過去の掲示板(その12)
「インパール作戦・父が語る戦争体験記」への感想を多くの皆さんに書いていただいています。今までの掲示板への書きこみ内容をまとめてみました。上から順に新しい書きこみとなっています。
なお、改行位置などは一部編集してありますのでご了解下さい
平成11年3月の掲示板開設以来のもの(No1〜63まで)は「過去の掲示板その1」をご覧ください。
No64〜99までは「過去の掲示板その2」をご覧下さい
No100〜172までは「過去の掲示板その3」をご覧ください
No173〜206までは「過去の掲示板その4」をご覧ください
No207〜250までは「過去の掲示板その5」をご覧ください
No251〜279までは「過去の掲示板その6」をご覧ください
No280〜321までは「過去の掲示板その7」をご覧ください
No322〜371までは「過去の掲示板その8」をご覧ください
No372〜407までは「過去の掲示板その9」をご覧ください
No407〜456までは「過去の掲示板その10」をご覧ください
No458〜483までは「過去の掲示板その11」をご覧ください
ホームページ編集責任 窪田 幸唯 mailto:kubota@mxa.cosmo.ne.jp
>本当にそう思っているんですか?
自身も小5くらいまでそう思っていました。
たまたま父が買ってきた「教科書では教えない歴史(だっけ)」という本を読んでからその考えが変わったのだけれど。
こう書くとなんかカナリ嫌なんですけど、頭の良い子と頭の悪い子とで全然違うんですよ、社会に対する考え方が。頭悪い子は学校での先生の考え方&ワイドショーってカンジが多いのだけれど良い子は逆。一応今はそこそこのレベルの進学校なんで学校がどんな教え方してても大体の子は自分の考えをもっています。去年「小泉首相の靖国神社参拝」について書かされた時も7割くらいの人が「8月15日に参拝すべきだった」と書いた時に『君らはタカ派か?』と聞いたような学校ですけど。
近代史らへんは塾で詳しく習いました。学校では時間がたりず、日露戦争くらいで終わってしまいました(あとはプリントが配られた)。入試に出るのはこれから先が良く出ると言うのに!!と思ってたのですが。
日本語変でごめんなさいぃ〜〜〜(汗)ちゃんとした言葉が使えるように努力はしているのですが・・・・・・
当サイト管理人の窪田です。戦死兵の孫さん はじめまして
同様な問い合わせがたまにあるのですが、以前この掲示板に寄せていただいた情報があります
防衛庁の「防衛研究所図書館」というところに問合せてみると確かな情報が得られるようですので、ご提案いたします。
様々なやりとりがこの掲示板で行われていることに感謝いたします
最近は物騒な世の中になってきています。安全を守るには自己防衛しかないのが個人でも国家でも同じかもしれないですね。相手になめられたらダメ・・・とか
安島隊ですか。御免なさい。まだまだ勉強不足で知りません。友人が勧めてくれた伊藤正徳著の「帝国陸軍の最後」全5巻をやっと見つけて注文出来ました。(未だ届きませんが)何か分かりましたらお知らせします。
私の祖父はビルマ戦線で戦死したと祖母から聞きました。
安島隊の龍6735部隊に所属していたそうです。松本秋男といいます。戦死後は2階級特進で
曹長だったのでおそらく生きていた時の階級は伍長あたりではなかったかと思います。
何か安島隊に関する情報を知ってる方がいらっしゃったら教えて下さい。
そーですね、私の時代は、太平洋戦争の記述は開きで2ページでしたよ、ミッドウェー
原爆投下ぐらいでしょうか? 記憶に残る単語は・・・ なぜ単発単装の38式歩兵銃だったのか
なぜ防弾皆無の飛行機だったのか? なぜ補給、医療を安く見たのか? なぜ学歴優先主義の大本営参謀達が無能だったのか出ていませんでした。 これは25過ぎてから、いろいろ読み漁りやっとイロイロ分かる様になりました。 ソシテ日本人は弱くなかったんだ、悪じゃなかたんだと知りました、生まれて初めて心の底から、何とも言えない勇気と民族の誇り?のような物が湧き上がってきて、しかたありません。 おっとひとり熱くなりすぎたようです、寝ます。
横浜の旅人さん、多分、メークテーラーにも又立ち寄ると思います。此処で父の部隊は格別の激戦に遭遇し、多くの戦友を失い又自らも惨敗兵となり現地の方に命を助けて頂いた場所です。又行きたいと思っています。
やよいさん、本当に日本の教育はどうなっているんだろうか、と思いますよ。私だってインパール作戦については殆ど知らず、何も教わっていません。大学で真珠湾攻撃をアメリカは事前に知っていたみたいな事は学びました。でも太平洋戦争について、愚かしさについて、如何に精神論だけで戦ったか何て学びませんでした。知らなければ、学ばなければ先には進みませんものね。
この夏は韓国に行きますので韓国の若者達と話が出来るチャンスが有ればと思います。頑張れ、若者。レポートが読んでみたいなぁ〜。
藍沢桔梗さん、はじめまして。ご訪問ありがとうございます。
宿題はいかがですか?
