過去の掲示板(その14)


「インパール作戦・父が語る戦争体験記」への感想を多くの皆さんに書いていただいています。今までの掲示板への書きこみ内容をまとめてみました。上から順に新しい書きこみとなっています。
なお、改行位置などは一部編集してありますのでご了解下さい

平成11年3月の掲示板開設以来のもの(No1〜63まで)は「過去の掲示板その1」をご覧ください。
No64〜99までは「過去の掲示板その2」をご覧下さい
No100〜172までは「過去の掲示板その3」をご覧ください
No173〜206までは「過去の掲示板その4」をご覧ください
No207〜250までは「過去の掲示板その5」をご覧ください
No251〜279までは「過去の掲示板その6」をご覧ください
No280〜321までは「過去の掲示板その7」をご覧ください
No322〜371までは「過去の掲示板その8」をご覧ください
No372〜407までは「過去の掲示板その9」をご覧ください
No407〜456までは「過去の掲示板その10」をご覧ください
No458〜483までは「過去の掲示板その11」をご覧ください
No484〜541までは「過去の掲示板その12」をご覧ください
No542〜576までは「過去の掲示板その13」をご覧ください

 

ホームページ編集責任  窪田 幸唯 mailto:kubota@mxa.cosmo.ne.jp

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619.その2(下のその1から読んでください) 投稿者:るーく  投稿日:12月31日(火)05時37分45秒

 

そのような出来事から私は徐々に将来は日本のため日本国民のための仕事をしたいと思うようになり外交官を志すようになりました。
戦前、戦時の日本を一方的に絶対悪と決め付け日本の歴史を安売りしているような政治家がいるのもその理由です。確かに無能な戦争指導者によって無謀な作戦が行われ多くの人々が命を落としました。だから戦争は絶対悪だと言っていたのでは平和は生まれないと思います。
日本の行動によっていくつかの国で英米蘭軍が追い出され独立に影響を与えたのも事実でしょうし日本軍の占領下で反抗し犠牲となったものや自国が戦場となり罪なき一般住民が死んでいったこともあるでしょう。当時の世界情勢、各国の国情などを客観的に見つめ、日本を導くことができる政治家や外交官こそが必要でしょう。
今のようないい加減な外交では国民の生命も財産も守れませんし領土も国家も守れないと思います。現在の日本外交は北朝鮮や中国のように国内の一部の人々を弾圧したり人権を多く踏みにじったり公然と軍事制裁を加えるなどと脅している国家の力を増長させているのではないでしょうか。
私の祖父のインパール作戦。そして空襲、原爆、玉砕、特攻のような未来をつくる若い人たちが無残に死んでいくような結果を二度と起こしてはなりません。
日本国民の安全を守り、アジアの平和に貢献できるような日本にするために私は外交官を目指して受験勉強を頑張っております。駄文、雑文失礼しました。

618.ビルマ戦記と日本の歴史その1 投稿者:るーく  投稿日:12月31日(火)05時08分56秒

 

るーくと申します。去年から日本という国に興味を持ち歴史などに関する本をとにかくよく読んできました。
主に明治から終戦にかけての歴史や外交に関する本を大量に買いあさっては読んでいました。
親や祖父はとくに自ら進んで私に時代を語ることをしませんでしたがビルマや中国に祖父が行っていたことはしっていました。ニュースに朝鮮の話題が多く登場するので当時の併合下の朝鮮の話を聞こうと思いました。
残念ながら祖父は行ったことがありませんでしたが従軍体験が聞けました。
1941年に志願し現在のベトナムのあたりで工兵として飛行場をつくっていたそうです。その年に開戦。そのまま進軍の後に工兵として飛行場をつくっていきしばらくして引き揚げたそうです。
その後1943年ごろ(44年かも?)に赤紙で徴兵され安部隊の補給隊として従軍したそうです。
航空機の援護もなく装備も貧弱で戦車は英軍の半分ほどの大きさであった。
制空権は完全に相手にあり昼間はほとんど行動できなかったことや、飯盒を炊くと昼間は煙で見つかり、夜は火が見つかるなどの話が聞けました。
雨が多く赤痢やマラリアで多くが命を落としたこと蚊が非常に多かったが蚊帳などないこと、
銃弾に倒れた物より餓死や病気のほうが多かったのではないかという話はやはり無謀な作戦であったと思います。完全な負け戦であったといってました。
終戦を知ったのは玉音放送から4日ほどたってからだそうです。それから1年ほど英軍の捕虜となり引き揚げたそうです。
どんな書籍を読むよりも人の体験。とくに自分の血のつながった祖父の話ほど鮮烈なものはありませんでした。損害率が8割を超えたともいわれるインパール作戦を生き抜いた祖父がいなければ私もこの世に存在しないのですから。
このような話を聞いてビルマ、インパール作戦をよくよく調べてみたらこのサイトを発見した次第です。第2次大戦のただのひとつの玉砕した作戦に過ぎないと思っていましたが自分の祖父の生々しい体験をきいて祖父の血を引くものとしてこの出来事はよくよく知る必要があるとおもいました。先ごろなくなった祖母の話も命あるうちによくよく聞いておくべきだと思いました。残念でなりません。
と同時に私の両親は良い人柄であると思うのですがほとんど歴史を教えてくれることはないですし、歴史はほとんど過去のことのように接し、書籍やテレビで歴史に関するものを見ることもほとんどないようです。未来をつくるためには過去の歴史をよくよく学び、それを後世に伝えることが親の役目ではないかと思うのですが良いのか悪いのか平和ボケ(?)しているようです。
アメリカの準保護国?の元で平和ボケするほど日本は平和だったのでしょうが最近の拉致事件や一向に解決しない領土問題や外交官、政治家の問題などを見るにつけやはり国民、国土をなんとも思わない平和ボケの世代によってつくられた問題なのかなとおもいます。

