過去の掲示板(その5)


「インパール作戦・父が語る戦争体験記」への感想を多くの皆さんに書いていただいています。今までの掲示板への書きこみ内容をまとめてみました。上から順に新しい書きこみとなっています。
なお、改行位置などは一部編集してありますのでご了解下さい

平成11年3月の掲示板開設以来のもの(No1〜63まで)は「過去の掲示板その1」をご覧ください。
No64〜99までは「過去の掲示板その2」をご覧下さい
No100〜172までは「過去の掲示板その3」をご覧ください
No173〜206までは「過去の掲示板その4」をご覧ください

ホームページ編集責任  窪田 幸唯 mailto:kubota@mxa.cosmo.ne.jp

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250.ようこそ 投稿者:窪田やよい  投稿日: 7月28日(金)12時44分48秒

貴子さん、はじめまして。hpご訪問&コメントありがとうございます。
肉親を戦争で失った人々にとっては、戦争は憎しむべきもので口にするのも忌々しいことなのでしょう。
学校では何も教えてくれなかったし(私の場合)、戦争のことについて知らなくても無理もない状況ですよね。
当hpが少しでもお役にたてれば幸いです。
また何か新しい発見がありましたら、是非ご報告ください。


249.ありがとうございました。 投稿者:貴子  投稿日: 7月27日(木)23時06分39秒

私の、祖父がインパールでなくなったそうです。もちろん私は、会ったこともありませんでしたが、ある時NHKの番組を、見たときなぜか気になり母に聞いて見ましたすると祖父の話になりその事を、しりました。だだ、不思議だったのは、母が生まれた時にすでに祖父は亡くなっておりそんな話を、私にしたことがないらしいのです。私は、なぜか気になり本を色々読んだりしましたすると祖父が、どんな状況で亡くなったか見えてくるように成り祖母と電話で話しをしたりすることが
増えました。今度、のお盆は会って話する事になっていましたが、6月25日に亡くなりました。
残念です。でもこうしてちゃんと話を聴かせて頂いてありがとうございました。戦争なんて教科書にのっているだけと思っていた私にとてつもなく残酷で酷いものだと教えてくれた祖父・祖母・母
その事を聞いて頂いたあなたえ・・・感謝します。ありがとうございました


248.更に 投稿者:石井  投稿日: 7月27日(木)22時54分29秒

この一式陸攻も、三菱側は、4発機を望んだそうです。
でも軍にメーカは運用まで口を挟むな、と一蹴され、結局2発機になったそうで。

もし4発機なら、もっと防御とか、マシに出来た筈で、あんなに無駄に、
爆撃機乗務員を死なさ無くて良かったかも知れませんね。

いずれ、戦争の発端を作ったのも軍部だし、戦略、戦術的に日本を苦境に
陥れたのも軍部、且つ日本を壊滅的にしたのも軍部と言う事で、
なんか最近の日本の厳しい経済状態にも同じ事が行われているのでは、
なんて感じてしまいますね。


247.(無題) 投稿者:松下  投稿日: 7月27日(木)02時46分21秒

>時に、文林堂が出版している世界の傑作機「F4Fワイルドキャット」には、
>ソロモン航空戦の頃から既に1対7程の撃墜差があったと書いていました。
>勿論、零戦が7で、ワイルドキャット一機の被害に対し、零戦が七機の
>被害と言う事です。

そうでしょうね。開戦当時の5年以上のベテラン搭乗員勢もソロモンの頃に多数死にましたから。
岩本徹三や西沢広義たちは一目置かれた特別なエースだったのでしょうね。

坂井三郎の列機を勤めたことのある島川正明氏によるとソロモン航空戦の搭乗員戦死の大半は荒れた天候と無茶な指令だということでした。


246.RE:戦闘機乗員 投稿者:石井  投稿日: 7月26日(水)23時43分52秒

>その中でミッドウェイ時点で海軍が「特攻構想」
>を既に持ち出している事実を知らされました。

ところで源田実氏の著作を読んでいると、なんと!真珠湾攻撃の時から、片道の
燃料だけで特攻を掛けるのはどうか、という意見を山本五十六が、幕僚達に
相談していたそうです。

主力艦隊をたった一回の作戦で全て自殺させる様な国とは戦争なんてしてられない、
とアメリカに思わせようとした、という事らしいのですが・・・

>陸軍航空隊の戦闘機も含め、空母の機動力なき陸上航空隊は何百機あっても戦略的優位拠
>点への集約ができなかったと
>あり、ご存知かと思いますがソロモン諸島の航空戦で一大戦力集めた決戦はほとんど出来
>ませんでしたね。

私も同意見です。

本当に艦載機を陸揚げする必要があったのかどうか、結局無駄だった様な、というのが、
後生の戦史研究家の一致する意見ですね。

>「特攻」は光人社ではないですか?光文社が戦記を出した例をあまり知らないもので。

失礼しました。確かに光人社ですね。

時に、文林堂が出版している世界の傑作機「F4Fワイルドキャット」には、
ソロモン航空戦の頃から既に1対7程の撃墜差があったと書いていました。

勿論、零戦が7で、ワイルドキャット一機の被害に対し、零戦が七機の
被害と言う事です。

まあこれは米軍の資料からの損害比なので、話半分でしょうが、その頃から
既に相当な苦戦を強いられていた事は事実の様です。

勿論、日本のパイロットや戦闘機が劣っていた訳では無く、一式ライターとも
称される防御力0の一式陸攻を援護して闘わなくてはならない上、ラバウルから
ガダルカナルの往復6時間(で良いでしたよね)にも亘る飛行をしなければならない
事から、パイロットへの負担が異様に大きかったと言うのも事実です。


