やかでまるで日本に居るような感覚で、思わず鼻歌がでてくる気分であった。
高原に住む民族はシャン族という。ビルマ国は全部ビルマ民族とばかり思っていたが、数種族の山岳民族がいることを知った。シャン族は仏教徒ではなくキリスト教信者が多く、村には小さな教会もあった。

部落を通り抜けまた山路へ入る頃、一頭の牛を発見。私たちの小隊は捕まえて食糧にあてた。何年振りかで牛肉を食べ、気のせいか体力が幾分回復した感じだった。ロイコーという洒落た町に出たこともあった。そこはビルマの避暑地で気候も快適で松林の中に青い水をたたえた美しい湖もあった。


戦闘のつらさはないものの、山路をただひたすら足を頼りに進むのは大変であった。特に山砲隊は砲を分解して砲身、車輪等を肩に担いでの山越えでとても気の毒に思われた。

夜間行軍中、睡魔に襲われ歩きながらウトウト眠ることがあった。ふと気が付くと小隊は100mくらい先を行っているので慌てて駆け足で追いつく。しばらくするとまたまた眠気がさし、同じようなことを2,3度繰り返した。人間は真に睡眠を必要とする時はいかなる状況下でも眠ることができるということを体験した。

谷底を行軍中、小川のほとりの茂みの中で手榴弾が炸裂する音が聞こえた。それは体力の限界を覚えた兵士が自ら手榴弾を炸裂させ、命を絶ったのだった。また、川べりで飯盒炊飯をし食べる直前に命を終えた兵もいた。手に持つ飯盒が傾き、なかの重湯がほとんど地面にこぼれた状態だった。故郷の親達がこんな光景を目にしたら、さぞかし嘆き悲しむことだろう。激しい攻撃を受けている時は気が付かなかったが、戦闘時以外の移動中にも死者は多数あった。むしろ、敵弾に倒れる者よりも、栄養失調により体力が衰えているところに南方特有のマラリア熱、デング熱、アメーバー赤痢等にかかり戦病死する者が多かった。その中には味方の足手纏いになるのを憂い自ら命を絶つ者も多かった。


どのくらいの日数だったか、どこをどう歩いたのかもよく覚えていないが、確か6月頃、海岸近くのビリンという部落へ到着した。キャウセから山越えを開始したのが4月上旬だったから、2ヶ月間山の中を登ったり下ったりして600kmもの道のりを歩いてきたことになる。部落へ着く前のこと、谷間を歩いているときに6畳間ほどの洞窟を見つけた。中を調べてみると驚くことに、日本軍が発行する軍票(ビルマでの通貨)やら、イギリスが支配していたころのビルマ紙幣、銀貨、布地等がたくさん見つかり、持てるだけ頂いた。きっと大金持ちかあるいはスパイ活動の者が隠したものであろう。お蔭でビリンの部落で、手の切れるような新しい軍票をふんだんに使って現地人から鶏、豚、黒砂糖、野菜などたくさん入手することができた。


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