過去の掲示板(その9)


「インパール作戦・父が語る戦争体験記」への感想を多くの皆さんに書いていただいています。今までの掲示板への書きこみ内容をまとめてみました。上から順に新しい書きこみとなっています。
なお、改行位置などは一部編集してありますのでご了解下さい

平成11年3月の掲示板開設以来のもの(No1〜63まで)は「過去の掲示板その1」をご覧ください。
No64〜99までは「過去の掲示板その2」をご覧下さい
No100〜172までは「過去の掲示板その3」をご覧ください
No173〜206までは「過去の掲示板その4」をご覧ください
No207〜250までは「過去の掲示板その5」をご覧ください
No251〜279までは「過去の掲示板その6」をご覧ください
No280〜321までは「過去の掲示板その7」をご覧ください
No322〜371までは「過去の掲示板その8」をご覧ください

ホームページ編集責任  窪田 幸唯 mailto:kubota@mxa.cosmo.ne.jp

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407.>難しい問題です。。。  投稿者:松下  投稿日: 7月12日(木)23時44分37秒

 

これは人間がすべて一つに丸めて単一の答えを出すことのできる問題ではないと思います。
ちょうど大学の時期にこういう時勢に乗ったことは一つの機会だと思います。多分この掲示板読んでいる方々も中々答えが出せずにいるでしょう。だいすけさんで答えの一つ、あるいは一つの答えを出してみてください。

私の大学時代の課題はちなみに、ベルリンの壁崩壊ー冷戦終結ー湾岸戦争、社会人一年目にしてバブル崩壊でした。あれから10年経過していますから、この教科書問題を含めたアジアとの諸問題が意外に大きな転換期となるやもしれません。

406.教科書問題 投稿者:窪田やよい  投稿日: 7月12日(木)23時35分49秒

 

だいすけさん お久しぶりです。
韓国を訪れて韓国内の雰囲気を直接感じられたわけですね。他国の人々との交流は相互理解と自己を見つめ直すための貴重なチャンスだと思います。

韓国では教科書問題が市民レベルでも大問題になっているのですね。
ご近所同士は関わりが深いだけ、対立する場面も多いですね。
それぞれの立場は相反するものだし国民性も違うので、双方の言い分が一致することは無理なのだと思います。ただ、誤解や偏見は避けたいものです。冷静に相手の意見を聞いて冷静にこちらの意見を言えたらいいのですが。

他国の人々と交流するときは(他国に限らず、人と接するときは)自分をよく知り語れることが前提になると思います。
今の日本人に自分の考えをちゃんと持ち相手に伝えることができるかな、と疑問です。例えば韓国のはっきりとした意思表示のパワーはすごいと思います。

405.難しい問題です。。。 投稿者:だいすけ  投稿日: 7月12日(木)03時22分57秒

 

ときどきこのサイトにお邪魔させて頂いています。先日、大学のゼミから韓国の姉妹校へ行く機会があり、そこで韓国の学生と討論会がありました。討論会自体は経済に関してでありまして、別になんともなかったのですが、その後、交流のときにまさか聞かれない、と思ってましたが、教科書問題、聞かれました。

だいぶん教科書問題が大げさに伝わっているようで、すでにあの教科書が大々的に日本中で使われているかのような理解でありました。

自分は『大空のサムライ』も何回も読んでおりますし、兵士の体験というのも凄くよく分かります。しかし、韓国の方々に植民地支配など多大な迷惑をかけたという事実があるというのもまたあると思います。でも、支配によって(例えばイギリスが植民地に与えたような)近代化の影響を与えたのもまた事実なのです(例えば土地制度改革などでしょうか)。

「あれが悪かった、これはよかった」などと切り離して考えられる問題でもないようにも思いますし、あの時代背景を無視していいだの悪いだの言うのもまた無意味です。ですが、例えば他国の方と話すとき、どうやって話したらいいのでしょうか?どういうスタンスで接すればいいのでしょうか?

