私のプロフィール

 私は言語聴覚士の平澤哲哉と申します。
 言語聴覚士は、ST(speech therapist)と略され、脳卒中や脳外傷(交通事故など)が原因で失語症などの言語障害で悩む患者さんに対し、専門的な訓練・指導を行い、機能回復や障害の軽減を図る専門職です。
 私自身が1983年9月に交通事故による脳外傷を受け、失語症の経験者となりました。大学3年の時でした。失語症とは大脳にある言語をつかさどる場所に傷がついたために、うまく話せない、話が理解できない、文字が読めない、書けない、計算もできないという、コミュニケーションの全般的障害です。
 発症時は「どうしてこんなことに」と、ことばを失ったことに悲観したものでした。駿河台日大病院のST吉田玲子先生のところに通院し、次第に言語機能の改善ははかれました。家族や友人も協力して下さり大変ありがたく思いました。しかし、「ことばを失った人」に対する周囲の目は厳しく、失語症の心を“わかってもらえない”その辛さが人間不信や生きていく壁として、うつ状態に陥らせたりもしました。実際社会的不利(ハンディ・キャップ)は重く、就職については厳しく挫折感を味わっていたのでした。
 発症3年を経た頃でした、運命的な出会いにより、私はSTになれるのか悩んでいました。遠藤尚志先生の「STやってみましょう」という後押しが私の人生を急展開させました。STとして病院に就職することになりました。社会人として勤められたという安心感と共に、大きな収穫がありました。それはいつも失語症の方たちと一緒にいられるようになったことです。失語症になって以来重くのしかかっていたモノが、スッと減っていくことを感じていました。失語症の方たちといられることに、大きな安心感を抱いていました。
 私は病院で働きながら地域での活動(失語症友の会、言語リハビリ教室など)を多く経験してきました。そこで辿り着いたのは『病院だけではことばは良くならない』と云うこと。入院中の療法は正に「訓練」であり、それはリハビリテーション(社会復帰、生活復帰)への準備段階です。そして、退院後に活き活きと生活していくためのリハビリテーションが始まると考えます。
 STが現在は2万人を超えたようですが、失語症の悩みや苦しみ、悲しみを分ち合えるSTは、ごくわずかと思います。
 ことばを失った本人は、十分に訴えることができません。私自身の失語症経験から、苦労と、共感、そして今の失語症者に対する不理解さを抱きました。そして私は、2002年年3月にそれまで長年勤めていたリハビリテーション病院を辞め、全国でも珍しい在宅言語聴覚士を展開しました。
 その活動の中でも様々な発見がありました。それらの一部でも活字としてご紹介できたらと、まとめたものが本となり出版されることになりました。それが「失語症者、言語聴覚士になる」です。
 出版後の反響は驚くばかり、多くのSTさんや失語症の方やその家族の方、その他の医療従事者から共感のお言葉をいただく連日です。そのありがたいお言葉に応えるためにも、更に活動を展開していければと思う次第です。

平澤 哲哉 (ひらさわ てつや)
1961年山梨県生まれ。
1983年青山学院大学在学中に交通事故に遭い、失語症になる。
1985年大学卒業。
1988−1989年 大阪教育大学言語治療コースで学ぶ。 
1987−2002年 山形、山梨のリハビリテーション病院に勤務。  
2002−現在   在宅言語聴覚士として訪問ケアを展開。
在宅言語障害者の訪問活動を展開しながら、
デイサービスセンターなごみの郷、
山梨県立育精福祉センター、
北杜市立塩川病院、
韮崎東ヶ丘病院 などに非常勤で勤務。
忍野村の言語リハビリ教室を担当。
東山地区失語症友の会を事務局。
 
主な著書:
「失語症者、言語聴覚士になる」(雲母書房 2003/12)
「失語症の在宅訪問ケア」(雲母書房 2005/10) 
「月間ブリコラージュ」(七七社)“地域に飛び出したST”、
「訪問看護と介護」 “日常ケアにおけるコミュニケーションのコツ” (医学書院 2005/05)
「毎日新聞」障害者コラム“ことばを求めて”に連載。2005.1〜3月(12回)

 
                     
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