12、復員

   昭和22年3月頃から、逐次日本への復員船がラングーン港から出港した。しかしいかにせん当時の日本には船舶が乏しく、いつになったら私たちを迎えに来る船があるのか、焦燥を感じながらの生活を余儀なくされた。
4月17日、予想より早く帰還船が入港していよいよ日本へ帰れることが伝わった。4月19日乗船。船名は日本丸。これは商船学校の練習船だった。船体は白く、4本マストの帆船で優雅な船だった。後に私の末弟が商船大学に入りこの船で遠洋航海をしたのだが何か因縁が感じられる。その後、日本丸は老朽のため横浜港に繋留され、今もその優美な姿を見せている。
乗船する時、甲板の船員を見てこれは日本の船ではないと勘違いした。というのは、彼等はみな色白で、戦野で真黒に日焼けした私たちの肌とはまったく違っていたからである。

いよいよビルマにさよならする時が来た。その時のイラワジ河の河口は茶色に濁っていた。ラングーン港が次第に遠くなり海岸のヤシの木も見えなくなった頃、シェゴダン・パゴダだけがくっきりと金色に輝いていたのが印象に残っている。航海は順調でラングーン出港後10日ほどでシンガポールへ入港した。夜、南十字星を眺めて感傷的になった。

ついに、待望の日本の島影が見えた。文字通り、白砂青松でなんと美しいことか。国破れて山河あり、自然は永遠に変わらないものだ。


   5月9日、無事に広島県宇品へ着港。上陸後、占領軍からDDTを噴きかけられる。諸手続きを経て、ようやく軍籍から除外された。宇品駅からは特別の復員列車に乗車して東京へと向かった。ところが各駅停車するたびに、大きな荷物を担いだヤミ屋風の男達が窓から乗り込んで来るのでたちまち超満員になってしまい、復員列車という恩典はなくなってしまった。

夜8時頃、富士駅で下車し身延線に乗り換える。乗り換えに時間があったので、塩山の自宅に電報を打ち、今晩遅くに帰ることを知らせた。ビルマへ出兵して以来、実家との音信はまったく途絶え私の生死のほども不明だったので、夜中に突然帰って両親たちをびっくりさせてもいけないと思ったからだ。夜中1時頃、甲府駅着。弟と近所のおっちゃんが迎えに来ていた。さらに乗り換えて塩山に到着。塩山駅から大きなリュックサックを背負って、昭和22年5月10日午前2時、とうとう我家に帰り着いた。

両親が「よく無事に帰ってきてくれた」と迎えてくれた。母の瞼に光るものを見て感無量を覚えた。入隊前、父は「戦友」という軍歌の歌詞の中に「夢に出てきた父上に 死んで帰れと励まされ」とあるのを、「倅の死を願う親がどこにいるものか」と憤慨していたのを思い出した。親兄弟との再会にほっとしたのも束の間、両親から兄の戦死を知らせれた。兄は昭和19年グァム島にて戦死したとのことだった。兄は私が仙台に入隊した頃は、満州に出征中で、出征先から仙台の部隊へ「お前は新兵で軍のことがよくわからず随分と苦労をしていると思うが、辛抱して励みなさい。そのうちに軍隊生活にも慣れることだろう。」と、激励の手紙を送ってくれたのだ。それが兄との最後の接触になってしまうとは思いもよらなかった。さっそく仏壇に香を供えて冥福を祈ったが、涙が流れて止まらなかった。家に帰って来た喜びと、兄の死の悲しみとが交錯して感傷的な気分であった。

私の大きなリュックサックの中にはビルマの原始的な赤米がたくさん入っていた。日本は敗戦で物資がなく、国民は食べるものもなくて栄養失調になっているという大袈裟な情報をビルマで聞いていたので米を持ち帰ったのだが、農村にはそんな心配はなく、母に笑われたくらいだった。また他には、キャンプ生活中にテントの布地を切り取ってシャツや半ズボンを自分で裁断、裁縫した物を持ち帰ったが、それも家族の笑いの種となった。というより、姉や妹が「こんなものまで自分で作ったのか」としきりに涙していた。


なお、手元の資料によると以下のような数字が記録されている。

            工兵第31連隊編成人員・・・・・1,031名
            戦死者・・・・・・・・・・・・229名
            戦傷後死亡者・・・・・・・15名
            戦病死者・・・・・・・・・・481名
            他部隊への転出・・・・・57名
            生死不明・・・・・・・・・・・14名
            帰国者・・・・・・・・・・・・235名


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