K泉さんの靖国神社参拝にしたって、「A級戦犯よりも比べ物にもならない数の兵士の方々が眠っている」といえば、確かにそうで、日本国内では説得力を持つと思いますが、その理屈は諸外国にはどう受け取られるでしょうか。日本は資源のない国ですから仲良くするしかありません。

かといって、無条件にへりくだる、というのも違う気もしますし(彼らは被害者という立場があるので、理屈以前に感情もありますし、それは仕方のないことです)。このサイトの主旨は了解した上で、複雑な問題で、どう対処していいものやら、と思う今日この頃です・・・。

404.主旨 投稿者:窪田やよい  投稿日: 7月 3日(火)10時31分18秒

 

当サイトの主旨は何であるか、はっきりと意識したことはありませんでしたが
まず一つは一兵士の実体験を広くお伝えしたいことと、それをもとに戦争について多角的な視点からご意見をいただきたいということです。当方のスタンスは簡単に言うと「太平洋戦争は日本にとって正義であった」というものですが、基本的にはいかなるご意見も歓迎いたしますので、様々な視点からのご意見をお待ちしております。(誹謗中傷はご遠慮ねがいます)
一兵士の体験は事実に違いないし、よく言われる「残虐な行為」も事実だったかもしれません。それら事実を全てひっくるめて公平に客観的に「史実」として定義するのは困難なことだと思います。
教科書の記述について言えば、今までの教科書はあまりに「自虐的史実」に偏っていたように思います。日本のための歴史教科書であるべきだと思いますが。

403.つくる会 投稿者:松下  投稿日: 6月29日(金)22時14分59秒

 

「つくる会」とこのサイトの主旨とを明確に区別することがまず先決であると思います。
軍国主義が起こした戦争は国家の工業・経済力が大きなバックボーンとなり、その先手に兵士がいたに過ぎず、政治・工業・商業が成り立って初めて兵士が前線で戦ったわけであります。

久保田幸之助様の体験は大局の政治過程と戦争ではなく、弾丸飛び交う戦闘の経験であってこれを「つくる会」と比較対比するにはもう少し煮詰まった議論が必要だと考えます。
また生きて帰って頂き、この手記を公開してくださることにはむしろ何にも代えがたい感謝の他考えられません。

戦後私たちの国が一度も戦争を経験せず、とありますがペルーの日本大使公邸占拠事件ではペルー兵士の犠牲の上に日本人が救われ、湾岸戦争で救われた原油の利権は日本と無関係とは思えません。これも私と同年代であります多国籍軍兵士の犠牲の上に成り立っているものと思います。

軍国主義とはなんぞ?

402.当掲示板の趣旨をご理解ください 投稿者:窪田幸唯  投稿日: 6月28日(木)18時11分06秒

 

義一さん はじめまして
実際このサイトに記載されていること、リンク先の関口さん、小田さんのサイトをじっくりとご覧の上、再度書き込みをお願いします。実際の戦場でどのような心境で、どのように戦い亡くなっていった方々がいたという事実を見つめることが肝要かと思います。当掲示板の趣旨をご理解ください。

401.危険な教科書 投稿者:義一  投稿日: 6月28日(木)15時12分03秒

 

皆さん、現在日本で史実に反した知識の習得を児童に強要する「つくる会教科書」が世間に頒布されつつあります。太平洋戦争の負の部分の意図した削除は過去の戦争の動機への肯定に繋がりかねませんし、そもそも戦後50年、私たちの国が一度も戦争を経験せずに過ごすことができたのは、教育の現場で一貫して軍国主義完全否定の指導があったからなのです。私は日本共産党員として教科書反対・撤廃を強く主張します。もし宜しければ貴方の考え、ご意見をお聞かせ下さい。共産党員に限らずいかなる立場の方でも歓迎します。
http://www69.tcup.com/6924/iwaizako.html

400.感謝です 投稿者:窪田やよい  投稿日: 6月19日(火)15時54分16秒

 

makoさん、はじめまして。ご訪問&書き込みありがとうございます。
御祖父様は父より11歳も年長でいらっしゃるので、戦争末期に初年兵として参加した父よりも壮絶な体験をされたことと拝察いたします。リンクさせていただいている関口さん、小田さんの体験記も是非お奨めいたします。
このような真摯なご意見をいただきますと本当に心打たれます。ありがとうございます。うれしくてこちらも元気が沸いて参ります。立派な新聞記者さんになられますようお祈りいたします。
いつの日かインドへの旅路で得たものをお聞かせくだされば幸いです。