617.ミャンマーさんへ 投稿者:窪田やよい  投稿日:12月20日(金)14時55分23秒

 

ミャンマーさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
うれしいです。元気でました。がんばります。

616.感動 投稿者:ミャンマー  投稿日:12月17日(火)22時11分07秒

 

いいHPですね。貴重な体験談に感動しています。2年間ミャンマーに住んでいたので、特に実にリアルで、一気に読んでしまいました。

615.RE.日章旗 投稿者:窪田やよい  投稿日:12月17日(火)12時02分55秒

 

ささきるいさん 良いお話をありがとうございまた。
日章旗を残し戦死した日本兵、それを大切に保管してくれた英国人兵士、双方の心を思うと胸にせまるものがありますね。我が家では残念ながら産経新聞は購読しておりませんが、どこかで手に入れて読んでみたいと思います。

 


614.日章旗 投稿者:ささきるい  投稿日:12月16日(月)13時59分19秒

 

2002年12月16日、東京・芝公園で日章旗の返還式がありました。ビルマ戦線で戦死した日本兵(福井栄一さん、東京・日本橋出身)の遺留品である日章旗を、英国人兵士(ムーア氏、15年前に死去)の遺族が日英両外務省の仲介で日本兵の遺族に返却したものです。ムーア氏の死後、家族が日章旗を発見し、英国の大学に寄贈し、歴史の授業資料として使われていたとのことです。日章旗は、虫食いの跡も数ヵ所だけで、過酷な環境下にあったとは思えないほどきれいな状態で、英国兵とその遺族が大切に保管してくれていたことが分かります。寄せ書きのある日章旗を見たら、異国で亡くなった日本兵らの想像を絶する労苦を思い、涙が止まりませんでした。先達のご苦労に、心から尊敬の念と感謝の気持ちを抱きました。特に、太平洋、ビルマ戦線の将兵らの手記を読む機会の多かった自分にとって、経験したはずのない当時の情景が鮮やかに蘇りました。残念ながら、日英双方の当事者はすでに他界してしまいましたが、窪田さんのような戦争経験者に実体験を語り継いでいただきたいと思います。詳細はたぶん、17日付の産経新聞に掲載されると思います。

http://www.sankei.co.jp


613.地雷撤去カレンダー 投稿者:kenji takeda  投稿日:12月14日(土)21時47分58秒

 

はじめまして。神戸でデザインやっていますtakedaと申します。
いきなり告知で申し訳ない。デザインは、無力ではないと思い
全くの個人ですが、こんなこと昨年からやっています。
よろしくご協力下さい。



アフガニスタン地雷撤去カレンダー発売のお知らせ。
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デザイナーの立場で、何ができるかという自問に答える形で、昨年度よりはじめました
卓上カレンダーの発売です。

このカレンダーの売上金全額は、特定非営利活動法人 難民を助ける会(AAR)を通じて
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ポリスチレン樹脂高級スタンドケース付き
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森林資源に配慮した非木材紙を使用しています。
イラスト、デザイン KENJI TAKEDA.


