1、仙台入隊からサイゴン上陸まで

   昭和18年12月 19歳にて徴兵検査を受け、甲種合格後すぐに仙台工兵隊に入隊し、初年兵教育を受ける。
翌昭和19年4月 九州博多湾よりビルマにむけて輸送船団10隻で出航する。が、2日後に敵アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け船団は崩壊した。九州に戻り第二次船団を組み直し出航するが、またも台湾沖にて攻撃を受ける。今度は台湾・高雄に逃げ第三次船団にて出航し、マニラ湾でさらに攻撃され、船団の9割は沈没させられる。生き残った船はマニラに入港し、第四次出航となる。しかし、これもサイゴン上陸を目前にカムラン湾にて攻撃を受けるのだった。
普通10隻の輸送船団には駆逐艦が2隻ほどはつき、敵の攻撃を撃退するものであるが、この船団には砲艦1隻だけの護衛しかなかったために、4度もの攻撃をむざむざ受けることになってしまった。
   九州から出航してサイゴンに上陸できたのは、私たちの乗った船のみであった。


   私たちの船は「帝立丸」といい、もとはフランスの客船だった。速度が速く、敵の魚雷を避けられたために助かったのだと思う。
この船には一般の船客も含め、複数部隊総計2000人ほどが乗っていたと思う。
私の部隊は仙台からの現役兵約50名と千葉柏から合流した補充兵約60名の部隊だった。部隊には軍医も衛生兵もおらず、私が仮の衛生兵を務めることになった。その関係で船医さんと懇意になり、当時一般医師には入手できなかったモルヒネを少量分けてあげ、大変喜ばれた。貴重なモルヒネは一般医療より軍隊に優先されていたわけだ。その代わり、見返りに船医さんからは菓子やアメをたくさんいただき、同年兵と分け合って食べうれしかった。
   サイゴンに上陸してこの船医さんと別れる時、私は父宛ての手紙を彼に託した。軍の機密に触れる内容で軍事郵便では出せない文章だったからだ。船医さんは日本に帰ったら町のポストに投函することを固く約束してくれたが、私が昭和22年に復員し家に戻ってもその手紙は届いていなかった。おそらく帝立丸も帰路に敵の潜水艦に撃沈されたのではないかと思われる。


   船では兵員は甲板で寝起きをしていた。
ある日、班長をしていた私のところへ補充兵の一人が泣き付いてきた。帽子を他の部隊の奴に盗られてしまったというのだ。兵士が身に着けている物は帽子一つ、靴下一足といえども全て天皇陛下からいただいている大切な物であるから、それを無くしたなどもってのほか、一大事だったのである。
「よし!俺がとりかえしてやる!」夜皆が寝静まった頃、他の部隊の寝ているところへ行き固く寝ている者に目星をつけた。帽子は必ずしも盗られた物でなくてもいいのだ。見知らぬ男の顎にしっかりと結わえてある紐をそっとはずすと、私は帽子を手に入れて何食わぬ顔で立ち去った。と、すぐさまその男は気が付いて後を追いかけて来るではないか。その時ふと下を見るとそこは炊事場になっていた。私は咄嗟にその帽子を眼下の炊事場に投げ落し、詰め寄る男には知らぬ存ぜぬを通してその場を切り抜けた。あとで炊事場に行って帽子を貰い受け、帽子はめでたく補充兵の物となった。


   軍からビールの配給がでたことがあった。一人一本の割で配給されたので、私はその通り皆平等に一本づつ配分した。すると他の班の伍長からクレームがきた。他の班では上官に5、6本献上しているのに何故貴様はそうしないのか、と。私が反論すると伍長の怒りはいよいよ激しくなりケンカを挑まれるが、上官に対し手出しをすれば罰せられるのは明らかであるゆえ辞退し、私が一方的にパンチを食らうことで一件落着となった。


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