8、鉄橋爆破

   次第に砲撃の音が間近に聞こえるようになってきたと思うと、やがてマンダレーへ通じる広い街道へと出てきた。そこは砲弾が激しく飛び交う地点であった。私たち3名は、街道脇の小川に架かる橋の下に隠れて休息した。

すると、街道を後退してくる日本兵を見つけた。仲間とはぐれて以来始めて出会う日本兵である。慌てて飛び出し、彼等に日本軍の状況を尋ねたところ、ここより200mほど先に師団司令部があるということだった。小隊長の命令を受け、私が司令部へ行ってくわしい様子を聞いてくることになった。砲弾の炸裂する中を走り司令部に辿り着いた。司令部参謀の言うには「お前達の工兵連隊が今どこにいるのか司令部にもわからない。3名ばかりではどうにもならないから、とにかく近くにいる歩兵部隊にでも入っていっしょに行動するように」との指示だった。

橋のところに戻って小隊長にその旨を告げると、小隊長は「他所の部隊へ入ってよそ者扱いされるのも癪だから、このまま3人で山を越えてタイ領チェンマイに逃げてしまおう」との意向であった。そのつもりでその行動を開始して間もなく、たまたま工兵連隊の下士官にバッタリと出会った。連隊本部はこの先のバナナ畑にあることがわかり、私たち3名は本部へ復帰することになった。3名のみの心細い逃走はこれで終わりであった。


   本部には3ヶ中隊が集結していたが、兵員の減少に伴い2ヶ中隊に編成され、私たちは2中隊に編入された。中隊とはいえ、兵員はわずか40名くらいにすぎなかった。息つく暇もなく、連隊長から2中隊に鉄橋爆破の命令が下った。鉄橋は、そこから20km離れたパンラン河に架かるもので、イギリス植民地時代にイギリスが作った頑丈な橋だった。中隊は飛行機用の50kg爆弾を2個、荷車に積んで出発した。30mある橋の中央部分の両橋桁に1個づつ爆弾を固定した。点火手には古年兵の伍長と私とが選ばれた。夜中、二人で爆弾の所へ行った。「1,2,3」の合図で同時に導火索に点火。素早く退避。100mほど走って地に伏したら、すぐに爆発した。爆破は成功、橋が2つに割れて落ちていくのを確認した。

鉄橋爆破の使命を終え、連隊本部への帰路につく。その途中、激しい爆撃で黒焦げに焼けてしまった部落があった。部落の中央に井戸があったので、私たちはそこで喉を潤すことにした。井戸の周辺には大勢のビルマ青年がたむろしているので、私たちは水を汲んで飲むにもずっと銃を手放さなかった。しかしある古年兵は、うっかり井戸のそばの木に銃を立てかけて水を飲んだため、その隙に一人の青年がその銃を抱えて脱兎のごとく駆け出し森の中へ消えていった。当時イギリス軍はビルマ人に対し「日本兵一人殺せばいくら、銃を奪えばいくら」という懸賞金をだしていたのだ。ビルマ独立の父と仰がれたアウン・サン将軍(スーチー女史の父)は、開戦当時から日本軍に協力していたのだが、この戦況では日本の敗北は確実であり、日本が完全に敗れてしまえば英軍が自分達を処刑するだろうと予側して、昭和20年3月下旬頃から日本軍に反旗を翻すようになった。


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