399.ありがとうございます  投稿者:mako  投稿日: 6月19日(火)07時21分16秒

 

私は今、新聞記者になることをを目指して勉強しています。私を大切に育ててくれた祖父もインパールの作戦に参加しました。生きていれば今年89歳ですが78歳の時亡くなりました。祖父は死の数週間前、高熱がでたり下がったりでとてもつらく、医者に「マラリアではないのか、これはマラリアに罹っているのではないのか」となんども聞いたようです。祖父はあまり戦争について語らない人でしたが当時のことを七五調にまとめていました。このホームぺージは祖父が語らなかったところまで詳しく書いてあり、祖父とは違う部隊であっても「おじいちゃんもこうだったんだろうな」と涙ながらに読ませていただきました。秋の試験に合格した暁には、10月からタイから入ってインパールを通ってインドのデリーまで旅に出ようと思っています。その参考にもなりました。あと、掲示板で若い人が戦争について語り合っているのにも驚きました。私ももっと勉強したいし考えていきます。ありがとうございました!・・・・「蟹缶をくすねた味よマンダレー」・・・

398.消息 投稿者:窪田やよい  投稿日: 6月13日(水)14時25分25秒

 

小松沢一郎さん、ご訪問ありがとうございます。
身内の方の消息を尋ねられることが度々あります。が、残念ながら当方には有益な情報がなく心苦しい思いをしております。以前この掲示板に寄せていただいた情報ですが、防衛庁の「防衛研究所図書館」というところに問合せてみると確かな情報が得られるようですので、ご提案いたします。
ビルマについて詳しい方々がいらっしゃるのでとても心強いです。
(謙東弥さん、いつもありがとうございます)
ビルマ訪問の際の良き参考になることと思います。叔父上様の慰霊が無事に遂行されますよう、お祈り申し上げます。

397.トンザン 投稿者:謙東弥  投稿日: 6月12日(火)11時06分43秒

 

弓歩213(弓6822)部隊に関しては、旺史社刊・松崎敏郎著「ビルマ戦線を往く」にたびたび出てきますが、読むと日本軍は、昭和19年末にはインパールから既に撤退し、チンドーウィン河を越えモニワ周辺にあったようです。
トンゾンという地名は、たぶんトンザンではないかと思います。
ビルマのチン州北部のトンザン(Ton Zang)は標高1500メートルほど、マニプール河から約10キロほどの地点であるようです。
外国人の自由な入域は未だ許されておらず、行かれる場合はビルマ外務省の許可が要り、軍人またはガイドの同行のもとに行動しなければならないかもしれません。
目的は慰霊ですので許可されることと思います。
現地ヤンゴン(ラングーン)の旅行代理店にコーディネートしてもらうと、簡単です。

2001年初頭にチン州を旅行された写真家・後藤さんのサイト「エーヤーワディのほとり」にチン州各地の現在の写真が掲載されていますので、ご覧ください。
http://www.ayeyarwady.com/

http://member.nifty.ne.jp/biruma/

 


396.歩兵213連隊第8機関銃中隊 投稿者:小松沢一郎  投稿日: 6月11日(月)01時12分04秒

 

私の叔父(小松沢龍二)は弓部隊(歩兵213連隊)第8機関銃中隊に所属しておりました。昭和19年12月31日にビルマ国トンゾンで戦死しましたが、どなたか知り合いの戦友はおりませんでしょうか。遺骨は戻りませんでしたので、私は近い将来トンゾンへ行って、せめて土だけでも持って帰り、両親と一緒の墓に入れてあげようと思っています。もし、叔父のことを知っている方がおりましたら、お話しを聞かせて下さい。お願い致します。
連絡先:matthew@yomo.net 小松沢一郎 茨城県稲敷郡阿見町追原698