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ご注文方法:WEBのみで販売
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より、ご注文できます。

活用先:特定非営利活動法人 難民を助ける会(AAR)
    http://www.aarjapan.gr.jp/
収支報告、送金報告:
   1月末をめどに、AAR様の御協力を得て
   上記販売サイトで送金証明、および収支報告を行います。

責任所在、お問い合わせ
   竹田憲司(STUDIO99.99)
st9999@art.email.ne.jp


※コスト削減のため、簡易包装、月2回まとめ発送にご協力下さい。

http://www.studio-9999.com/landmine/


612.RE.天皇陛下さん、汗だくさん、角口裸さん 投稿者:窪田やよい  投稿日:12月11日(水)23時49分01秒

 

天皇陛下さん、汗だくさん、角口裸さん ご訪問&書き込みありがとうございました。
学校での授業の一環でしょうか?見るだけでなく掲示板に意見を発表してくれてうれしいです。

戦争を体験したのは私の父ですが、父は戦争の話をする時、とてもいきいきとしています。きっと、父にとって戦争は、恐ろしいことや悲しいことだけではなく、正義や誇りに思うことがあるのだろうと思います。
ちなみに、ウチにも中学生の息子がいておじいちゃんと同居しています。

611.戦争体験の感想 投稿者:角口裸  投稿日:12月10日(火)09時36分54秒

 

窪田さんの、ホームページを見て戦争は、恐ろしいく悲しいことなんだと思った。窪田さんが体験した太平洋戦争だけでなく、ほかにもいろいろな戦争が行われてたくさんの人々が死んで市まったことは、絶対忘れてはいけないことだと思います。窪田さんは戦争を体験して、とても大変だったと思います。窪田さんのホームページのほかにも、教科書で勉強しました。僕達は、こうやって普通にくらせしているという事は、とてもしあわせだと思いました。ぼくたちはこのことを忘れず、戦争はやってはいけないことだとおもった。

610.戦争体験談を読んで 投稿者:汗だく  投稿日:12月10日(火)09時27分33秒

 

 このホームページを読んで,窪田さんの戦争の話が良くわかりました。僕はまだ,15年しか生きていません。なので戦争のことはあまり良く知りません。でも、戦争とゆうものは,恐ろしくて,悲しいということだけはわかります。戦争で,何十万,何百万という人が命を奪われていった人達がとてもかわいそうです。僕は,戦争を体験したことがありませんが,窪田さんのような,戦争のことをホームページに乗せている人達の話を見て,呼んでいるだけで,戦争の恐ろしさが伝わってきます。戦争の恐ろしさは,戦争をした人や体験をした人しかわからないと思います。でも,僕は,この窪田差の体験を,友達や家族にも伝えたいです。

609.戦争体験談をよんで 投稿者:天皇陛下   投稿日:12月10日(火)09時23分16秒

 

このホームページを読んでみて,窪田さんが体験した戦争の生々しい話を目にする事が出来て,とても勉強になりました。この体験談を読んで,やっぱり戦争はあってはいけないのだと,つくづく感じました。このページにある資料を見たら,帰国した人が元の5分の1しか故郷へ帰る事が出来なくて,戦争のつらさや,残酷さがとても伝わってきました。それに,戦争を戦い,生き抜いて帰国した人々には,日本人のあるべき姿が隠されていると思いました。そして,現在の人たちは,そのことを忘れかけているこうけいがあると,僕は思いました。窪田さん,お体にきをつけてこれからも,頑張って下さい。貴重な体験談,本当にありがとうございました。

608.戦争について 投稿者:窪田やよい  投稿日:11月23日(土)21時58分41秒

 

青空さん ご訪問&書込みありがとうございます。

カナダの学校でのお話、興味深いです。そこにいた学生達が自国の第二次大戦についてどれだけ語ることができたか。
わが国と中国、韓国との歴史認識ということがよく話題にあがりますが、それぞれの国により歴史認識が異なるのはごく当り前なことだと思います。ことに戦争に関して統一認識が得られるはずもありません。
日本の学校教育の中での戦争はただただ「悪いもの」「悲惨な出来事」的な捉え方で、しかも、どちらかというと中国、韓国寄りの観点から戦争を捉え日本の子供に教えるという、非常に不可解な状況ですよね。もっともあまり授業では扱わないかもしれませんが。
「日本は悪いことをした」という考え方は、日本独特の謙譲の美徳なのかもしれませんが、そう思い込んでしまった日本人はしっかりとした国をつくることはできませんよね。
中国、韓国では(世界中どの国でも)自分達が絶対に正しくて悪いのは相手国、という理念で国をつくりあげています。大きく違いますよね。
極端に卑下することもなく尊大にもならずに、実際にあった出来事を客観的に捉えていけたらなあ、という思いでこのHPを立ち上げました。これは父が体験した一事実であって、別の人にはまた別の事実があったことと思います。そういう事実を重ねていって、第二次大戦を理解したいと思います。
そして現在の社会の「ひずみ」をなんとかできないものかと思うのです。私が考えてもしょうがないんですけど。