245.今後もよろしくお願いします 投稿者:窪田やよい  投稿日: 7月26日(水)10時49分16秒

しばらく御無沙汰している間に随分活発な発言が展開されており
うれしく思います。ありがとうございます。
戦争オンチの私としては皆様の豊富な知識にただただ敬服するばかりです。
こと戦争に関しては一面的な捉え方は禁物で、いろいろな角度からの議論が必要であると思います。
絶対的な、一律的な結論などないと思います。
皆様のご意見を拝見していて思える事は
指導者には冷静沈着、優れた判断力、崇高な精神力が必要不可欠である、ということです。
ダメな指導者のもとではあまりに悲惨な結果を招き、後への影響も印象も大きいのですが
どの時代、どの世界でも素晴らしい人もいれば、ダメな人もいるわけで
あえてダメなものばかりに焦点を合わせることはなく、
反省すべきは反省し、称えるべきものは称え、今後の私たちのあり方について模索するヒントにすべきだと思います。
今後も皆様の活発なご意見をお待ちしております。


244.ご心配なく 投稿者:松下  投稿日: 7月25日(火)23時48分52秒

私の方ではごくごく冷静な心境です。
基本的に私が得ている情報を展開するつもりでおります。


243.冷静な議論を・・・ 投稿者:窪田幸唯  投稿日: 7月25日(火)23時11分13秒

この掲示板に参加の皆さん、活発な発言ありがとうございます
戦闘、戦術、戦略、様々な見方、捉え方があります
本質を捉えた議論を期待したいと思いますので、よろしくお願い致します
冷静な議論であることを願っています


242.戦闘機搭乗員 投稿者:松下  投稿日: 7月25日(火)21時34分50秒

>ミッドウェイでは確かに多くの歴戦のパイロットや、主力空母四隻を失いましたが、
まだ、結構残っていたのです。

その前の珊瑚海海戦で既に相当の打撃を受けていたわけですが、私が操縦歴10年の陸軍ベテランパイロット(隼や飛燕を操縦)にお会いしたところ、2週間に1度、大本営にも伝達されない陸海軍航空戦情報が詳細に知らされるそうです(陸海軍航空隊の配置情勢を個人が常に把握する必要あったため)。その中でミッドウェイ時点で海軍が「特攻構想」を既に持ち出している事実を知らされました。この実戦経験の方の見解はミッドウェイからすでに兆候が見え始めたということでした。

陸軍航空隊の戦闘機も含め、空母の機動力なき陸上航空隊は何百機あっても戦略的優位拠点への集約ができなかったとあり、ご存知かと思いますがソロモン諸島の航空戦で一大戦力集めた決戦はほとんど出来ませんでしたね。
逆にアメリカは艦上戦闘機の不足を海兵隊戦闘機(コルセア)の導入で補って母艦戦力強化しました。

マリアナ戦の頃では5機の隼や零戦が1機のグラマンに勝てない惨状で陸海軍戦闘機パイロットの8割が操縦歴3年未満の未熟者だったと。開戦当時は旧式の陸軍九七戦闘機1機が5機のスピットファイアを相手していたということらしいです。フィリピン戦線から帰還した人が目を真っ赤にしながらその実力差の惨状を語ったといいます。

「特攻」は光人社ではないですか?光文社が戦記を出した例をあまり知らないもので。


241.またちょっと反論 投稿者:石井  投稿日: 7月25日(火)19時32分20秒

日本の海軍航空力にとって、ミッドウェイよりもっと厳しかったのが、
ソロモン航空戦です。

ミッドウェイでは確かに多くの歴戦のパイロットや、主力空母四隻を失いましたが、
まだ、結構残っていたのです。ですが、その後のソロモン航空戦では、陸上航空部隊
のみでは抗し切れず、空母航空隊を陸揚げして闘った訳ですが、これで壊滅的打撃を
受けたのですね。確かに米軍とは良い勝負を繰り広げていましたが、そうとは言っても、
すり潰される様に、壊滅させられていった訳です。

その後、マリアナ沖海戦でこの状態でアウトレンジ戦法という博打の様な方法をとって、
再建なった日本の機動部隊を全て失う訳です。
この海戦で、日本海軍は回復不可能な打撃を受けた訳です。