丁寧に読んで頂いてうれしいです。これが全てではありませんが、一兵士の一事実として捉え歴史認識の一助としていただければ幸いです。
>自分達のおじいちゃんおばあちゃんたちはいけない人たちだと思っている。
本当にそう思っているんですか?アンビリーバブル!情けない。悔しい。悲しい。
学校で本当にそう教えられた?そもそも近代史(世界大戦あたり)をちゃんと授業した?
私は学校の先生にそのあたりを教えてもらった記憶がないのですが。
来年も行きますか、私は他の激戦地を目指す所存であります。 ガ島、他太平洋の島々か、
中国大陸奥地、です。 もーとことん行きます。 それとメークテーラーには寄られますか?
私はHPのソフトを購入したし、HPのお家賃も月々400円払ってます。何と、探せば無料で出来るんですね。お若い方、見直しました!
ミャンマーは横浜の旅人さんのおっしゃる様に「人がイイ」んです。是非行ってみて下さい。私は来年も又慰霊巡拝団に同行させて頂くつもりです。
それを言っちゃおしまいよ。 私は33歳です。 君は若いから是非一度行ってみな
タイから一時間だからね。 ヨーロッパもアメリカも良いが、どこか有色と言われる人にゃ
つめたいんだよね。 ミャンマーは政治は悪い? が人はいいですよ。
私は横浜市に住んでいる高校2年生です。
ゴールデンウィーク中の宿題(しかも何故か英語)として『ミャンマーの歴史と現状』を調べ、400字以上にまとめよという事となり、ここのページを訪れました。
体験記ですが、まるで映画でも見ているかのようにその情景が頭の中に映し出されてマウスを握る手に汗を掻いていました(笑)ホントに映画になってたらどうなんだろう…
それに色々な事の原因が知れて嬉しかったです。歴史的に何が起こったか、というのはもちろん中学校で習いましたが、何しろ『受験のための勉強』みたいなものなので詰め込み詰め込みですから。(まあ私はそれもちゃんとやってなかったような気も…げふんげふんι)
今の日本の歴史の教科書は間違っていて、学校の先生の教えることも間違っていて。
自分達のおじいちゃんおばあちゃんたちはいけない人たちだと思っている。
事実を知るのは社会のことに興味のある子供たちだけ。
だいたい、日本の子供の好きな国第1位が日本じゃないってだけで問題だと思いませんか?
>横浜の旅人さん
ちなみに私もHPを作っていますが、私はソフトも使わず、無料スペースを使っているのでソレにかけているお金は"0円"ですよ。もしそれが難しかったらフリーソフトもありますし、探してみては?
おじいちゃまがインパールに行かれたと言う事はギャロさんはお若いんですね。こちらこそ、初めまして。うちの娘(中3)が「インパール従軍記」を読もうかと言ってましたがもう少し歴史を勉強してからにしなさいとアドバイスしました。
昨日「ブラック・ホーク・ダウン」を観ました。ソマリア戦を事実に基づいて描いた映画です。何故、あの青年達があそこで死ななければならなかったか?戦争とは酷い悲しいものです。
はじめまして、僕の祖父もインパール作戦に行った一人です。
以上
始めて創った拙きHPをご覧下さり有り難う御座いました。それだけミャンマーにハマってしまいました。何と摩訶不思議な国でしょう???