607.有難うございました。 投稿者:青空  投稿日:11月23日(土)17時01分30秒

 

 はじめまして。最近、戦争についてしらべています。というのも、わたしは英語の勉強をするため、いまカナダで語学学校にかよっており、そこで数名かの韓国の友人も出来ました。
ある日、別のクラスでのコト、そのクラスの先生がトピックとして、第二次世界大戦を生徒に渡しました。すぐに御察しはつかれると思いますが、そのトピックはある意味"爆弾"でありました。一気にそこにいた生徒すべてが、興奮し、収拾のつかない状態になるまでには、時間はかかりませんでした。
私も全くの無知というわけではありませんが、改めて"戦時"に何があったのかを、本当の意味で知りたいと思い、数件のHPを拝見させていただき、そしてたった今貴方のHPも読ませて頂きました。
実は、わたしの祖父も、インパール作戦の体験者であり、そして復員し、現在も日本で、元気に暮らしております。こうしてHPを読むことがなければ、祖父が、どのような状況のなかに居たのか、知ることは決してなかったと思いますし、何より今、祖父の気持ちを痛感しています。
わたしの祖父は、お酒がはいる度、その当時のことを何度も何度も繰り返し話しておりました(現在、祖父はお酒を一切口にしません。理由は、勝手ながら承略させていただきます。)。「当時は、毎日が死との闘いだったんだぞ。」と。
祖父の毎日の様に吐き出されるそのセリフは、当時のわたしには"重圧"そのもでしかなく、いつの日からか、無意識に"聞き流す"という、恥ずかしく、とても失礼な行動と変わっていきました。私たち家族にとっても、戦争という言葉は"爆弾"でしかなく、いまでもなお、それは続いております。
しかしながら、こうして、韓国の友人あるいは、数多くのHPを拝見させて頂いて今思うことは、いかに教育の場で習った"戦争"が、わたしにとってあまりにもリアリティがないものだったかということですし、うまくいえませんが、薄っぺらな知識ではなく、次の世代に伝えられるよう、手探りでありますが、次の世代にとって遠い昔のようになりがちなこの時代をどう伝えていけるのか、遅くながら、模索しています。
話が支離滅裂で申し訳ありませんが、ただただ、感謝の気持ちを伝えたく書かせていただきました。本当に勉強させて頂きました。本来なら、わたしの祖父に直接聞けたらいいのですが。それにはもう少し時間が必要かもしれません。
また、来ます。失礼します。


 追伸−。 日本語の正しい使い方を、少しわすれてしまいました。読まれた方の気持ちをがいさなければ幸いです。また、どなたか、その当時の韓国と日本の情報をテーマにしたHPを御覧になった方がいましたら、お手数かけますが、教えて頂けると幸いです。

606.ご訪問ありがとうございます 投稿者:窪田やよい  投稿日:10月29日(火)11時20分21秒

 

孫娘さん ご訪問&書き込みありがとうございます。

そんなふうに読んでいただけてうれしいです。
私の父はお蔭様で元気にきょうも農作業しています。
先日は恒例の戦友会へ参加してきました。

605.はじめまして 投稿者:孫娘  投稿日:10月28日(月)19時46分17秒

 

偶然みつけたので、体験記、拝見させていただきました。
私の祖父も、インパール作戦に参戦していました。
たまに、思い出したかのように、ビルマでの出来事を話してくれたことを思い出します。

その祖父も、今年6月、他界しました。
体験記に祖父の姿をだぶらせてしまい、胸がいっぱいです。
ビルマには、いずれ訪れてみたいとずっと思っています。
(アジア旅行が大好きなので。)

突然の書き込みですが、どうもありがとうございました。
また、きます。

604.有難う御座いました 投稿者:第3偵察隊  投稿日:10月 8日(火)01時16分03秒

 

窪田やよい  殿
たいへん有難う御座いました。
あれから何も情報は得られていませんが、
御指定のアドレスにアクセスして調べてみようと思います。
老人の願いのためにも何とか情報を得るつもりです。
お手数おかけしました。 失礼致します。
第3偵察隊

603.大泉裕次さんへ 投稿者:窪田やよい  投稿日:10月 7日(月)09時34分26秒

 