この辺は、光文社の「特攻」に載っています。色々と当時の軍部と、軍需メーカの、
腐敗の度合いも書いてあって、興味がありましたら、読んでみて下さい。


240.謙東弥様ありがとうございました。 投稿者:小池昭輔  投稿日: 7月25日(火)18時27分13秒

謙東弥様、貴重なアドバイスありがとう御座いました。結論から申し上げますと、
私が知りたいことは、第五野戦輸送司令部の最終結末はどうなったかが知りたいのです。謙様のHPを拝見し、ご紹介のドキュメント(戦記)の殆ど蔵書として持っていますが、その中に第五野戦輸送司令部の記述は『囚人部隊』で引用された高田清秀司令官の記述部分が、後 勝氏の著書『ビルマ戦記』でも同様の記述があるのみ、また、清水和男氏の著書『初年兵のビルマ最前線』には勝ち戦のマンダレー駐留当時の一こまの記述があるだけ、防衛庁の戦史室にも第五野戦輸送司令部の詳しい記録はありません。
謙様の蔵書の中にもし見あたれば教えて下さい。
ビルマ戦線の生き残り参謀の牛山(もと木村)才太郎・後 勝の両氏には毎年5月末に開かれるビルマ英霊顕彰会総会で二度お目にかかり、その事についてお伺いしたのですが彼らも最終結末は判らないのです。
第五野戦輸送司令部は悲運の部隊だったのです。しかしながら今後とも諦めず生ある限り真相を求めて努力します、MYANMARには平成六年から四度の一人旅をしましたので現地には親しい友人が何人もいます。謙様今後ともよろしくお願いします。


239.反論ではなく 投稿者:松下  投稿日: 7月24日(月)23時56分58秒

石井さんのおっしゃっていることは反論ではなく、正論だと思います。
軍の指導者は命令をし、「私も後から行く」といいながら前線から逃げてきました。
特攻に肯定も否定もなく、このような非道を許したのは停戦や協定に持ち込むことができなかった日本政府中枢といえるでしょう。ミッドウェイ海戦で主力を失いながらもその後3年に渡って犠牲を強いて無条件降伏になったのですから。

私の特攻に関する仮定は以下のとおりです。
●特攻隊員のような純真がもし戦後社会を形成していたら。彼らの大半は無名の戦士だった。
●特攻隊員でなくとも戦後社会で無名なる純真が世を支えつづけている。無名に多くの本物がいる。
●軍国主義が純真を育てられるはずがない。これは肩書きばかりの指揮官たちよりはるか崇高な心を持っていた。
●「特攻は無駄」というよりは、全てを勉強し聞いた上で「戦争は無駄」を証明できるようにする。


238.ちょっと反論です 投稿者:石井  投稿日: 7月23日(日)16時15分53秒

ただ気を付けなければならないのは、戦前の日本人の心を悪用し、
終戦近くは、殆ど全ての作戦が特攻となっていった、当時の軍の
指導者は、絶対に許してはならない、という事ですね。

大体、最後の方は、碌な飛行機も無く、白菊や95中錬といった練習機で、
未だ年若い飛行兵に特攻を掛けさせた、当時の軍の指導部は万死に値する、
と感じています。

最後まで特攻は無駄だ、という意見を持ち、整備しにくい彗星艦爆を利用して、
夜間襲撃を掛け続けた芙蓉隊とその司令の美津濃氏を、私は尊敬しています。


237.同感です 投稿者:窪田やよい  投稿日: 7月20日(木) 9時35分28秒

特攻に限らず戦争そのものが肯定すべきことでも、美化して語ることでもありませんが
松下さんのおっしゃる通り、精神的な高貴さは現代人が見習うべき部分であると思います。
現代のように権利ばかり主張して義務を果たさない、人の批判だけはする、嫌な事はやりたくない的な
人間ばかりではよい社会になるはずがありません。
戦争という大きな代償によって得た経験をちゃんと活かすのが後世の人間の務めだと思います。
戦後50数年経ち、戦前の日本のあり方、戦争のこと、戦後の日本のあり方をよく見極めて
より賢い選択をしていかなければならないと思います。


236.(無題) 投稿者:松下  投稿日: 7月18日(火)23時46分08秒

>まさに命をかけて、任務を遂行する厳しさ
曰く、通常の戦闘は生還の可能性が1%以上ある「決死」の心境で命が惜しいという人間の根本的
本能が露呈し、それが恐怖として表われる。
特攻命令はもはや「命がけ」を卓越していて「必死」の心境、つまり生還0%。もはや命は賭ける
ものではなく、捧げるものになるそうです。これが人間として最も誇り高い境地までに成り変る。
現代の価値観では計り知れないものです。でももし皆さんが一度でも特攻隊員の遺書をご覧になり
涙を流されることあらば彼らの誇り高さを理解できる素質を持たれていると思います。
遺書は検閲されておらず、本心であり、また特攻機の「片道燃料」説はまやかしで整備兵の思い入
れが飛行機にこもって燃料は満タン、思い入れ強すぎて一緒に乗って行こうとする整備兵もいたそ
うです。

誰も特攻を肯定していません。でも人の純粋な心と仲間や故郷への思いやりは現代社会に引き継ぐべき遺産であると確信しております。


235.訂正 投稿者:謙東弥  投稿日:07月14日(金)11時47分46秒

1994年5月とあるのは1944年5月の間違いでした。ごめんなさい。


234.林7024部隊 投稿者:謙東弥  投稿日:07月14日(金)11時40分14秒

6月12日に小池昭輔さんからのお問い合わせ
第15軍「林」第7024部隊・第5野戦輸送司令部の消息に関して、
具体的にどのようなことをお知りになりたいのか解りませんが、
下記の戦記に若干の記述がありましたので、お知らせいたします。