395.外交戦略 投稿者:窪田やよい  投稿日: 6月 6日(水)10時32分50秒

 

帝国華撃団さんありがとうございます。
戦争体験について口を噤む体験者もいらっしゃるようですが、父は昔からよく話してくれました。
きっと自分の中で正義を確信しているからではないかと思います。
戦争そのものは悲惨で残酷で忌むべきことですが、その当時の世界情勢の中では避けることができない「正義」だったのだろうと思います。自国を守るため。
現代は人命は張った戦いではなく、頭脳を働かせ戦ってもらいたいと思います。
世界の動向をよく見極め、日本のあり方をよく見極め、かしこい外交を行ってほしいと思います。

394.真実の記憶 投稿者:帝国華撃団  投稿日: 6月 3日(日)19時04分27秒

 

こんにちは。
私の祖父も太平洋戦争で徴兵され、大陸に出征した一人でした。
詳しい話は聞いていないのですが、ビルマ周辺へ送られたとの事でした。
私の祖父も大陸を通っていったはずなので、お父上ともひょっとしたら
どこかで顔をあわせているかも知れませんね・・。しかも、私の祖父も
戦いのさなか、敵軍の機銃掃射にあい、重傷を負った、という事でした。
その弾丸が、終戦後も体内に残っていた、とも聞きました。
でも・・その時機銃掃射を受けて重傷を負ったおかげで、内地送還され、
一命も取り留めたのですが・・。もしあれが無かったら、あるいは遠いビルマの地で、散華していたかも知れません。
その祖父も、ついにこの世を去りました。もっと詳しく、戦争の体験について聞いていれば良かったと思います。しかし、私はたとえこれだけの記憶でも・・決して、忘れないつもりです。また、たとえ聞いたとしても、祖父はあまり話さなかったと思います。話したくない、何かがあったのかも知れません・・。
戦友の死も・・恐らくは経験したに違いないでしょう。
これからの世の中、戦争体験を残し、伝える事は困難を極めるかと思われますが、これよりもぜひ、この事を伝え続けていって下さいませ!
・・・例え一人でも・・・私のように何か感じて、戦争について、考えてくれることはとても大切で、有意義な事であると思います。たとえ最初は一人でも・・・こういったサイトのある限り、いつか皆が戦争と平和について考えてくれると信じます!
頑張って下さい!!

393.事実の記録 投稿者:窪田やよい  投稿日: 6月 1日(金)13時51分47秒

 

帝国華撃団さん、ご訪問&書き込みありがとうございます。
実際の戦争体験者は減少するのみで、あの戦争が実際にはどんな戦争であったのか事実が不透明になっていく中で、ほんの拙い体験記ですが記録に残すことができよかったと思っています。
無名の下っ端の一兵隊が戦後一般的な暮らしの中で記したものなので、なんの団体に属するわけでもなくなんの思想的思惑があるわけでもなく、比較的客観的事実であると思います。
それを読んでいただいてなにか感じていただけることはとてもうれしい限りです。

392.拝見いたしました! 投稿者:帝国華撃団  投稿日: 5月31日(木)08時54分49秒

 

はじめまして!
インパール作戦、拝見いたしました。私も太平洋戦争についての深い知識はないのですが、このインパール作戦がどういう作戦だか、ちらとだけ聞いた事はあります。何でも大陸での戦況を有利にする為、遠い南方に陸軍を派遣したけどその内容は悲惨なもので、まず、武器弾薬はおろか食料の補給がなく、行軍は徒歩で、しかもその道のりは非常に険しい山ばかりで、現地についた頃には日本軍のほとんどは半病人のような状態だったとか。
で、空腹に関しては「気合で何とかしろ」という作戦だったと聞いています。
最初聞いたときはピンとこなかったのですがまさか本当だったとは・・。
それで、空腹に耐えかねた日本兵は、ついには同胞の屍を食した、とも聞きました。
しかしその屍には肉がなく、骨と皮だけでハエがたかっていたというのも聞いた事があります。私は戦争は知りませんが、今の日本では到底考えられない事ですね。
この作戦は本当に悲劇だと思います・・。「神風特別攻撃隊」もそうですが。
いや・・本当に悲惨なのは、戦争そのものだったのですね・・。戦争ほど、悲惨で残酷なものはないと思います。ここのHPを見て、あらためてそういった事について考えさせられた気がいたします。今、先の戦争の事も遠い昔の記憶として忘れられようとしていますが、私たちは、決してそれを忘れてはならないと思います。戦争で尊い犠牲となられた英霊達の為にも・・。また、この悲劇を二度と、繰り返さない為にも・・。
この「インパール作戦」を見た時は衝撃的でした。ついさっきまで、一緒に話し、共に行動していた仲間が目の前で殺されるなど、私だったら気が狂います・・確実に。
私たちは、今の平和をずっと守り通さなければならない、戦争などおこしてはならないと強く感じる事が出来ました。ありがとうございました。