HPはソフトを使えば簡単に出来ますよ。但し、ソフトを購入するには大枚6000円程掛かりました・・・。それにADSLじゃないとアップするのに相当時間が掛かる様です。
ニックネームはもう1つ、『麗小丹』と言うのもあります。女性に親しみを込めた良い名だと中国通に褒められました。横浜の旅人さんのシャオリンもいいですね。
謙東弥様のHPは何度も拝見しました。ミャンマー通ですね。尊敬!父の名はもう少ししたら、と言う事で。
たしか中国語でみっちゃんとかよっちゃんとか親しみ易い女の子を意味するとか・・・
ホームページみましたよ、嫉妬ですなぁー 私はホームページの作り方なんてさっぱり
ですわ・・・・・
新井様
お久しぶりです。
ホームページを拝見しました。
お父様のお名前があると、うれしいですね。
さっそく、こちらでも紹介させていただきます。http://member.nifty.ne.jp/biruma/
皆様、お久しぶりです。新井ですが私もニックネームを使うことにしました。香港の友人が付けてくれた小麗にします。以後宜しくお願いします。
夢のADSLになりましたので3月のミャンマー旅行をHPにしました。お暇な折りにでもご覧下さい。ご感想がありましたら是非お聞かせ下さいね。
小麗でした。http://www.hpmix.com/home/kiitinotuma/A%20Magical%20Beautiful%20Tour/index.htm
私は値切っても、必ず最後には余分に払ってきましたよ
これは徴発のわずかながらの恩返しだ、と自分では思っています
日本の子供はめぐまれていますね、でも肥料もやりすぎれば根ぐされすると言います・・・
メークテーラーのホテルで休んでいるとコンコンとノックの音。何かと思いきや、おばちゃんが『マッサージしないか?』『いくらなの?』『1時間5ドル』日本だと1時間6000円が相場ですのでこれは安い!速攻OKで気持ちよく揉んで貰っていたら又コンコン。今度はオジちゃんが父に『マッサージしませんか?』『いくらなの?』『1時間2ドル。』『えーっ!!』結局父も私も5ドル払いましたが、一生懸命やってくれるし、翌朝私が荷物を抱えて階段を下りているとそのオバちゃんが飛んで来て荷物を運んでくれました。5ドルはふっかけたのかもしれないけどその一生懸命さと、笑顔で「ぼられた」という感覚はありませんでした。ヤンゴンの5つ星ホテルでは25ドルでした。これは高い!
横浜の旅人さん、帰りにアンコールワットに寄りましたが、足のない人を5人(全員成人男性)見掛けました。地雷のせいだそうです。内戦が続いていたせいか人の心がミャンマーより荒んでいる気がしました。此処でも、物売りの子供達が大勢いて、女の子達にヘヤーピンを付けてあげたんですが、男の子までが付けてくれと頭を伸ばしてきました。お巡りさんの姿が見えると子供達が蜘蛛の子をちらした様に逃げ去りました。やしの皮で作ったブレスレットを20個1ドルで売ってましたので8人分8ドル買おうと思っていた私は呆然としてしまいました。親が家でおみやげ物を作り、子供達が学校にも行けずそれを観光客相手に売っているそうです。逃げていく姿が何とも悲しいものでした。子供達が働かなくて良い環境に早くなって欲しいものですね。日本の子供達は幸せだ・・・。
新井 玲子
それはチト見かけませんでしたが、物売りは、夜行バスに乗ったときに、休憩所で0時だろうが、3時だろうが、必ず子供がいましたね。 印象的だったのは、ミニみかんを買おうとしたら、10Kと言われました、すかさず横にいたおじいちゃんらしき人が、その子をしかり、この男は外国人だからシッカリふっかけなきゃだめだと言ったようで、老人は14Kだと、指で言いました。
その態度がまったく邪気や嫌味がなく、返ってふきだしたくなる程愛嬌があり、思わず5個買ってしまいました。 物乞いの女の子の悪気の無い純粋な目は未だに忘れられません、もうミャンマーの景色はおもいだせないのにね。 それと・・・足の無い方を二名ほど(大人)を見たとき。 車椅子もなくはっているのは、とても気の毒でした。 アゲパン全部あげちゃいました。
横浜の旅人さん、お話しして下さり有り難う御座います。年は結構行ってますが、世間知らずの私には貴重なお話しです。援助とは何かを自分なりによ〜く考えてみたいと思います。