当時の様子はその時代の雰囲気を知らなければ正確に理解することはできないのでしょうね。
戦争のことについて知ることや議論することは必要なことですが、観念的な意見が一人歩きするのは危険なことだと思います。

602.第3偵察隊さんへ 投稿者:窪田やよい  投稿日:10月 7日(月)09時27分19秒

 

第3偵察隊さん、こんにちは。
お尋ねの件、何か情報が得られたでしょうか。
当方では、父が直接関わった事以外には何もわからない状況です。

以前に当掲示板に寄せられたご意見の中からの情報ですが、
防衛庁の史料閲覧室というところで戦史に関わる詳しい情報が得られるようです。
http://www.nids.go.jp/siryousitu.htm
がアドレスですので、訪ねてみてはいかがでしょうか。

601.戦争の原点です 投稿者:大泉裕次  投稿日:10月 5日(土)14時02分16秒

 

開戦前後の状況は今も念頭から離れません。国民総意に近い状況ですと表現しました。近いのですよ、誰一人反対また異論を唱えた報道はありません、戦後、軍部から圧力を受け、報道できなかったとか、書きたくなかったけど書かされた、とか描きたくなかったけれど描かされたとか、卑怯にも軍国主義に全てを擦り付けた器用な人がいました。反対といって殺された人はいません。反対といったら国民が制裁を加えてしまう、そんな世相でした

600.はじめまして お聞きした事があります 投稿者:第3偵察隊  投稿日:10月 3日(木)02時02分04秒

 

はじめまして 第3偵察隊といいます。
太平洋戦争についての資料検索からこちらのサイトに辿りつきました。
突然ですが、とあるキャンプでインパールの先遣隊と思し気部隊と行動を共にした経験のある
老人と話す機会がありました。(町には、元日本兵の方がおります)
大分日本語も含め忘れているようでしたが、
日本人が来たという事で、とても喜んでおりました。兵隊と、とても仲良くされていたようで
話している間は、終始笑顔が消える事はありませんでした。
戦争の記憶とは、無残で惨たらしい記憶ではありますが、
この老人のように青春であり、かけがえのない思い出なのです。
私は戦争肯定論者では、ありませんが全ては否定致しておりません。
何故かというのは、置いておいて
早速、図々しいようですが、私はこの老人の、その当時従事していた部隊の方に再会したい
という願いを叶えてやりたくと思いお聞きしたい事があります。
老人が従事していた部隊は何であったのか?という事です。
曰く、モリハシゴヨウブタイ というらしく
1000人規模でどうやら前線部隊ではなく、補給部隊らしいとの事。
(大隊・中隊等特定できず)
舟を作り渡河したらしい。(何処だか特定できず)
ヒマウマ という山を登った(世界一高い山だといっていたのでヒマラヤだと推測)
私は、ヒマラヤを登ったという部隊は聞いた事ありませんが。
従事した時期は、1943年辺りから二年間原爆落とされるまでです。
今のところこれだけの情報しかありません。どうもすみません。
掲示板での投稿並びに私の要望に関し、深くお詫び申し上げます。
何か情報お持ちの方御座いましたら、メールでも戴けたら幸いです。
第3偵察隊

599.国民総意 投稿者:窪田やよい  投稿日:10月 1日(火)14時35分39秒

 

大泉裕次さん、ご訪問&書き込みありがとうございます。

>開戦は生活向上を願う当時の国民の総意に近いものでありました。
私の父母のニュアンスからもきっとそうだったのだろうと思われます。
今は言論の自由だとか思想の自由だとか、個々の自由を尊重しますから、「国民総意」なんてことはあり得ないですね。それも善し悪しのような気もしますが。

598.ありがとうございました。 投稿者:大泉裕次  投稿日: 9月30日(月)13時44分00秒

 

敗戦までの道程に、多くの方々の筆舌に尽くし難いご労苦がございました。膨大な戦死病者の方々に何とお悔やみ、お慰めしてよいやら言葉がございません。開戦は生活向上を願う当時の国民の総意に近いものでありました。新聞・ラジオ報道・絵本・絵画・小説・歌謡曲・等が、国民を煽り煽った結末でした。この戦争に反対とは一度も報道されませんでした。敗戦と引き換えに日本の繁栄は実現しました。今では世界一の長寿国、短命で終わった多くの兵隊さんの命と、引き換えてしまったのです。ほとんどの国民は心苦しいのです。ありがとうございました。ご多幸をお祈りいたします

597.そうかな? 投稿者:横浜の旅人  投稿日: 9月30日(月)00時13分15秒

 