391.意見交換 投稿者:窪田やよい  投稿日: 5月30日(水)16時03分29秒

 

サガさん、はじめまして。ご訪問&書き込みありがとうございます。
皆様の心に何か一石投じることができたとしたらとてもうれしいです。
私も戦争についての知識が乏しく、そしてこういう父の影響を受けていますから偏った認識しかないのかもしれませんが、靖国神社参拝問題、歴史教科者問題が取上げられるたび、不愉快な思いがいたします。どうしてよその国から文句を言われなければならないのか、どうしてそれを問題として取上げるのか、彼我の国で歴史認識に食い違いがあるのは当り前ではありませんか。
・・・といった意見交換の場にしていただきたいと思いますので今後もよろしくお願い致します。

 


390.(無題) 投稿者:サガ  投稿日: 5月30日(水)03時04分44秒

 

大変興味深く読ませていただきました。
私は現在29歳で、戦争をまったく知りませんが、これらのページを読むと、どんな状況だったか想像しただけでも、大変心が痛みます。
最後の東京裁判に関するエピソードも興味深いです。
現在も残る、靖国神社参拝問題、歴史教科者問題が私には全くわかりませんでしたが、少しわかりました。
ありがとうございました。

389.第15軍 投稿者:窪田やよい  投稿日: 4月29日(日)15時47分57秒

 

岡村さん はじめまして。
ご指摘ありがとうございました。確かに「第15軍」のまちがいでした。
訂正いたしました。またなにかお気づきの点がありましたらよろしくお願いいたします。

388.(無題) 投稿者:岡村修一  投稿日: 4月28日(土)23時19分35秒

 

文中に3個師団からなる「第33軍」とありますが、「第15軍」のまちがいではありませんか。第15軍(牟田口中将)は、第33師団、第15師団、第31師団で構成されていたはずです。

 

387.皆さん感謝いたします. 投稿者:こうじ  投稿日: 4月26日(木)22時43分22秒

 

皆さんの助言大変有り難く思います。
ただ今のところ、別の掲示板の方に教えて頂いた方法で進めてみようかと思います。
と言うのもその情報を頂いた方は現在厚生省にお勤めの方なのです。

また、皆様からも良い方法があればお聞かせ頂けると有り難いと思います。
大変お世話になります。

386.水筒の件 投稿者:謙東弥  投稿日: 4月25日(水)06時30分06秒

 

ネットで水筒の画像を拝見しました。綺麗に保存されていますね。
その持ち主の方を想像すると、なんとも複雑な心境になってしまいますが・・・
ビルマ中部のメイッティーラ(旧メイクテーラ)で、戦友会の方々が建立された、ナガーヨンマハボディ・パゴダ(世界平和塔)を参拝しましたが、ガラスケースの中に遺品が展示されていました。錆びた鉄兜、家族の写真・・・涙が止まりませんでした。

こうじさんが入手された水筒が、ご本人か遺族の方の元へ里帰りされることを祈ります。

1942年には日本軍がビルマへ侵攻していますので、ビルマ戦線での遺品という可能性もありますね。以前にビルマ中部マンダレー近郊のイラワジ河流域の村で、パース(豪西部)に住むオーストラリア人と話をしました。僕と同年代の旅行者で、彼の伯父さんはビルマ戦線で亡くなられたとのことでした。戦勝国そして敗戦国、という言葉では簡単に言い表せない様々な思いが、両者の間にはあるのでしょうね。

