3、烈師団との合流

  インパール作戦は昭和19年3月より開始されていたのだが、私たちが日本を発って現地に到着するまでに6ヶ月もかかってしまったので、すでに戦局は惨憺たる状況で、私たちは攻撃のための補充部隊ではなく撤退するがための部隊であった。
その頃はもうすでに制空権も制海権も敵国英米に掌握されており、兵器・物資面、戦略面から見ても勝てるはずもない戦いだったのだ。
  インパール作戦は3つの師団からなる第15軍が戦っていた。そのうちの通称「烈師団」と呼ばれる第31師団は、コヒマを占領していた。そこはインパールへ物資を輸送する要点であったのだ。しかし戦局は次第に苦しくなり、さらに食糧、弾薬といった必要物資の供給がストップしてしまい、このままでは師団の全滅はまぬがれない状態となってしまった。それでも軍の司令官はコヒマ死守を命令するのだった。烈師団長佐藤中将は部下の無駄死を避けるべく、敢えて軍の命令に背いてコヒマを撤退し、マンダレーへと逃れたのである。


  私たちはビルマの古都マンダレーに10月に到着し、烈師団工兵隊と合流した。
コヒマ戦線から命からがら撤退してきた烈師団工兵隊は、大きな寺院を宿舎としており、私たちはそこで編成され、私は第3中隊に編入された。中隊は200人くらいで編成されるものだが、その頃はもう戦死者が多く、残り少ない兵員しかおらず、50人くらいの編成だったと思う。
コヒマから逃れてきた部隊のなかに同郷の小島重治氏がおり、私に声をかけてきた。しかし私には一瞬その顔が判別できなかった。栄養失調と長い戦いの疲労とで、目だけがキラキラし頬の肉は落ちすごい形相となっていたからだ。


     間もなく出陣命令があり、大河イラワジを渡り北へ北へと汽車で進む。
マンダレーから約200kmのカンバル部落へ到着し第3中隊の陣地を構築。
私たち第1小隊はさらに北方5kmのレイツへ小隊長以下10数名、天然の洞穴に身を隠し待機した。初年兵は私と宮城県出身の安部君の二人だけで、この二人が歩哨(見張り役)を務めた。安部君がまず務め、1時間で私と交代となった。洞穴からは100mほど離れたところで見張っていたのだが、疲れが溜まっていたせいか私はいつのまにか眠ってしまった。どのくらい経っただろうか。周辺のざわめきで私は目覚めた。10mほど前方の薮の中を大勢のイギリス兵が横断しているではないか。私はじっと草叢に潜んでやり過ごすしかなかった。キャタビラの音も聞こえたので戦車か装甲車もいたと思う。私が初めて目にした英軍兵士は、洗面器のような浅い鉄帽を阿弥陀に被っていた。そのようなだらしのない格好は日本兵では考えられないもので、違和感を感じたものだ。
   やがて一群は遠ざかり、静けさが戻ってきた。
古年兵が私を呼びに来た。「小隊はとっくに撤退した。お前も早く撤退しろ。洞穴に小隊長が背嚢を忘れたのでいっしょに持って逃げろ。」と言うのだ。私も歩哨の役を成さなかったわけだが、小隊も私を置き去りにして逃げてしまったわけだ。
500m後方に小隊はおり、全員無事でいっしょになったが、基地のあるカンバルまで戻ると、第3中隊の中には隊員12〜13名全員が行方不明になってしまった小隊もあることを知った。彼等はその後も消息の分からないままである。私の目の前を行進していった英軍がカンバルを攻撃していったのだろう。我々の小隊はカンバルから離れた所にいたために命拾いをしたのだ。


   英軍は戦車を先頭にトラック、ジープなどに兵員を乗せて進むので、足で移動している日本軍はすぐに追いつかれてしまう。従って私たちは昼夜の別なく逃げざるを得なかった。昼間は敵の戦闘機が頭上を飛び交っているのでジャングルの中を行軍し、夜は道路を進んだ。やがてキヌーという町まで後退したところで昭和20年の元旦を迎えた。部隊から餅が支給されて、そうとわかった。
夜キヌー撤退を開始したとたん、英軍が待ち伏せしており手榴弾と機関銃の攻撃を受ける。照明弾を撃つので夜とはいえ真昼のように明るくなった。中隊はバラバラになったが、私たちの小隊は負傷者もなくジャングルの中へ逃げ込むことができた。
   シュエボまでさがった所でなんとか汽車に乗ることができたが、途中で敵機の爆撃を受け、急遽汽車から退避しなければならなかった。負傷者はいなかったが汽車は中央部分の一両が炎上してしまった。それからは徒歩でサガインまでさがり、そこで連隊本部に復帰した。サガインは丘の上に立派なパゴダ(仏塔)がたくさん建てられている仏教の盛んな町である。そこで一週間ほど休養を取った。敵の落下傘部隊が降下したという情報が入り、私たちの部隊も出動を命じられた。しかし誤報だとわかり、ホッとして宿舎に戻った。


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