サガインの丘からインパール方面を見て、そこに食料が調達できるとか思わないよ、雨季、乾季も激しいし、山又山で食料が調達でるなんて、とても思えなかったなぁー。ただの荒地だったよ。
水田なんて殆ど無い。

596.拉致事件 投稿者:窪田やよい  投稿日: 9月25日(水)20時04分57秒

 

ショッキングな「拉致事件」に心奪われ、戦争のことはスッ飛んでしまいました。
現実は小説より奇なり、といいますが、まったく想像もつかない出来事です。
そういうわけわかんない国がご近所にいて、仲良くなんかしたくないけど、現に関わりがあるわけで、どうお付合いしたものだか、悩ましい問題です。
私は小泉首相を支持します。とりあえず、今の政治家の中では一番問題解決してくれそうな人だと思います。外交問題に限らず国内の問題にしても、大局に立っての考えが大切なのだと思います。個々に細かい部分では不満もあるでしょうが、ただ批判して足をひっぱるだけではいけないと思います。

595.戦後の我々日本人の姿 投稿者:分隊士  投稿日: 9月22日(日)13時43分53秒

 

八年に及ぶ戦争の是非論は兎も角、徴兵や赤紙一枚で召集され、無責任な戦争指導者達の政略・戦略・戦術の大失敗のツケを命をもって支払わされ犠牲になった人々が数百万人いたという事実。
この事実から目をそらしてきた戦後の我々日本人。

594.(無題) 投稿者:連隊予備  投稿日: 9月10日(火)12時52分45秒

 

まあ、TV放送局のいってる事なんてそんなにアテにはなりませんしね。横浜の旅人さんはおそらく一般人でしょう。マスコミなんてあまり頭から信用しない方がいいかと思いますよ。
あなたの言うとおり社会にはばかげた事が多いです。マスコミを信用しすぎるのもその内の一つですよ。これは私自身の経験から得た教訓です。
まあ、インパール作戦自体が無謀だったのは理解できますが当時の日本は米軍と違い兵站に対する認識が甘かったのも作戦実行に踏み切った原因の一つだと思います。資源のすくない日本としては現地調達するしかなかったんでしょうけどね。

593.一若人さん 投稿者:横浜の旅人  投稿日: 9月 9日(月)15時24分49秒

 

以前NHKて゛やっていた、インパールの特集番組では、インパール作戦は成功の見込みなし
と陸軍大本営で、ハッキリした作戦予想が出たそうです、しかし、牟田口氏の親玉のお偉いさん
(大将クラスだったか?)『牟田口君がそんなにやりたいなら・・・』と横車を入れて、圧力的
とでも言うのか、作戦は実施された。 一若人さんは、まだ学生さんかな? 社会にはこういう
馬鹿げた事がしよっちゅうありますよ。 注意しましょう。

592.(無題) 投稿者:窪田やよい  投稿日: 9月 6日(金)20時34分02秒

 

めだかさん ご訪問&書込みありがとうございます。
うれしいです。
ミャンマーでの話題などありましたらお聞かせください。

591.はじめまして 投稿者:めだか  投稿日: 9月 5日(木)14時13分13秒

 

太平洋戦争についての資料検索からこちらのサイトに辿りつきました。
ミャンマー(旧ビルマ)には4年ほど滞在した経験があります。その折、ミャンマーの歴史に触れ、慰霊の地なども参りましたが、改めて、こちらのサイトの内容を拝読しながら涙を流さずにはおれませんでした。
貴重な記録を読ませていただきましてありがとございました。

590.首脳会談 投稿者:窪田やよい  投稿日: 8月31日(土)17時31分20秒

 

ある出来事を一括りに断言することは難しいですね。きっといろいろな人がいていろいろな事情があったのでしょう。
ところで、小泉首相が北朝鮮を訪問することになりましたね。
どんな成果が得られるか興味津々ですね。話し合いだけの交渉は武器を使った交渉よりずっと緻密な戦略が必要だろうと思います。世界の恥とならぬよう、最高指揮官の小泉さんには是非がんばってほしいです。

589.(無題) 投稿者:連隊予備  投稿日: 8月30日(金)16時43分48秒

 

これは酷い、「補給が無い」「捕虜になるな」など命令を出したことは殺したも同然、大体自分は安全な所から命令を下すなどというのが恥知らずですね。>>

まあ皆がみなそんな指揮官ばかりだった訳ではないですし。なんだか当時の指揮官は皆極悪だったと言う風潮が今の日本にはありますが、そんな風潮のほうが恥ではないかと思います。ミートキーナの水上将軍などは部下を助けるために自決したりもしているし、東条英機も東京裁判では奮戦しておられました。こう言った事が語られないことは悲しいことですね。