光人社1998年2月刊  岡田和裕著
「囚人部隊」インパール日本陸軍囚徒兵たちの生と死

132頁より引用
 1994年5月になった〜佐藤(烈・第31師団長)がコヒマ攻防の要衝である
 三叉路高地からの撤退を決意した数日後、第31師団の補給をになっている第五
 野戦輸送司令官の高田清秀少将が佐藤を訪れた。高田には第15軍の後方参謀が
 同行していた。高田の報告はこうであった。
 1,雨季になり道路事情は最悪で自動車による輸送は絶望的〜
 2,第15軍からの補給命令はほとんどでたらめで実現不可能〜
 3,使える自動車はすべて第15軍が使用、輸送隊には1台もない
 佐藤はもはやこれまでと決断した。第15軍、すなわち牟田口に補給の意志
 のない以上、コヒマに止まることはできない。

ビルマ戦記は僕の部屋でかなり「積ん読」になっているので、また別な刊行物
にも記載があるかもしれません。上記「囚人部隊」は著者の取材によるもので、
これまで知られていなかったインセイン刑務所(ラングーン)の日本兵囚人たち
の部隊の物語です。これはかなり面白い読み物で、お薦めです。


233.当事者の論 投稿者:窪田やよい  投稿日:07月13日(木)13時46分02秒

松下さん、ありがとうございます。
後世の人間が外側からあれこれ理論をかざしてみても
当事者の真実の重みは絶対的な説得力を持っていると思います。
まさに命をかけて、任務を遂行する厳しさは、
ぬるま湯の生活をしている私たちが気安く論じるものではないと思います。

 >窪田さんの掲示板が自分のよりどころになっていることも多少影響しているのではないかと、ふと考えました。
恐縮です。この上なくうれしいお言葉です。ありがとうございます。

なお
 >私の母の兄は、特攻隊員でグァム島で戦死しています。
と記しましたが、私の勘違いでした。
戦死した場所はインド・カルカッタ上空だったそうです。
グァム島で戦死したのは、父の兄でした。
失礼いたしました。


232.特攻 投稿者:松下  投稿日:07月12日(水)00時23分58秒

終戦前日に特攻命令を受けた方の取材を致しました。
あの戦争にして10年間戦闘機を操縦して戦い、幾度も死にかけたようです。
私がお会いしたこの方84歳、耳は聞こえ、腹の底から出す声、頭の回転鋭く、視力は現在でも1.2。
遥かヒヨコの私はパワーを頂きました。

曰く英霊によって支えられている体だそうです。

何らかの形で取材の成果をお知らせできるかと思います。この取材に至った経緯に窪田さんの掲示
板が自分のよりどころになっていることも多少影響しているのではないかと、ふと考えました。


231.ようこそ。 投稿者:窪田やよい  投稿日:07月08日(土)14時30分00秒

山田規子さん はじめまして。
hpご訪問&コメントありがとうございます。
「戦死」はご家族にとって、つらく厳しい現実であったことと拝察いたします。
おじい様のご冥福を心よりお祈りいたします。
山田さんのお気持ちに感謝しつつ、父に申し伝えます。


230.改めて思うこと 投稿者:山田 規子  投稿日:07月07日(金)12時38分26秒

初めまして。すべてのページを読ませていただきました。
 
 私の祖父はビルマで戦死したと聞いております。祖母は戦争のことを語ろうとせず
昨年亡くなり、私の父も祖父の戦死したくわしい経緯を知らずにいました。
 今でも知りたいとか、調べようとか思っていませんが、祖父と同じ戦火をくぐり
語りべとしてお元気でいらっしゃるお父様に、どうかいつまでもお元気でお過ごしくださいと
お伝え頂ければ幸いです。


229.「敗残の記」 投稿者:謙東弥  投稿日:07月03日(月)16時59分11秒

本屋さんで新しいビルマ戦記を見つけましたので、お知らせします。

「敗残の記・インパール作戦」才村勝康・著  文芸社・刊  税抜定価1000円
2000年7月3日発行
ISBN4−88737−920−X

上下二段組で500頁ですから、相当の文章量です。にもまして、1000円
という安い定価は???
きっと自費出版で、多くの方々に読んでもらいたいからでしょうね・・・
1987年8月の脱稿ですから、これまで13年間も温めておいたようです。
文章も読みやすいので、第三者による確かな推敲の跡がうかがえます。
巻末に1991年の烈師団烈衛会のコヒマ再訪の模様が記されています。
文字が小さいので、そろそろ老眼かな・・・というおじさんには
つらいものがありますが、これからじっくり読んでみることにします。


228.父 投稿者:窪田やよい  投稿日:07月03日(月)11時22分55秒

石井さん はじめまして。
hpご訪問&コメントありがとうございます。
父は特に専門家でもなんでもなく、ただ自分の体験を元にした文章ですから
論調が一方的になっているかもしれませんが、真実であることも間違いありません。
父の意見に共感していただけてとてもうれしいです。
父は今現在も元気で農業を営んでいます。強い意志を持った人です。
戦時中のことを想像すれば、戦前戦中の人々は私たちとは精神構造が違うのだなあ、とつくづく思います。


