6、イラワジ河畔戦 その3(パンヤ戦)

    3月10日頃、パンヤへ南下し、陣地を構築して対戦を待つ。
この時私たちは、小隊長以下3名に、渡河材料中隊からの15名が加わり、計18名の混成中隊となって対戦した。

いつものように壕を掘っていると、ビルマの若い娘が、モウ(大福餅のような食べ物)を売りにやって来た。私は持っていた腕時計を代金代りに娘に渡し、腹いっぱいモウを食べた。明日の命も知れない状況だったので、大切な時計ではあったが空腹を癒すほうが優先だった。

しかし小隊長の言うには、陣地をうろつく物売りはスパイの可能性が大きいから気を付けるべしとのことだった。しばらく兵隊たちの間をうろついていた彼女を小隊長は追い払った。果たして、それから間もなく敵の砲撃が始まった。そしてお決まりのように砲撃の後には戦車攻撃が続く。この時も工兵連隊は多数の戦死者を出したが、私たちの中隊は幸いに無傷であった。

敵の激しい攻撃に連隊は私たちを置き去りにして撤退してしまった。英軍も戦車を先頭にジープやトラックで追撃して行ってしまい、私たちは味方からも敵からも取り残されてしまった。私たちのような小さな部隊は相手にされていないのだ。こうして私たちは、混成中隊単独で行動することになった。


   昼間は深い林の中で、声も立てず、煙も立てずにじっと我慢をし、夜になると撤退を開始した。私たちが撤退する道路沿いには美しいヤシ林が続いていた。しばらく行くと、ヤシ林の中に軍馬が20〜30頭繋いであるのが見えた。それからほどなく行くと、今度は道路左側に瀟洒な洋館が見えてきた。ここで休憩することにした。

背嚢を背負ったまま仰向けになり一服吸っていた。すると、建物の方から誰かが近づいて来るのが見えた。いやに背の高い男だなあ、とボンヤリ眺めていたら、その男が私に接近してき、お互いが顔と顔を突き合わせてみて、双方ともに「わぁっ!!」と声を上げた。鳶のクチバシの様な鼻をした男の顔が目前にあったのだ。イギリス兵だった。おそらく彼もここに日本兵がいるとは思っていなかったのだろう、ずいぶん慌てて引き返して行った。私たちは心身ともに疲労困憊の状態だったので、正常な思考力が働かなかったのだ。瀟洒な洋館が敵の宿舎だとも、人影を見て敵だとも判断がつかなかった。考えてみれば、当時日本軍には軍馬は一頭もいなかったのだから、林の中に軍馬を見た時点で、敵がいる、と気が付くべきだった。

私たちはその場を離れ、急ぎ足で進んだ。しかしその隊列に、さっきの男が味方に連絡したのだろう、右側の林の中から手榴弾が投げ込まれ、炸裂した。18名は蜘蛛の子を散らした様にチリヂリになってしまった。真昼のように照明弾が打ち上げられ、機関銃攻撃が激しくなった。私たち工兵3名は左下の川に飛び込み、胸まで水に浸かりながら向こう岸へと逃げ延びることができた。その夜以後、渡河材料中隊の15名と再び逢うことはなかった。


  余談になるが、モウと取り換えた腕時計は、私の姉が形見として渡してくれた時計だった。話は仙台入隊時に溯る。ビルマ戦線へ出兵する前日に、故郷から父と姉が仙台まで面会に来てくれた。しかし連隊では軍事秘密を守るため家族や友人との面会は禁止だった。父が工兵隊への道を尋ねた相手がたまたま私の中隊長だった。中隊長は窪田の父親であることがわかると、「窪田ならよく知っているので内密に面会できるように取り計らいましょう。」ということになり、連隊の正門脇にある衛兵所へ私を呼び出してくれた。そこで私は父・姉と懐かしく語り合うことができた。その折に、明日ビルマに発つことを姉に告げると、姉が「必ず生きて帰っておいで。私の身代わりだと思ってこれを持って行きなさい。」と涙ながらに腕から時計をはずし、私に渡してくれたのだった。

更に余談であるが、仙台での入隊中、私が不寝番(夜の見廻り役)をしていると、中隊長がやってきて「酒保(酒蔵)へ行って酒とつまみをもらってオレの部屋へ持って来い。」と何度となく命令された。そして中隊長の部屋へ行くと遅くまで酒のお付合いもさせられた。私は下戸であるが私の故郷の父も酒好きなので、なんとなく中隊長が身近な人に感じられた。なぜか中隊長も私をかわいがってくださった。そんな関係で、禁止だった家族との面会が許されたものと思われる。


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