タベイワからマンダレーへ車で移動途中、トイレ休憩で食堂に立ち寄りました。父がトイレに入っている間ちょっと腰掛けて待っていたんですが、男の子が私の前のテーブルを片付け何とお茶まで入れてくれました。ガイドさんが来たのでその少年と話が出来ました。
「坊やお年は幾つなの?」
『僕は孤児なのではっきりした事は分かりませんが11歳位です。』
「まぁー、しっかりお勉強して頑張ってね。」
『僕は学校に入っていません。』
「・・・・・・。」
とても利発そうな男の子でした。学校に行けず、このまま貧困から抜け出せないかと思うと心が痛みました。
父が学校を建てても子供が労働力の為学校に来られない子供達もいます。素足で天秤棒を担ぎ4〜5キロ先の井戸まで水を汲みに行く子供達を沢山見掛けました。此処に井戸を掘る事が出来れば
それが私のミャンマーへのご恩返しではないかと思いました。(何せ、父が死んでいたら私はこの世に存在していない訳ですから。)アメーバー赤痢で倒れた父を助けてくれたタベイワ村の人達。何か私なりのご恩返しをしたいと思っています。皆様の御意見やお知恵をお借り出来れば幸いです。 新井 玲子
NGOというと正義の味方みたいなカンジですが、実際はけっこう汚い部分もあるみたいですね。
発端はきっと純粋な善意からスタートしているのでしょうが、組織が大きくなると胡散臭くなってしまうのはどうしてでしょう。かといって個人の力でできることには限界がありますし、援助とは難しいですね。さらに、援助される側にとって本当になにが必要なのか、援助する側の自己満足になってはいないか、難しい問題ですね。
井戸を掘る援助が日本からされているようですが、実は帰りの飛行機で○○IKの職員の方と
隣でした、彼はひとあたりの良い人物でしたが、どうもおもしろくない所があり、何とも
物足りなく感じました。 わずか4日間の指導で何か実になるのか? と不安になりました
おそらく4日間いたれりつくせりの接待があったと充分に想像つきましたし。子供が夜中まで働き
乳幼児に物乞いされてきた私には、何か自分でもしてあげられる事はないかと真剣に考えてしまいました。 今いろいろ問題になっている日本の海外援助の一端を垣間見たような気がしましたよ
窪田様
お返事有り難う御座います。窪田様のお父様も烈師団だったとは・・・。世間は狭いですね。
父の部隊と行動を共にしていた弓部隊というのがあるのですが、戦争についてよく知らない私は『弾薬が亡くなり、遂に弓が武器として使われたのか。』と思っていました。色々聞くうちに各部隊にはそれぞれ通称があると分かったのですが、狼とか、菊とかも話にでてきました。父の部隊は最初『鯨』だったのですが後に『烈』になったと聞いております。部隊と師団は又違うのでしょうか?皆様のお力をお借りしながら又おいおい勉強してゆきたいと思います。
私の両親も一昨年金婚式を迎え有馬温泉に孫子が集まりお祝いをしました。人生の先輩として、お手本として両親には長生きして貰いたいものです。今年のミャンマー行きには『これを最後にするように旅行中お父さんを説得してくれ。』と母からミッションがありましたが、来年も父のお世話をして慰霊の旅に出たいと思います。皆様、宜しくご指導下さいませ。
新井 玲子
新井玲子さん はじめまして。ご訪問ありがとうございます。
私の父は烈師団工兵隊でした。新井さんのお父様とはもしかしたら顔を合わせていたかもしれませんね。本文にもありますが、山砲隊は重労働で大変だったそうです。
お父様が語られる体験談は父のものとはまた一味異なったものではないかと思われます。戦争に対する想いも異なるのではないかと思います。その辺もまたお伝えいただけたら嬉しいです。
それにしても、お父様のビルマに対する気持ちの深さ、そしてそれを実際に形に表す実行力、敬服いたします。いつまでもお元気でご活躍されることを心からお祈りいたします。
この3月に両親は金婚式を迎えました。二人とも元気で子供や孫達が一同に集いお祝いできたことをとてもうれしく思います。私も超普通の主婦です。普段の生活の中では戦争とかビルマとかまったく無縁の毎日です。この場で皆様の真摯なご意見に触れ、考えさせられ勉強させられることに感謝しております。今後もよろしくお願いいたします。
謙東弥さま
お返事有り難う御座います。早速調べてみますね。色んな方の御意見が聞けるのは嬉しい事です。本当にご親切、感謝致します。
