インパール作戦概要(私的見解)

   昭和16年12月8日開戦となった太平洋戦争では日本はアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、中国を相手に、中国大陸や東南アジアの各地で戦闘を繰り広げた。
開戦後半年ほどは日本の快進撃が見られたが、その後は各戦線とも劣勢となり敗色が濃くなっていった。この劣勢を新しい戦場にて盛り返す目的で、インパール作戦は計画された。もちろん戦略的にも重要な目的があり、それは中国・重慶への輸送路を断絶させることであった。
   中国の蒋介石軍が拠点としていた重慶にはアメリカやイギリスから大量の兵器弾薬がさかんに補給されており、蒋介石軍を弱体させるためにはその輸送路を断つことが急務であった。インドの小都市インパールは、重慶への物資輸送の要点であった。その当時インド、ビルマ、マレーはイギリスの植民地であり、私たちが現地で戦ったのはイギリス軍で、中にはインド人部隊もいた。日本はインパールを占領し、あわよくばインド全土から英軍を駆逐するねらいもあったようだ。


    しかし、インパール作戦は失敗に終った。すでに苦しい戦局に向かわされた私たちは本来、工兵補充要員として派兵されたのだが、攻撃するのではなく、被害を最小に留めるよう撤退するための部隊であった。
日本軍劣勢の一番の原因は物資量の絶対的不足であった。さらに英米の近代的兵器を駆使した戦闘に対して、日本の兵器戦略は日露戦争当時のままであり、結果は戦わずとも明らかである。
インパール作戦では、そのような不利な情勢に加えて、アラカン山脈という険しい山地を行軍する戦いだったため、戦闘による戦死者だけでなく、疲労や栄養失調、感染病などの病死者も多く、生きて日本に帰ってこれた者は2割くらいだっただろう。
物資面では劣っていた日本軍ではあったが、兵士の質、気概の面ではどの国よりも優っていたと私は思う。


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