227.戦争犯罪 投稿者:石井  投稿日:07月02日(日)16時03分53秒

インパール作戦を読ませて頂きました。

日本の戦争犯罪を裁く時に、オランダの弁護士が言った事が胸に沁みました。
確かに南方進出は、日本資本主義の都合以外の何ものでも無いですが、結果は、
ビルマの独立に役立ったと言う事で、第二次世界大戦で亡くなっていった方たちの
命は決して無駄では無かったと感じ、涙が止まらなくなりました。


226.期待しています 投稿者:窪田やよい  投稿日:07月01日(土)23時30分09秒

>元特攻隊員の方の取材という貴重な機会を得ることができそうです。

興味深いお話ですね。
戦争のより深い部分のお話を伺えるときを楽しみにしております。
私の母の兄は、特攻隊員でグァム島で戦死しています。
兄さんの話をする時、母は今でも涙ぐんでしまいます。


225.特攻 投稿者:松下  投稿日:06月30日(金)18時02分17秒

まだ決定ではないのですがある経緯で元特攻隊員の方の取材という貴重な機会を得ることができそ
うです。何かの形でお伝えできれば幸いです。


224.勉強になります 投稿者:窪田やよい  投稿日:06月30日(金)13時39分20秒

松下さん ありがとうございます。
戦争とは本当に深く複雑な人間のドラマであり、後世の人間に様々のことを教えてくれるものなのですね。
私もできるだけ戦争の事を深く知り、自分自身を磨く一つの糧としたいです。


223.戦争を歴史とした学ぶにあたって 投稿者:松下  投稿日:06月28日(水)21時37分36秒

>戦地で戦った人々のことを思うと理屈抜きで感謝し畏敬の念を抱かずにはいられません。

私も戦記を幾つも読んで生き残って伝えてくださる方々に「生きて帰ってくださってありがとう」
と素直な気持ちで言えるものです。

昨今感じたのが前線で戦われた方々の立場と様々な国で民間人として被害を受けた方々の立場で
す。特に朝鮮半島などで行われた強制連行の事実です。両者の立場を同時に考えることで私は自己
矛盾に陥ったのですが、究極の歴史、戦争の議論とは「自己矛盾」を抱えることから始まるのでは
ないかと考えるようになりました。

原爆や強制連行があって、前線の兵士たちは「悪」という筋の通ったように戦争が解説されていま
すが、事実は違いますよね。今語られている歴史は「自己矛盾」をできるだけ避けて「一筋」の史
実として通したいために無理して語られていると思うのですがいかがでしょう。


222.ありがとうございます 投稿者:窪田やよい  投稿日:06月28日(水)10時48分23秒

matumuraさん、shogunさん はじめまして。
hpご訪問&コメントありがとうございます。

matumuraさん
お問合せの件については謙東弥さんからいただいたコメントでよろしいかと思いますが、いかがでしょうか。
(謙東弥さん、いつもありがとうございます)

shogunさん
     >私には彼等が「今を精一杯生きろ」と示していると、いつも思います 。
     >だから私は、いつも私の心に怠惰な気持ちが生まれたときに彼等のことを思いだし、
     >自分自身を戒め、また何でもできると励ましています。
父の体験談を読んでそんな風に感じてくださって感激です。
戦争に対する議論は様々ありますが、戦地で戦った人々のことを思うと
理屈抜きで感謝し畏敬の念を抱かずにはいられません。
当掲示板でも戦争に関する真摯な議論が多数寄せられていますので
過去の記録を是非ご覧になってみてください。


221.(無題) 投稿者:shogun  投稿日:06月28日(水)05時07分36秒

こんにちは、偶然このhpを発見し、窪田孝之助さんの体験を
興味深く読ませて頂きました。私にとって非常に学ぶべき事
の多い体験だと思いました。
私はまた、その他の体験談などをhpでよくよみますが、
いつも思う事は、人間はいずれ死と直面するものだから、今この一瞬
を一生懸命生きなければならないということです
。私も父を失くして早三年、日々忘れていく父の記憶のなかで、私が父にたいして特に親孝行もせず、至らなかった私の接し方を今更ながらくやんでおります。
戦争で亡くなった方々には、言葉にならない思いがあり、
彼等の苦労には本当に頭が下がります。しかし決して無駄ではなかったと思います。
今こうして我々が平和な暮らしをしているのも彼等のおかげだと思います。
また、私達も平和な気分に浸り過ぎているのも、異常なことと思います。
人間が生きている以上、争いはさけられないことであり、
死と直面することも当然のことである。彼等のことを偲ぶのは当然であるが
、私には彼等が「今を精一杯生きろ」と示していると、いつも思います 。
だから私は、いつも私の心に怠惰な気持ちが生まれたときに彼等のことを思いだし、
自分自身を戒め、また何でもできると励ましています。
戦場というのはまさに本当の人間をうつすものだと思います。このような体験を知り、自分を戒め努力させてくれることを彼等と窪田さんに心から感謝します。