やはり、自分がお金を出すとなるとそれが有意義に使われているかどうかは気になる所です。父が建てたタベイワの学校でも100ドルの兌換券をお祝いとしてお渡ししたのですが校長先生が『もう100ドルくれ。』と言って嫌な想いをした事もありました。ヤンゴンだと物価が安いですので日本で文具を買って持っていくより賢いですね。トランク一杯の文具とお菓子を持って行きましたので、来年は身軽に行ってヤンゴンで購入します。謙東弥さん、有り難う御座いました。
新井 玲子
新井様へ
ビルマで活動されている日本のNGO団体などを、
下記アドレスで紹介しています。
奨学基金関係 「パヤジー高校奨学金」「ミンガラ奨学金」
盲学校援助など 「みい・えぃん・しん」「Kokoro」
井戸掘削など 「BAJ(ブリッジ・エージア・ジャパン)」
また、慰霊に訪れた戦友会の方々が、ヤンゴンで文房具を買い、
僻地の小学校に寄贈された、というお話を聞いたことがあります。
お金の行方を自分の眼で確認されたいのなら、一番良い方法ですね。
私の父は一緒に暮らしている時は戦争について多くを語ってくれませんでした。今回慰霊祭に同行して初めて父の想いが少し分かった気がしました。メークテーラからタベイワに入り、3月5日、その日に慰霊祭を行う事が出来ました。戦闘を見たと言う村のお婆ちゃまも御不自由な体で慰霊祭に来て下さり父が泣いていました。ヤンゴンの日本人墓地では隣の英国軍墓地に比べて整備が行き届かぬと亡き戦友達に泣いて謝っていました。
この年(私は49歳です)でやっと父が戦争について私に語りかけてくれました。訓練があるからと前線から呼び戻されたら、何と爆弾を抱えて戦車に突っ込む訓練でした。若者に死に方を教えている上官達は夜な夜な芸者遊びに惚けていたそうです。幸い(と言って良いと思います)爆薬が無く父は戦車に突っ込むことなく生還する事が出来ました。
窪田様のHP等で私も遅ればせながら父の生きてきた青春の悲惨さの一端が分かりました。アメーバー赤痢に倒れた父を介抱してくれたのはタベイワ村の人達でした。私にも何かミャンマーの方々にご恩返しが出来るかと模索しています。高校、大学の先輩がミャンマーで漁村を経営していたとかで連絡してみると
『今は軍政も維持され、結構野蛮な少数民族がいておっかない所です。むやみやたらな親善は気を付けてください。』
と注意を促されました。パガンに井戸をほるODAが有るとも聞きます。何かアドバイスが御座いましたら、お願い致します。
何だか恐ろしく真面目なメールですが、今日は娘と『ロード・オブ・ザ・リングズ』を観ました。まったくごく普通の主婦です。3月2日〜9日のミャンマー行きで少し人生を考え始めた所です。横浜の旅人さん、ヘホーは涼しかったですが、ヤンゴンの慰霊祭中は炎天下で気が遠くなる位暑かったです。この時、ヤンゴンで亡くなった伯父の声が伝わってきました。この話は機会が有ればいずれ又。では。
新井 玲子
そろそろミャンマーは暑季だったのでは? 山砲は重い砲身をかついだり
歩兵が先に撤退してしまったりして、大変な苦労の連続だったときいています
初めまして。今年3月に81歳の父にくっいて初めてミャンマーを訪れました。各地で5回慰霊祭を執り行いました。父は烈師団でした。烈の前は鯨と名乗っていたようで現在「鯨烈山砲戦友会」と言っています。99,9%死んでいたであろう父が生きて還れたのはミャンマーに人達のお陰と、タベイワ、チェンマオに学校を建てました。81歳の父が毎年ミャンマーを訪れる気持ちが少し分かりました。このことを私の子供達に伝えていくのが私の新たな仕事だと思っています。
時々覗かせて頂きます。今日は、ご挨拶まで。
新井 玲子
13人も待っている人人がいるなら・・・もし、イスラエルだったら
特殊部隊の投入とかになるでしょうね。 善悪はともかくとして
みすてるのは男のする事ではありませんね。 インパールもそうでしょ?
飢餓や病気でこまっている同胞にいかなる困難を排しても
食料や医薬品をとどけるべきだった見本じゃないですか! 一日だけでも良いから
すべての爆撃機に物資を積み、集められるだけの戦闘機で直衛して
攻撃などせずに補給を何故しなかったのか不思議ですよ。 13人はどんな汚い手を使っても
助けなければなりません。
有事法制は必要でしょう。
日本が攻撃を受けても、ただ黙って我慢していろと?
不審船がスパイ行為をしようが密輸、密入国しようが怒りもせず平然としているのがよい?
日本人が13人も拉致されても助けることもできない、そんな国が国といえるでしょうか?