北海道新聞(公称80万部)でよければ、下記の通りです。
〒番号 060−8711  札幌市中央区大通西3丁目

http://member.nifty.ne.jp/biruma/

 


385.水筒 投稿者:松下  投稿日: 4月24日(火)23時19分14秒

 

検索したら水筒の実物が出てきました。飛行機でさえその分類やメカニズム詳しくないのに水筒となるとなお。。。
http://members.nbci.com/shunpartx/canteen/canteen.htm

 

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/lebens/L_wiking/JAS94KS1.htm


384.(無題) 投稿者:松下  投稿日: 4月24日(火)23時11分49秒
 

94式甲 -- は昭和9年制定の製品。
昭和17年というとオーストラリア・ニュージーランド軍も戦闘に加わっていますが、陸上戦闘の範囲は広大です。オーストラリア近辺ではニューギニア島のブナから東端がガダルカナル、動員された日本軍関係者は数万どころではないと思いますよ。
アメリカである知人が、その父君がビルマ戦線から持ってきた日本軍刀を私に見せてくれました。できたら家族の元に返したいと、柄を抜いて中茎(握る部分)の名を見せてくれたんですが「これは多分製作者の名だ」と説明したことあります。


383.補足です 投稿者:窪田幸唯  投稿日: 4月24日(火)21時45分01秒

 

こうじさん はじめまして(我家の次男は幸司です)
水筒の件ですが、名前の他の手がかりはあるのでしょうか
どのあたりの戦線だったかとか、部隊名あたりがないと皆目見当がつかないと思うのですが
こうじさんの思いは十分わかります。日本人として、水筒とはいえ、戦った方々の遺品がこのような扱いを受けていることは悔しい思いです。
戦利品として我軍の遺品を戦勝国軍は様々な品を持ち帰っているような話も耳にします。
最終的にはどこかの記念館などに収集するという手もあるかもしれないですが、実際関係者の方の手元にどうやって届けたらいいのか手段には見当がつかないと言うところです
どなたかお知恵をお願いします

382.水筒について 投稿者:窪田やよい  投稿日: 4月24日(火)10時24分18秒

 

こうじさん はじめまして。ようこそいらっしゃいました。
それは興味深いお話ですね。
是非関係者のもとへ届けてあげたいですね。
日本の新聞社とかTV局とかマスメディアに持ちかけてみる、というのはいかがでしょうか。
新聞社(地方紙)にツテがなくもないですが・・・。

381.助言求む!! 投稿者:こうじ  投稿日: 4月23日(月)22時30分45秒

 

初めての書き込みです。どなたか助言を頂ける方からのご連絡をお待ちしております。
私オーストラリアに在住しているんですが、先日とあるアンティークショップにて旧日本軍で使用されていた94式甲(乙)下士兵水筒を発見しました。ただそれだけならば見過ごしてしまうところでしたが、ちょっと気になったものでよくよく見てみると持ち主と思しき人物の氏名が水筒の側面に刻み込まれていたのです。製造年を確かめると昭和17年、西暦1942年にあたります。刻まれた名前も当時のもの(その時に刻まれたという意味で・・・)、カタカナで表記されています。

とにかく、こんなものがアンティークショップのショーケースに入っていると言う事が居たたまれなくなり後先考えずに大枚をはたいて購入してしまいました。

そこで思い付いたのが、この水筒を持ち主、若しくは親族に返すと言う事なんですが、いかんせんここはオーストラリア。資料も何もありません。名前は解っています。でもどのように探したらいいのか解りません。どなたがいい知恵をお貸し下さい。

この水筒は私が持っていてもただの古い水筒で終わってしまいますが、本人若しくはご親族の方々にはかけがえのない品に違いありません。どなたか力をお貸し下さい。

380.メールを 投稿者:松下  投稿日: 4月17日(火)18時51分35秒

 