588.当時の状況下は・・・ 投稿者:窪田やよい  投稿日: 8月25日(日)11時47分50秒

 

確かに補給もろくにできないような状況で戦争を続けたことは犯罪にあたるかもしれませんが、
当時、資源のない日本がどうすべきであったかは、簡単には結論付けない問題だと思います。
単に指揮官が云々の問題ではないと思います。
今の私たちがすべきは、日本のために戦ってくれた方々に感謝の念を持つこと、そして一人一人がよりよき社会をつくるべく努力することです。

587.戦没者に捧ぐ 投稿者:20代 男性  投稿日: 8月25日(日)05時03分56秒

 

この様な体験記を読ませて頂いて色々と感慨深い思いをしました。
当時の凄惨な状況を思うと胸が詰まります。
過酷な状況下で自分だったらとても辛抱できません。
恐ろしく、悲しい話です。

何より許せないのは同胞によって死に追いやられた方々が大勢居たと言う話で、
これは酷い、「補給が無い」「捕虜になるな」など命令を出したことは殺したも同然、大体自分は安全な所から命令を下すなどというのが恥知らずですね。
敵よりも始末が悪い、銃弾に倒れた方より飢餓や自決した方が多いのは絶対に指揮官に有るはず。
本当の戦犯はそういう連中に有ると思う。
人道的にも同胞としても許せない行為。

連日のニュースでもまだそういったトカゲの尻尾切が見られますが、真に悲しい事だと思います。


世の中の流れとは恐ろしいですね、誰が流れを作るのか防ぐのか考え深いです。
世界中が平和であるようにとに祈るばかりです。

586.牟田口氏と。。。 投稿者:一若人  投稿日: 8月17日(土)00時27分32秒

 

僕はあまり詳しいことは分かりませんが
インパール戦(ウ号作戦)の実行を決意した理由は
 ・悪化する戦況をインパール戦の成功で形勢逆転させたかった大本営
 ・牟田口氏の判断(最初は本人も乗り気じゃなかった?らしいですが)
 ・英国からのインド開放を目指すチャンドラボース氏(インド国軍代表)
  の強い意向に応えたい大本営
などの理由で 実行に移されたと 何かの本に書いてあった記憶があります。

残念ながら いなくなったはずのインド軍再駐留や憲兵隊の問題、
南機関の解散など 様々な理由により
日本軍が育てたビルマ国軍は ウ号作戦の失敗が明らかになった頃
英軍の指揮下に入りました。
(当時の大本営は どちらかよるとビルマのバーモ博士
 よりインドのボース氏の意向を大事にしていたようです。)

そんな中でも撤退する日本兵を助けてくれたビルマ人も
沢山いたそうです。
そういった経緯もあって インドもビルマも親日家が多いらしいですね。

585.追加 投稿者:窪田やよい  投稿日: 8月16日(金)09時41分37秒

 

↓の記述が気になって、追加です。
トップに立つ人間に求められるもの、付け加えたいものはたくさんありますが、ひとつあげるとしたら「美学」を是非。

584.大石さん、ricks さん 投稿者:窪田やよい  投稿日: 8月14日(水)20時09分13秒

 

>大石さん
牟田口中将の責任についてはよく問題にされることですが、事実関係がはっきりしない限りは断定できないことですね。とんでもない輩だったのかもしれないし、実は苦悩の末の止む得ない決断だったのかもしれないし。言える事は、人の上に立つ人間は、洞察力、判断力、実行力に優れていなければならないということです。もちろん公のための使命を心得ていること。
今の日本の政治をみていると人の上に立てる資質の人間がいるのか疑わしいですね。

>ricksさん
夏休みでもあるしやはり8月は訪れてくださる方が多いようです。ありがとうございます。
本文もですが、掲示板に寄せられたたくさんのご意見もとても貴重ですので、是非ご覧下さるようお勧めいたします。

583.有り難うございました。 投稿者:ricks  投稿日: 8月14日(水)08時45分45秒

 

終戦の日を前に偶然にこのホームページを拝見しました。
大変に貴重な記録だと思います。
私も父からは従軍の話を良く聞きました。
今はもう亡くなりましたが・・・・
戦争経験者が急激に少なくなっている現在に
こうして記録をして多くの人に見てもらうのはすばらしい事だと思います。
有り難うございました。

582.インパール作戦の責任について 投稿者:大石  投稿日: 8月14日(水)00時30分06秒

 