自国の利益を守り主張するのが国家でしょう。
国を守る仕組みのない国なんてへんですよね。
戦争をしたいなんて誰も思いませんよ。
もっとも、今の日本人には戦争なんてとてもできないと思いますけど。
とつぜんの書き込み、失礼致します。
この国会にもうすぐ提出される有事法制について、たくさんの方に楽しくわかりやすく読んで頂けるように、ユージストーリーというHPを作っています;
YUJI * STORY
http://www.geocities.com/ceasefire_anet/misc/yuji_index.htm
このユージストーリーをたくさんの方に見て頂き、少しでも多くの方に今回の有事法制への関心や疑問を持って頂ければ、
また他人事でなく、自分と自分の子どもたちの暮らしにそのまま関わることとして、少しでもアクションを起こしてくれる人たちが一人でもふえれば、とてもうれしいです。
テロ特措法の時と違って、今回の有事法制はマスコミでもあまり取り上げられることはないし、このままスルスルと通ってしまうのではないかと心配です。
普通の市民がこの有事法制に関心と危機感を持ち、声をあげていくことがとても大事だと思います。
わたしたちの停戦委員会で、有志の人たちが作ってくださった議員リストがありますので、これも、ぜひいろんな方に利用してもらって下さい;
http://www.geocities.com/ceasefire_anet/action.htm
です。
よろしくお願いいたします。YUJI*STORYはリンクフリーですので、どんどんHP掲示板などでご紹介ください。
米軍のための有事法制をぜったいに止めましょう。
仏教学校?の小坊主達に囲まれちゃいましてね、日本人が珍しく
触りたかったとかで・・・中田を皆知っていたのには驚きました
彼は有名人ですなー
70歳のご老人ということは、終戦時には13歳くらいですね。
きっと日本の兵隊さんについて回っていたのでしょう・・・
軍票、ビルマでは今でもたくさんの方々が大切に保管されているようです。
そのご老人のご厚意が、日本人としてとても嬉しいですね。
メイッティーラ(メークテーラ)は、あれでもビルマではけっこうな大都市で、
東西南北からの幹線道路が集結する交通の要衝です。
夜中には湖畔のハニー・ホテルで、カエルの大合唱に歓迎されもしましたが。
うーんたった4日でしだが、ミャンマーも大都市では、人がスレてきているのでは?と率直に感じました。 ただメークテーラなどは、またまだ人も素朴、町を歩けばチョットした有名人?
人人が小声でジャパーンとか、ジャパニーズなどどささやきあっていて、面くらってしまいました
実は、メークテーラで70歳になる日本語堪能な老人の訪問をうけて軍票5枚を預かって来ました
今、どこかへ寄付したく寄付先を捜索中ですよ。
横浜の旅人さん、ご無事でなによりです。
何かアドバイスしたっけ・・・物忘れが激しくて・・・そうそう、
メイッティーラがどーたらこーたらと・・・
よろしければビルマの様子などお知らせください。
私も感じました。こんな灼熱地獄の中を徒歩行軍とは・・・
私など、2時間ほど歩いて古代遺跡を回りましたが、へとへと。
戻ってからすぐ、1時間も眠りました。
あの、大量の汗の放出と体力の消耗で、死ぬのではないか・・・
などと考えたりもしました。
ビルマ戦線から生還された方々に対しては、まったく、頭が下がる思いです。
横浜の旅人さん お帰りなさい。
兵隊さんはどこの国でも、熱帯、寒冷かかわらずたいしたものですよね。
謙東弥さんのアドバイスは参考になりましたか。
すごい国だとおもいました、冬なのに昼は37度、夜は16度くらい、ハッキリ言って
歩くのがおっくうでした、やっぱり日本人てすごいですね、歩いて、しかも荷物背負って
行軍したなんて・・・
上杉さん ようこそいらっしゃいました。
丁寧に読んでいただいてうれしいです。ありがとうございました。
>たった1回の人生をかけるほどの価値が、戦争にあるのかどうか疑問です。
きっと戦争をしたくて戦争に行った人などいなかっただろうと思います。命をかけて戦わざるを得ない状況だったのでしょう。
尊い犠牲の上での現在を私たちは大切にしなくてはなりませんね。
日本の平和がよその国にとっても平和であるとは限らない。そこが争いのなくならない理由で、なかなか世界平和が実現しない難しい点ですね。
感想を書かせていただきます。
内容もわかりやすく、また率直な表現でよく状況が伝わってきます。
「菊と龍」「コヒマ戦記」だったかな、学生の時に購入して何回も読みましたので
お父様の体験記を抵抗なく、読ませていただきました。
凄まじい経験だったのでしょう。
このHPをたちあげた窪田さんに敬意を表します。
ところで私(48才)の父は、シベリア抑留で昭和23年に帰国いたしました。
所属小隊のほとんどが、帰れなかったそうです。
たった1回の人生をかけるほどの価値が、戦争にあるのかどうか疑問です。
戦争なんかしないようにしていきましょう。
こんなサイトを持ちながら、実は私は戦争のことに詳しくはありません。
だからつっこんだ話はできないのですが。