いえいえ、今までのメールを見ていたところ、その通訳担当様からのメールがあったので思い出した次第です。私もラングーン駐留経験を持つ元航空隊員の方をメールでご紹介したのですが特にその後連絡なしだったので暫く忘れておりました。
通訳ですか、塩山でしたら(当方相模湾)赴いて実現できたかもしれません。軍事用語と地理をちょっと勉強して。

379.Re.取材 投稿者:窪田やよい  投稿日: 4月17日(火)12時59分22秒

 

すみません、連絡がおそくなりました。
実は通訳氏の都合がつかず、取材の件はキャンセルとなってしまいました。
2月末頃の話です。はっきりと日にちまで決まってからのドタキャンでしたのでこちらも意気消沈してしまいましてココに掲載する気にもなれませんでした。
気に掛けていてくださってありがとうございます。
私達も楽しみにしておりましたのでとても残念でした。

378.取材 投稿者:松下  投稿日: 4月16日(月)14時18分09秒

 

ところで孝之助様は外国メディアの取材、お受けになったのですか?

377.Re.ビルマ人の感情 投稿者:謙東弥  投稿日: 3月26日(月)13時58分06秒

概ね、好意的に受け取っていると思います。
ただ、僕は戦後の生まれですし、知り合うビルマの方々も戦後世代が主ですから、戦争に関して話し合うという機会はあまりありませんので、本当のところはどうなのか・・・よくわかりません。
アジノモトやヒタチをはじめ、様々な日系企業の商品が、市場で目につきます。
日本と同様、戦後世代が大勢を占めている現在、過去の戦争というものは、
歴史の教科書の一ページでしかないのかもしれませんね。
また、上座部仏教が篤く人々の心に浸透している国ですから、過去の罪を許す、人を赦す、ということなのかもしれません。
現在の日本・日本人に対する感情としては、経済大国という羨望、そして遠来の旅行者を手厚くもてなそうという、たいへん親切な方々ばかりの、また行ってみたくなるような素晴らしいビルマ人ばかりです。

376.ビルマ人の感情 投稿者:窪田やよい  投稿日: 3月26日(月)13時36分05秒

 

謙東弥さん お久しぶりです。書き込みありがとうございます。
戦争の名残がまだあるのですね。というより、消滅しつつあるというべきでしょうか。
ビルマの人々の日本軍、日本人に対する感情はどんなものなのでしょう。

375.ビルマの人捜し 投稿者:謙東弥  投稿日: 3月25日(日)10時12分35秒

 

お久しぶりです。19日にビルマより帰国しました。
ビルマの首都ラングーンから車で3時間ほど北上したプロームに住む残留兵・吉岡徳喜氏を
訪ねましたが、昨年9月に90歳でお亡くなりになり、娘さんに案内されてお墓にお線香をお供えしてきました。
ビルマ中部マンダレーから北へ車で3時間ほどのモンユアでは、日本人墓地に参拝してまいりました。弓部隊の生還者の方々が建立された碑です。墓地から車で5分ほどの繁華街に、戦後47年間も暮らしていらっしゃる日本人タツノ婦人を訪ねました。
そこで弓部隊の方々が作られた「墓参者ノート」に記帳させていただきました。
ノートを見ると、たくさんの日本人がここを訪れているのですね。
モンユアからさらに車で2時間ほど北上したシュエボーでは、繁華街を歩いていて、突然ひとりのビルマ老人に声をかけられました。76歳のモンモンさんは、1942〜43年にかけてラングーンのビルマ人幹部候補生として日本軍の軍事教育を受けたそうで、当時のビルマ語教科書や、ビルマで作られた軍刀を見せていただきました。また、18年前に軍隊時代の上官の日本人がモンモンさんを探しに、マンダレー近郊のミンムへ来られたそうですが、モンモンさんはすでにシュエボーへ転居しており、逢えなかったそうです。
ミンムに住む友人のモンチさんがその日本人の住所を控えていて、後年知らせてくれたそうで、僕は頼まれて静岡に住むらしいその日本人に手紙を書くことになりました。
モンユアからさらに車で1時間ほど北上したキンウーも訪れてみました。
「ビルマの竪琴」のモデルとなった中村一雄氏(作家・武者一雄・「ビルマの耳飾り」「ビルマの星空」などの著書あり)が建立された慰霊碑が、ロカマルゼイ・パゴダの境内にあり、参拝させていただきました。
僧院のご住職は90歳、「ごはん、たべるか」「いわた班長」「どこ行くか」などとカタコトの日本語を覚えていらっしゃいました。ご住職もきっと、日本軍の軍属として働いていらっしゃったのでしょう・・・
また、シュエボーでは若いビルマ人が旧日本軍の施設を案内してくれました。
今は学校として使われていますが、建物は当時のまま、日本兵の幽霊が出るそうです。
たくさんの親切なビルマ人に案内されお世話になり、無事に帰国することができました。
慰霊の旅ではないのですが、今回はどういう訳か、戦争に関わることが、ついてまわりました。何かの因縁なのでしょうね、きっと。