220.竹田宮参謀に関して追記 投稿者:謙東弥  投稿日:06月27日(火)13時38分46秒

同書のP103に下記のような記述があります。

 旧日本軍の中では、指揮命令系統の徹底ということもあって、全ての将校に
 「序列」がつけられていた〜この「序列」にしたがって将校の名前が記されて
 いる名簿を「停年名簿」といった。「停年」とは、その階級、職位にどのくらい
 停まっていたかを示す年数で、人事上の基礎資料になっていた。

防衛庁の旧軍資料にこの「停年名簿」が現存すれば、
同書の写真資料に見るかぎり名前に○○親王などの記載もありますので、
竹田宮参謀の軍歴も載っていることと思います。


219.竹田宮参謀に関して 投稿者:謙東弥  投稿日:06月27日(火)01時56分58秒

ちょうど今日、角川文庫刊・「責任なき戦場 インパール」(太平洋戦争日本の敗因4)
という本を読んでいました。数年前、NHK取材班による番組が放送されたはずで、
本書はそれをもとに構成されています。以下は抜粋です。

「作戦決定への道」 P79
 ○インド侵攻作戦の兵棋演習
   昭和18年6月24日から4日間、ラングーンのビルマ方面司令部で、第15軍の
   インド侵攻作戦案について兵棋研究が行われた。この研究には、方面軍の軍司令官
   以下参謀全員、第15軍の軍司令官以下主任参謀全員、第15軍隷下各師団の参謀長、
   主任参謀が集まった。さらに、大本営から竹田宮、近藤伝八両参謀、南方軍から
   稲田正純総参謀副長が参列した。
   第15軍の作戦案は〜上級組織すべてから反対された〜危険性が高いと再検討を要請
   した〜牟田口司令官は承服せず、大本営から来た竹田宮参謀を演習終了後に訪ね〜
   竹田宮も補給の点で難色を示し〜竹田宮は帰京してからの大本営への報告でも同様の
   意見を述べ、大本営では真田穣一郎作戦課長らがむちゃくちゃな案だという感想を
   もったという。(〜の部分は省略・謙東弥)
   しかしビルマ方面軍の河辺司令官(牟田口の上司・注釈謙東弥)だけは違った意見を
   持っていた。その『日記』を6月26日の項から追ってみる。
   「〜夕食は竹田宮殿下の台臨を仰ぎ、将官の全員を相伴に招き〜席上牟田口司令官
    は大いにコヒマ・インパールに就いて、大本営幕僚たる宮田(竹田宮)参謀に
    ねだる所あり。殿下御機嫌麗しく還御」
   末尾の部分は『日記抄』では次のようになっている。
   「大本営幕僚としての宮田参謀に強請する所あり」
   「ねだる」と「強請する」では、牟田口司令官に対する書き手の気持ちが、
   微妙に違う。

注釈・謙東弥  河辺中将の『日記抄』は『日記』をもとにして戦後に書かれた
        もので、本書では、氏の保身、また部下の擁護、という目的が
        随所に感じられる、と指摘している。

ということで、牟田口司令官ひとりがインパール進攻を推し、他はすべて反対していた
という状況が描かれています。それが一転して作戦進行に至る原因も述べられていますが、
それは省略します。
お問い合わせの軍歴に関しては何もわかりませんが(ごめんなさい)、
防衛庁防衛研究所戦史室、防衛庁防衛研修所戦史資料室(同じ部署なのかはわかりません)
などでお調べになれば、と思います。


218.宮田参謀(竹田宮)の経歴について 投稿者:matumura  投稿日:06月25日(日)22時39分09秒

突然で申し訳ありませんが、インパール作戦開始前の時点で、大本営勤務していた宮田
参謀こと、皇族の竹田宮(戦後の竹田恒徳オリンピック委員会長)の軍歴をご存じの方、
もしくは軍歴について記載している書物についてご存じの方、ご教示下さい。よろしく
お願いします。


217.部隊の消息知りませんか 投稿者:小池昭輔  投稿日:06月12日(月)09時41分28秒

ビルマ派遣軍 林第7024部隊所属第5野戦輸送司令部
の消息を知って居る方は教えて下さい。
半世紀も前のことで記憶は薄れていると思いますがもしご
存じの方がありましたらお願いします。


216.たかさんへ 投稿者:謙東弥  投稿日:06月11日(日)14時24分20秒

インパール作戦に参加されたのなら、そして茨城ご出身でしたら、おそらく、
○烈・第31師団・東京編成
○弓・第33師団・宇都宮編成
のどちらかに所属されていたのではないでしょうか。
かの地ではたくさんの方々が飢えと病で倒れられたと聞きます。
また、敗走してチンドーウィン河やイラワジ河を渡河する際に、
たくさんの方々が激流にのまれてしまったそうです。


215.目的 投稿者:たか  投稿日:06月10日(土)21時18分00秒

 たくさんの情報を得ておじいちゃんに昔の記憶を思い出してほしいのです。
うちのおじいちゃんは茨城県の出身でインパールなどに行っていたのでそこの記憶を思い出して
もらいちょっとお話をしてもらおうかなと考えていますのでこれからもいろいろと教えてください。