何事もそうですが一概に断言することは難しく、戦争のこともいろいろな捉え方ができますが、はやしさんのおっしゃられる1、2、3については確かに反省すべき点だと思います。間違いは繰り返したくないですよね。
アフガニスタンでは自由がもたらされた途端に治安が非常に悪化し毎日多数の死者が出ているそうです。では、厳しい管理体制下のほうがよかったのか、と考えさせられてしまいます。人間とは愚かなものだということでしょうか。強い正義の味方の登場を期待してしまいますが、大多数の普通の人々のあり方が問われるのだと思います。一人一人が意識をしっかり持っていなければ。それは教育や文化の問題になってくるのかもしれません。
取り留めのない話になってしまいました。とにかく、よい暮らしができるよう、まずは自分自身が努力していこうと、私も考えています。
はやしです。
先日の者です。年齢は41歳。職業は公務員です。
従軍した叔父は、88歳で健康です。
当時の様子を書いた本の中に参謀のものがあったので読んでみたのですが、疑問というか、やりきれないと思った点は次の通りです。(光人社NF文庫:回想ビルマ作戦 野田省己著)
(1)当時の参謀は、時局分析をあまりしていないのではないか。
・敵の勢力、自己の勢力を勘案した作戦を立てているかどうか不明である点(完全に制空権をにぎられている、敵の人員は、少なくとも自軍の10倍、兵器にしてしかり)
(2)上司が誤った判断をしたときに、その部下はその誤りをどうやってなおしていくか。
・牟田口の作戦は誰もがそんなことはできない、と思っていたのに、上司だったためにまた、国家の戦略方針のもと反駁できなかったのかという点
(3)自分の職務、部下の職務を区別していなかったか
・机上の作戦を立てて、攻略の大義名分の元それを執行するのみではなかったか。(裸足で、兵器といえば、自決用に使うであろう手榴弾1個、食料枯渇のため、意識朦朧、まっすぐ歩けないものがほとんどのものに、どうして機関銃以上の兵器をもつ軍隊に向かわせたのか)
昭和10年から20年までの世相を知らずに書いているので、それを知る人にはなんととんちんかんなことをいうかと思われるかもしれません。でも、少なくとも勝とうと思って立てた作戦と、いたずらに戦力を消耗することは違うのではないか、と思うのです。
上記の(1)(2)(3)はいずれも現代、現在に通じてしまっている(!!!)。私の仕事の中にも十分あるのです。もしかしたら、私が批判している参謀は、私自身なのかもしれません。
未了です。
れんさん ようこそいらっしゃいました。
レポートがんばってください。
どんな風にまとまるのか興味あります。
また、先生の評価や反応などもどんなであるか、またよろしかったら結果をお知らせください。
私は、現在高校2年なのですが、近代現代の宿題でインパール作戦について調べて
レポートにまとめるというものが出されました。
インパール作戦は正直初めて耳にした言葉でもあったし、図書館にも詳しく書いた資料がなく困っていましたが、
このサイトを見つけて本当に助かりました。
詳しく分かりやすく書いてあるし体験談なところがより真実性が伝わって来て良かったです。
そこの事件について興味も持てました!
いいレポートが書けそうです♪
たつきさん
ご訪問&書き込みありがとうございます。
ミャンマーのお友達のお話、興味深く読ませていただきました。
宇宙人の話もおもしろいですね。「標準・世界の歴史」みたいなのがあったら世界はどう変わるでしょうか。
皆様から貴重なご意見をいただいて、私自身考えさせられたり刺激を受けたり励まされたり、とてもありがたく思っております。
今後もどうぞよろしくお願いいたします。
はやしさん
ご訪問&書き込みありがとうございます。少しでもお役に立てればなによりです。
父は現在78歳、現役にて農業を営んでおります。
戦争当時も一農家の倅として出陣したわけで、その体験記はある程度客観性が保たれているのではないかと自負しております。とはいえ、一個人の事実の断片ですから別の体験者にはまた別の事実の断片があるでしょうからより多くの体験談を聞きたいものですね。リンクにあります体験記も是非おすすめいたします。
で、過去の歴史を踏まえた上で何が大事かというと、今現在、そして今後をどうするか、だと思います。民間では苦境をいかに打開するか知恵をしぼっているのに、なぜ政治の場ではその努力ができないのか不思議ですね。
自分は今アメリカで生活しております。そのため色々な国の友人がおりますが、ミャンマーからの
医者の友達もおります。
つい最近、ひょんなことから自分が中学生の時にビルマの竪琴の劇をやったことの話しになり、
自分の友人はおそらく何かを勘違いしていたのでしょうが、『スーチー女史は青島二等兵の娘』
と言い出したのです。自分はびっくりして、『いや、それが本当だとしたらたぶん日本人は誰も知らないよ』と言いました。別れ際にネットで調べてみると言って、いまここにたどり着いたわけであります。窪田様の文章をすべて読ませていただき、『やはりそんな事はない』と再確認いたしましたが、いかに現ミャンマーの人々が親日家であるか、認識させられました。