この無謀な作戦を強行したのは、牟田口中将であつたと思うのですが、彼のせいで多くの兵隊が、戦わずして、飢えやマラリヤなどの病で死んでいたわけですが、彼は、戦後も長く生きたと思うのですが、彼は責任少しも感じなかったのでしょうか、もし責任を感じていたなら特攻を指揮した大西中将のように自決したはずです。このような人格の人間が、軍部の中枢にいたのが日本の悲劇だつのでは、ないでしょうか。

581.123さんへ 投稿者:麗小丹  投稿日: 8月 4日(日)23時05分02秒

 

123さんの仰るように私の81歳になります父もアメーバー赤痢で倒れている所をビルマの人に助けられ99死に一生を得る事が出来た一人です。緑内障で最近片方の目の視力を失った父ですがミャンマーに今4つ目の学校を建設中です。そして来年は北部ミャンマーに慰霊に訪れる予定です。
昨年高松のうどん屋で息子さんが証券会社勤務で日本に住んでいるイギリスの老紳士と知り合ったそうです。仲良くお酒を飲み写真を取り気持ちよく語り合い楽しい一時だったそうです。戦争中は敵味方だった者同士が酒を酌み交わし・・・。父も本当に嬉しそうでした。

580.暑いですね 投稿者:窪田やよい  投稿日: 8月 2日(金)10時28分24秒

 

123さん、ゴジラズワイフさん、はじめまして。ご訪問ありがとうございます。

父は今年79歳になりますが、お陰様で元気に過ごしております。
今は桃の収穫作業に精を出しています。私たち若いモンはお手伝い程度で、まだ父母が主力でがんばっています。しかし、連日の猛暑ですから農作業ができるのは早朝からせいぜい10時くらいまでと夕方ですね。

579.始めまして 投稿者:ゴジラズワイフ  投稿日: 8月 2日(金)06時27分49秒

 

こんにちわ
まだ全部拝見していませんが
このような記録が若い方々にも自由に見てもらえるようになったのは
嬉しい限りです。
ワイフの郷土の138聯隊もインパールで辛酸を舐めました。
戦友連の会長さんは58聯隊の出身のためか
戦友連にはインパールに参加して部隊も多いみたいです。

終戦の8月15日にあわせて
靖國神社参拝関係の年表
年表と付随資料を下記にアップしました。
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/yasukuni/nenpyo_2.htm

今後ともよろしくお願いします。

   T機關總本部運營委員&WEB戦中派事務局 ゴジラズワイフ拝

 


578.ぜひご自愛ください 投稿者:123  投稿日: 8月 2日(金)00時33分09秒

 

40歳男性です。
たいへん興味深く、そして厳粛な気持ちで拝読いたしました。
先日、会田雄次さん筆のアーロン収容所を読みましたが、内容が似ていたので、感慨深いものがあります。
貴サイト中の内容でも、また、アーロン収容所書中の内容でも、印象深いのは、どういうわけかビルマの人たちが敗走する日本人に親切だったことです。現在は、残念ながら政情が不安定ですが、いつかミャンマーを訪れてみたいものです。そして、そのときに、日本人に親切にしてくれた人たちに、なにか恩返しができればいいな、と思います。
戦争は本当にクレージーです。勝ち戦だったイギリスも多くの犠牲者をだしているわけですし、双方の犠牲者に哀悼の意を禁じ得ません。
21世紀は、20世紀の轍をふまえ、戦争による犠牲者がでないように祈るばかりです。
そして、辛くも生き延びた方々には、くれぐれもご自愛の上、すこしでも長く、苦しい思い出に苛まれることがあろうとも、幸せな生活を送っていただけますように願う次第です。

577.自衛隊について 投稿者:連隊予備  投稿日: 8月 1日(木)10時29分44秒

 

ご丁寧なお返事ありがとうございます。即応予備はこの7,8月の暑い中完全装備の訓練で中には倒れるものが出てきました(笑)。最近の日本は暑いですね、演習場にいると実感するのですがここ数年で気温が上がっているようです。
私たちは自衛隊のことをよく知らないんだなあとふと気付かされます>
日本の学校では軍事についてはほとんど教えませんしね。教師達がまったく知らないので仕方ないですが。

576.戦没者 投稿者:窪田やよい  投稿日: 7月29日(月)11時07分22秒

 

松林さん はじめまして。
ビルマ出兵者の8割が戦死(あるいは病死)したそうですから本当に悲惨ですね。
名簿に記載されてない方々も相当数いるのではないでしょうか。
ご冥福を祈るばかりです。

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