http://member.nifty.ne.jp/biruma/


374.慰霊の旅 投稿者:窪田やよい  投稿日: 3月18日(日)22時48分51秒

 

arataさん、はじめまして。ご訪問&コメントありがとうございます。
戦争のことについてあまりに無知の人々もたくさんいますが、この掲示板にコメントいただく方々のようにとても関心の高い人々もたくさんいて私自身よい刺激とさせていただき感謝しております。様々な貴重なご意見が寄せられておりますので、是非ご覧ください。

さて、体験記の主であります父・孝之助はこの度、兄(私にとっては伯父)の慰霊の旅に行って参りました。本文にもありますがこの伯父は父の長兄で昭和19年25歳の時グアム島にて戦死しました。山砲隊でした。玉砕だったため戦死した状況も場所もわからないままですが、ひっそりとした小高い丘の上に線香を手向けてきたそうです。長い間気に掛けていた課題を済ませ、今安堵の気持ちでいるようです。
観光ツアーで行っている他の若い日本人達が戦争とは無縁の平和な姿であること(レジャーで行っているのだから無理も無いのだけど)、そしてグアム島がそういう日本人向けの商売用にその部分だけ人工的な商業的なつくりになっているのが気になったようです。

373.体験は大切にしたいです 投稿者:arata  投稿日: 3月18日(日)04時49分23秒

 

私はまだ30代の若輩者ですが、体験記を読んで感じるものがありました。
海外旅行が好きでいろんなところに行っています。カンチャナブリーにも
行きまして、イギリス軍の墓も見ました。たまたまそこで一緒になった
ツアーの(私は一人旅)日本人のおばさん達が驚いていたのが印象に
残っています。学校の歴史教育では内容以前に現代史まで辿り
付きません。またこれは邪推ですが論争に巻き込まれないように
わざとたどり着かなくしているのかとも思っています。

 最近ではアメリカと戦争をした事さえ知らない若者が増えて
いるそうです。真珠湾のアリゾナを見てなんでこんな所に船が
沈んでいるのと発言して顰蹙を買った人もいるそうです。

 事実をどう考えるかは人それぞれですが、事実を知らなくては
話すら始まりません。今日本は平和で、海外旅行も自由に出来ます。
しかし世界には明日の糧さえままならない人がたくさんいます。
もう少し真剣に考えてみる事が必要ではないでしょうか。

 そのような機会を提供してくれるこのwebサイトに感謝します。

372.続大空のサムライ 投稿者:窪田やよい  投稿日: 3月 1日(木)22時39分56秒

 

続けて「続大空のサムライ」を読みました。
爽快感です。ひとつの事に精通したプロのあるべき姿を見せてもらいました。
プロの誇り、意地、果てない探究心、そうですよね!
心洗われる思いでした。
今の時代これだけのプロがいるでしょうか。政治のプロ、教育のプロ、医療のプロ・・・等々。
こんな平和で豊かな時代に(だから?)私達はまごまごしていてはいけませんね。
今の平和を身を持って築いてくれた先人達に私達は理屈抜きで感謝しなければなりません。
先人に恥じない暮らしをしなければ・・・。

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