11、収容所生活

   9月末、カトンの連隊本部に復帰した。英軍の命令によりそこで武装解除することになる。私たちは銃身に彫ってある菊の御紋章を短剣で削り取った。御紋章をつけたまま英軍に渡すわけにはいかないからだ。武器一式をいつどこへ渡したのかは記憶にない。
敗戦になっても日本軍は解体されることはなく、日本に復員上陸するまで現体制を維持することが英軍の命令だった。従って、各部隊の秩序は保たれ指揮系統も存在していた。

英軍の命令で、工兵連隊は10月上旬頃ゼマトイという部落に移動した。ここには他の部隊も集結しており、いわゆる収容所生活が始まった。竹を組んで家を作り、近くの野から枯れ草をたくさん刈ってきて厚く敷き詰めて床にしたり、竹で棚なども作ってそこで寝泊まりをした。
10月下旬、近くの石切作業場にて作業することになった。大きな石山に削岩機で穴を掘りダイナマイトで爆破する者、その砕けた石を大きなハンマーでさらに小さく割る者、など各兵団の作業員は計3000名くらいだったと聞く。作業時間は8時間。インド兵が何人も監視していたが、特にむずかしい注文はなかった。日本人は元来勤勉な民族で怠けずによく作業に従事したので、インド兵もかなり感心して信頼をしたと思う。この石切場は英国統治時代から採石をしており、すでにローマのコロシアムのように大きくえぐられていた。
一つの収容所での作業が終了すれば、別の収容所へと移動して新しい作業に従事した。何回か移動を繰返したと思うがあまり記憶にない。


  よく覚えているのはミンガラドン収容所のことだ。ここはラングーン郊外にある飛行場を収容所として使ったもので、ビルマ最大の収容所であった。英軍から大きなテントが支給され、中隊ごとに一棟ずつの割り当てでテントを張った。その収容所には一万人くらいの日本軍人がおり、テント張りの日本人町の観があった。日本軍の本部もあってお偉い人もいたようだ。英軍の命令は本部を通じて各部隊に伝えられた。終戦後も日本軍隊の組織を継続させたのはさすがに英国人の頭の良さだと感じた。

工兵隊の作業は主に英軍の宿舎建築であった。宿舎は組み立て式のセットになっており、戦後日本でも流行した、いわゆるプレハブ式である。きわめて簡単に建てられる便利なものであった。作業には英兵あるいはインド兵が監視についていたが、特にインド兵は私たちのことを「ジャパンマスター」と敬称で呼び敬意を表してくれた。日中の暑さの中での作業は苦しかった。時々は監視の目を誤魔化して日陰に身を寄せて涼をとったりもした。

作業はやはり一日8時間と決まっており、作業が終わる夕刻からは自由な時間となる。その時間に、様々なことをする者がいた。建築現場からの帰り際に建築材の余りや廃材を失敬してきてテントに持ち帰り、それからなんと、楽器、シガレットケース等を作ってしまう器用な者がいた。やがてその器用さが英兵やインド兵にも認められ、彼等から注文を受ける者もいた。手作り楽器にはギター、マンドリン、ドラム、トランペットまでもあり、時々夜間に演奏会も催された。また劇団も組織され、週に一度くらいは演劇を鑑賞することができた。おやま(女形)までいて奇麗な着物姿にホレボレとしたものだ。たまには英軍の将校たちを招待したが、彼等も拍手喝采を送っていた。さらに日本古来の武道、柔道、剣道なども英軍に紹介し、彼等を感激させた。大勢の日本兵の中には様々な優れた能力を持った人物がおり、その器用さや才能に私自身も大いに感銘した次第だ。

私はキャンプ内で初めて囲碁を指導してもらい、初心者同士で夜間楽しんだ。碁盤は作業場から持ち帰った厚手のベニヤ板を使い、また碁石は厚めのダンボールを丸く切り取り白黒ペンキを塗って使った。

ある日キャンプ内で同郷の小林君とばったり会い、お互いに奇遇を喜び合った。彼は歩兵部隊で戦時中はビルマの南方におり、実戦の様子はまったく知らなかった。激戦となった地域に配置された部隊は多くの犠牲を強いられたが、敵の進出がなかった地域に配置された部隊は安眠を貪ることができたのだ。運命とはいえ大きな差があるものである。


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収容所生活中に作ってもらったシガレットケース。飛行機の残骸のジュラルミンでできている。両面に巧みな線画が刻まれている。


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