214.ビラ 投稿者:窪田やよい  投稿日:06月07日(水)10時42分27秒

ビルマ戦線にいた父の話ではそういうビラがイギリス軍によって連日まかれたそうです。
いろいろなパターンがあって、日本の老母が息子の帰還を待ちわびる図柄のものとか
「私は元○○隊の○○中隊長であるが、投降しても屈辱を味わうようなことはなくとても優遇されている云々・・・」
といった文章のもの、
「死なずとも よかるべきビルマに身を投じ 馬鹿兵隊の名を残しけり」という歌が書かれたものもあったそうです。
これは中国の故事をうたった「死なずとも よかるベキラに身を投じ 馬鹿クツゲンの名を残しけり」という歌をもじったものだそうです。
他には、なんと御前会議の内容を綿々と綴ったものもあったそうです。
ビルマの地でそれを読んだ時は何をデタラメを書きやがって・・・と思ったそうですが、戦後になって正確な内容であったとわかった時
改めて連合軍の情報収集の手腕に驚かされたそうです。
日本が負けた要因の一つに、情報量の格差がまちがいなくありますね。
なお、母によると、戦時中日本国内にも降参を促す漫画的なビラがたくさんまかれたそうです。

ところでたかさん
これらの情報を何の目的でお調べになっているのでしょうか?
何かお役に立ちましたか?


213.困った困った・・・ん?ビラ? 投稿者:謙東弥  投稿日:06月04日(日)12時49分14秒

ビルマにはたくさんの大きな河川がありますので、具体的に、
どこの部隊か、どんな街に駐屯したか、など判明していれば
いいのですが、漠然としているので、困った困った・・・
とりあえず日本の約二倍の国土のビルマの西から東へ話を進めます。
◎チンドーウィン河 北西部を流れバガン付近でイラワジ河に合流
 します。流域の街はホマリン(ホームリン)やモニワ(モンユア)
◎イラワジ(エーヤーワディー)河 ビルマのほぼ中心を南北に
 流れ、北からミイトキーナ(ミッチナー)マンダレー、バガン、
 マグエ、ミンブー、プローム、ヤンゴン、ヘンサダ、
 などの街が発展しています。南部イラワジデルタ地帯とは、これが
 無数に枝分かれしているものです。
◎シッタン河 トングー(タウングー)、シッタンなどの街
◎サルウィン(タンルィン)河  パアン、モールメンなどの街
 
これらはビルマの国土を南北に流れ川幅が1q〜数qもあり、
雨季に渡河するのはたいへん危険で、数千〜数万の日本兵が
渡りきれずに流されて命果てました。東西方向への移動には、
インドへ行くにもタイへ戻るにも、必ずこれらの河川を渡らなければ
ならず、現在でも橋はぜんぶで3〜4箇所しかなく、船で渡河します。

ビラについては窪田さん、お願いします。
お祖父様にホームページを見せてあげてほしいですね・・・


212.ビラ 投稿者:たか  投稿日:06月04日(日)00時35分05秒

 おじいちゃんから聞いたのですが、日本軍の投降を促すために相手の国が日本の幸せな写真の風景などを飛行機から山にこもっていた日本軍に対して落としたのは本当のことなんですか。


211.知りたいことがあるのですが 投稿者:たか  投稿日:06月03日(土)22時24分34秒

 母方のおじいちゃんが戦友会などで集まり、その時お茶の容器を作ってもらいましたと言いました。
 模様は大きな川が描かれておりイギリスと戦った時の絵だそうですが何かわかることはありますか。
 あとその川の名前などを知りたいのですが情報をお持ちの方教えてください。


210.ビルマあれこれ 投稿者:謙東弥  投稿日:06月03日(土)10時29分41秒

モールメンは現在モーラミャインと名称変更になりましたが、人々は未だ
モールメンと呼んでいる、ラングーンから鉄道で南へ12時間ほどかかる
大きな街です。泰緬鉄道(タイのカンチャナブリとビルマのタンビュッザヤ間)
は映画「戦場に架ける橋」で有名ですが、そのビルマ側終点タンビュッザヤ
から北上するとモールメンに行き着く訳で、日本軍のビルマ侵攻の多くは
このルートを辿りました。また終戦前後にはたくさんの日本兵が敗走しタイ
へ逃れるため逆ルートを辿りました。戦後はモールメン近郊のムドンに収容所
が設置され、抑留時のエピソードが「ビルマの竪琴」の物語となりました。
また、モッタマ湾(アンダマン海)に面しているので、引揚船が着き、
日本への帰還を心待ちにしている兵士たちの順番待ちで、悲喜こもごもの
思い出を生還された方々が懐く街でもあります。現在は日本の慰霊団が多く
訪れる、緑の丘が印象的なすばらしい街です。