自分は今20代で、私の祖父は学徒出陣、祖父の兄は戦死しました(ビルマではありませんが)。祖父は色々な話しを兄や私にしてくれたので、平均的な20代よりも、“何があったのか”を理解しているつもりです。
しかし、世界にはミャンマーや台湾の人達のような親日家だけでなく、もちろんそうでない国の人々もたくさんいます。私どもの世代の一般市民は戦争のことをそこまで感情的にならずに話す事はできますが、特に強くかんじるのは、国によって“歴史”というものが全然違う事です。話が事実関係の話になると、お互いにきまって何もいえなくなります。それはお互いに自分の国の歴史が絶対に正しいと、いう事が出来ないからです。
そのため、日本人以外の人と、(一部の日本人もそうですが)戦争の話しになったとき、必ず思うのが、婉曲や誇張をされていない、歴史を知りたいということです。
おかしな話ですが、なんの利害関係もない宇宙人が実は当時の事をすべて記録していて、それを公開してくれる日がくれば、とても興味深いものになるな、と思います。
駄文、青二才ながら、お読み頂きありがとうございました。
また、このような政治的でない穏やかなページにめぐり合う事が出来、感謝しております。
管理人様と管理人様のお父様の人格によるものだと思います。
初めて書き込みさせていただきます。
私の場合も、かつて叔父がビルマ戦線におり、あまり多くを語らないので調べてみようと思いこのページを見つけたのでした。
このページを見つける前は、光人社の戦記物3冊くらい同じ戦線の体験談を拝読させていただいた直後でもありましたので、大変参考になりました。
日本が開戦に及んだ経緯、外交力がないこと、などを中心に考えることが多いのですが、いまもあまり変わっていないことが恐ろしく思えてきます。
わかりました。
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi/army/1012306819/ が名無し三等兵さんが紹介したページです。
今後とも当サイトをよろしくお願いします
戦後の教育を受けた人間には、よくわかりません。何も言えません。
ただ、歴史を見てるだけではすまないって事は解ってきたつもりです。
善くも悪くも、若者がこれについて話している場所を知って欲しかったので。
名無し三等兵さん
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「地球の歩き方」などに、ラングーンの日本人墓地などの情報があります。
市内の北方面のチャンドー墓地です。タクシーを利用されるとよいでしょう。
メイッティーラ湖近辺に戦中は病院、戦後は収容所があったそうですが、
場所は知りません。湖の近くのナガーヨンマハボディ・パゴダ(仏塔)の内部と境内に、
当時の戦車や兵士の遺品が展示されています。
また湖のほとりのシュエジャウン・イェータ(瞑想所)に、
戦後に訪れた戦友会の慰霊碑があります。
他にもサガイン、モニワ、などに日本人墓地や慰霊碑が存在します。
詳細は「ビルマへの手紙」ホームページをご覧ください。
http://member.nifty.ne.jp/biruma/
はじめまして、今月渡ミャンマーしますが、観光などはあまり興味が無く、先輩方の足跡をたどり
何かしらの慰霊が出来たら良いと考えています。 ここは見ておけという場所はありますか?それとラングーンの郊外にある、日本人の方々の墓地は、どの方向でしようか?お教えください。
メイッテーラ湖周辺にも収容所があったそうですが、ご存知でしょうか? 質問ばかりですいませんが、どうぞよろしくお願いします。
確かに、そうですね。
人あっての人権ですからその順位が逆転するのは、おかしいですね。
人権といえばどうにでもなるような感じがします。
人権はもちろん大切なものですが、余り一人歩きをしないようにしてほしいです。
愛知の大学生さん ご訪問ありがとうございます。
当時の軍隊には「人権」などという意識はまったくなかったのでしょうね。
しかも、大多数は軍人でさえない普通の人々が兵隊さんとして戦っていたわけですから哀れです。
現代はあらゆる人に人権が重視される時代ですが、「人」より「人権」を重視しているようなフシも感じられます。あなたの見解はいかがですか。
初めまして。
愛知の大学に通っているものです。
「平和と人権」というタイトルの講義で、「軍人の人権」という研究していてます。
インパール作戦一連の行動に興味がありましたので、このページにたどり着き拝見させていただきました。
祖父は満州の方に行っていたのでその体験を聞くことが出来ず、このページは大変に参考になりました。
戦争経験者が減る中で窪田さんのような人がその記憶を残していただけるのはこれからの子どもたちには必要なことだと思います。
これからも頑張ってください。
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483.世の中の出来事 投稿者:窪田やよい 投稿日: 1月 6日(日)20時17分21秒