5、イラワジ河畔戦 その2(ミンタ戦)


   連隊本部はカズンの南方5kmの地点、ミンタに集結した。ミンタは丘陵地帯で丘の中腹の小さなパゴダを連隊長は陣地としていた。私たちはそれよりももっと下の手に壕を掘って陣地とした。

   いつものように日の出とともに英軍の攻撃が始まった。私たちの壕の近くにある民家を部隊の炊事場として使っていたのだが、その日は敵の砲弾がその民家に命中してメラメラと燃え上がってしまった。
それから間もなくして前方で機関銃の音がした。と思うと、前線にいた歩兵部隊が群をなして雪崩れのように逃げて来るのが見えた。私は慌てて壕から飛び出した。というのは、私の壕の50〜60m前方には敵戦車を爆破するための地雷が仕掛けてあったからだ。しかも点火用針金を引っ張ると地雷が爆発するように仕掛けてあり、私がその役目を負っていたのだ。
   私は大きく手を広げて「地雷があるぞー!!」と大声を振り絞ったが、そんな声が届くはずもなく、逃げ惑ううちに誰かが針金に足を引っかけてしまったのだろう、地雷は爆発してしまった。もうもうたる土煙の中に何人かが倒れるのが見えた。おそらく大勢の犠牲者が出たであろう。しかし確認する間も、救助する間も、感傷に浸る間もなく、私たちの陣地のすぐ右側にある道路を敵の戦車が何台も進撃してきた。たまたま私たちの近くに野砲隊がおり、砲身を水平角度に向け、敵戦車めがけて猛烈に砲撃してくれた。戦車は3台炎上、3台擱座(かくざ:キャタビラが壊れ動けなくなること)し、他の戦車は退散して行った。お陰で私たちは無傷で助かった。心から感謝した。

  後で知ったことだが、この野砲隊はこの時の戦いで、残弾はたったの二発、戦死者6名、負傷者7名、健在者6名だったそうだ。


   英軍は日没になると戦闘はしなかった。夜は休息の時間と割り切っていたためだろうか。彼等が鳥目だったからかもしれない。しかも彼等は戦闘を止めるだけでなく、戦線から3kmほども後退するのだった。それは、日本兵が白鉢巻で夜襲攻撃をするので、それを恐れてのことだった。
   その日も命を削る長い一日がやっと暮れ、ホッと一安心だった。砲撃の音もしなくなったので、もう大丈夫だろうと、私は隣の壕にいる戦友にマッチを借りようと外に出た。途端に、迫撃砲弾が飛んできて近くで炸裂し、私は腹部に破片を受けた。夜、中隊の軍医さんに手当てをしてもらい、傷口を消毒し包帯してもらった。たまたま同郷の軍医さんだったので丁寧に看てもらった。幸いに、破片は革のベルトが二重になった部分を貫通して体に当たったので、内臓までには届かず浅い傷で済んだ。翌日、転進の時には、小隊の古年兵が部落から牛車をみつけてきてくれ、私を荷台に横たわらせると、手綱をとって進んでくれた。感激だった。

   ところで、復員して20年も経った頃、病院でレントゲンを撮ってもらった際に大豆くらいの大きさの異物が発見された。医師と頭をひねった結果、これはその時の弾の破片だと思い至った。腹部に受けた破片は長い年月の間に背中へと移動していた。今現在も私の体にそれはある。


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