パゴダ(pagoda)とは、日本語でいうなら「仏塔」、ビルマ語では
パヤ(paya)、タイ語ではワット(wat)と呼ばれ、内部にお釈迦様
のお骨や遺髪、仏像仏典などが収納されており、人々は毎日のように詣でて
その前に跪き拝みます。特に有名なのは、タイでは王宮であるワット・プラケオ
や三島由紀夫が輪廻転生を描いた小説「暁の寺」のモデルとなったワット・アルン
など、ビルマではヤンゴンのシュエダゴン・パヤやマンダレーのマハムニ・パヤ
です。日本ではパゴダは寺院と同じと解釈されていますが、実際は違います。
日本の寺院はお堂に仏像を祀りご住職やその家族が寝起きする居住部もあり、
境内にはお墓もある、というのが一般的です。しかしビルマの上座部仏教では
僧侶は僧院(チャウン)で寝起きし修行もそこで行います。パゴダを建立するのは
一般在家信者で、ビルマでは功徳を積むことが美徳とされ、解脱に近づく道でも
あり、人々はこぞってパゴダを作ります。だからビルマの村々にはたくさんの
無名のパゴダがあります。それに関しては僧侶は関与せず、仏塔の完成式にのみ
出席して、日本でなら仏像に眼を入れる開眼式のように式典を執り行います。
年に一度、雨季の前にパゴダの金箔を塗り替えるため、在家信者たちは
パゴダ祭を開き寄付を募ります。屋台や演芸の小屋が建ち、有名なパゴダ
ならば大勢の人々が近隣はもちろん遠くからでもお参りにやって来ます。
パゴダはお釈迦様のお住まいですから、人々は門前から履物を脱ぎ裸足で
境内を歩きます。国民の8割が敬虔な仏教徒のビルマ人は、老若男女誰もが
パゴダにひれ伏して来世の安寧を祈ります。その後ろ姿を見ていると、
宗教心を忘れてしまった今の僕ら日本人が、なんだか恥ずかしくなって
しまい、心を揺り動かされてしまいます。ビルマの観光ツアーはすべて
このような有名なパゴダ巡りです。

モールメンやパゴダの写真は僕のホームページにあります。

http://member.nifty.ne.jp/biruma/


209.お答え 投稿者:窪田やよい  投稿日:06月02日(金)20時51分39秒

たかさん こんにちは
父の知っている軍医さんは飯田さんとおっしゃる方だそうで、広瀬さんのことはわかりません。
「モールメン」はビルマ南部の地名だと思います。本編にもでてきます。
パゴダのことも本編の拙いスケッチの中にありますのでご参照ください。
モールメン・パゴダについての詳細は
謙東弥さん、よろしくお願い致します。


208.インパール作戦 投稿者:たか  投稿日:06月02日(金)17時33分30秒

 こんにちは、私はおじがインパール作戦に参加し、話を聞いてちょっと教えてほしいことがあるので書いてみました。
 軍医の広瀬さんのことを知っている方はいますか。
 モールメンという言葉を知っている人はいますか
 パコダという塔について知っていることがある人はいますか。


207.武田さんのビルマ戦線 投稿者:謙東弥  投稿日:06月02日(金)10時55分57秒

先に紹介した「ビルマ反乱軍からの脱出」の著者、武田裕さんの体験ですが、
その作品の中から少々抜粋してみます。

◎15年戦争が侵略であるのを知り、私は反戦を固く誓った。
◎大変な被害であるのに、日本軍は全く記録を残していない。
 たかが反乱軍に千人もの兵士を殺戮されたのを恥として隠したのなら、
 敗戦の反省もない傲慢である。
◎昔の仲間に慰霊の旅でビルマへ行こうと誘われたが断った。敵弾によらず
 無意味に非業の死(病死や餓死)を遂げた仲間の怨念が、満ち溢れている
 と思うと怖いのである。

武田さんの戦争体験の根底にあるのは、
◎後方支援(食糧・武器・薬)のなかった皇軍に対する恨み
◎目の前で餓死してゆく仲間たちへ、自分だけ生き延びたという悔悟
◎終戦を3ヶ月後に知らされた無念
など、戦後55年を経てもなお複雑な胸中であることが、その文章から
推察できます。

飢えて死ぬ兵士に倫理観などありません。現地ビルマ人から強奪し、
死にかけた仲間のポケットを探り、白骨化した遺体から靴や服を剥ぎ、
敵味方の別なく殺してその人肉を喰らう者もあったことでしょう。
現実の戦争なんて、我々戦争を知らない世代が空想するような、
甘っちょろいもんじゃあねぇぞ・・・と前述の著作ではあざ笑っている
ように思えてなりません。その文中に確か、「空腹と飢餓は根本的に違う」
と記されていたように記憶しています。そう言われてみると、我々には
空腹感はありますが、飢餓感は体験したことがありません。


 

zenkai last

206.御利用感謝いたします 投稿者:窪田やよい  投稿日:05月31日(水)22時57分48秒

小池さん  掲示板にご登場いただきありがとうございます。
そしていつも当掲示板をチェックしてくださる皆様、本当にありがとうございます。
皆様方の意見交換、情報交換などに御利用していただければうれしいです。

だいすけさん
>多少兵士の教育水準を上げても、現場の論理で吹き飛んでしまう
>ようであれば、やはり戦争をコントロールするのは後方であって、
>国民が暴走しがちな軍事力というものをしっかり監視する目を
>持たなければ、となるのでしょうか。

兵士も指導者も含めた国民一人一人に教養が必要だと思います。
読み書き知識を得るための教育もひとつの方法ですが、
例えば立ち振舞いとか、人とのコミュニケーションの取り方とか生活全般にわたる文化的なもの
普遍的な倫理観を身につけることが重要だと思います。
最近のいろいろな出来事をみていると「教養」なんて言葉はブッ飛んでしまいますが。

 


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