過去の掲示板(その17)


「インパール作戦・父が語る戦争体験記」への感想を多くの皆さんに書いていただいています。今までの掲示板への書きこみ内容をまとめてみました。上から順に新しい書きこみとなっています。
なお、改行位置などは一部編集してありますのでご了解下さい

平成11年3月の掲示板開設以来のもの(No1〜63まで)は「過去の掲示板その1」をご覧ください。
No64〜99までは「過去の掲示板その2」をご覧下さい
No100〜172までは「過去の掲示板その3」をご覧ください
No173〜206までは「過去の掲示板その4」をご覧ください
No207〜250までは「過去の掲示板その5」をご覧ください
No251〜279までは「過去の掲示板その6」をご覧ください
No280〜321までは「過去の掲示板その7」をご覧ください
No322〜371までは「過去の掲示板その8」をご覧ください
No372〜407までは「過去の掲示板その9」をご覧ください
No407〜456までは「過去の掲示板その10」をご覧ください
No458〜483までは「過去の掲示板その11」をご覧ください
No484〜541までは「過去の掲示板その12」をご覧ください
No542〜576までは「過去の掲示板その13」をご覧ください
No577〜619までは「過去の掲示板その14」をご覧下さい
No620〜673までは「過去の掲示板その15」をご覧下さい
No674〜737までは「過去の掲示板その16」をご覧下さい

ホームページ編集責任  窪田 幸唯 mailto:kubota@mxa.cosmo.ne.jp

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   793.re:55連隊 投稿者:窪田幸唯  投稿日: 813()133029

マツ子さま
なくなられた方々に対する調査方法は8/10の書き込みをご覧ください。
55
連隊がどう移動したかは上記方法で問い合わせればわかると思います。
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/55.htm
 に記述がありますが、真偽のほどはわかりません
「鎮魂のためのお参り」はマツ子さんご自身の考え方によります。お祖父さまだけのためであればお墓でよろしいのでは?広く戦没者に対してということであればご自分の考え方次第ではないでしょうか。


792.55連隊 補充部隊について 投稿者:マツ子  投稿日: 812()193724

 体験記、大変参考になりました。ありがとうございます。私もおじいちゃんのことが、もしくは部隊に何があったか知りたいです。
 昭和196月に召集。20826日に湖南省で戦病死したことになっています。
本当のところは、中国に行ったころから連絡が取れなくなり、終戦後、復員しなかったことから役場がつじつまを合わせたようなのです。
 じゃあ、おじいちゃんの遺骨の代わりの石は何?役場が持って来たらしいのですが、どこから来たの?ばあちゃんも辛かったようで、何も教えてくれませんでした。
 本当のことが知りたいのです。あと慰霊碑とかあるのでしょうか?他県では、連隊ごとの慰霊碑があるようなのですが、本県にはないようです。鎮魂のためお参りに行くのは護国神社でいいのでしょうか?靖国神社でしょうか?よろしくお願いします。
 


791.パール判事について訂正 投稿者:小松 悟  投稿日: 812()104545

10日の書き込みで、パール判事が愛妻の死に目にも会えなかったと書き込みましたが間違っていました。東京裁判が終わり昭和23年11月に帰国された時、奥様は病床にあり、ほとんど口も利けない状態で、昭和24年5月に亡くなられたとのことです。
大変失礼しました。お詫びして訂正します。


790.太平洋戦争 投稿者:窪田やよい  投稿日: 811()224129

小松 悟さん、我が意を得たり、の書き込みありがとうございます。
パール博士に関する補足もありがとうございます。
私の戦争に対する認識は父の価値観が基本にありますから、簡単に言うと「日本は正しかった」というものです。
それはアラ探しをすればマズイ部分はあるでしょうし、なんといっても戦争ですから、慈善事業してるわけではなし、相手国のことより自国の利益を最優先するのが正義でしょう。現在の日本人が過去の日本に対して、恥たり、引け目を感じるようなことは何もないと思います。謙譲の精神は尊いですが、何事も度が過ぎるとヘンです。自分自身に、自分の国にも、もっと誇りを持ちましょう。それはなにも相手を見下したり攻撃することではなく、寛大になれるということです。


789.yukiさんへ 投稿者:窪田やよい  投稿日: 811()223449

yukiさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
太平洋戦争についてしっかり捉えておくことは、今の社会の成り立ちや、自分自身のあり方を考える上で是非必要なことだと思います。戦争に対しての捉え方は人により様々なようで、さらに思想的な部分が大きくなり、事実が見えにくいところがありますね。身近に体験者がいれば、それはもう間違いのない事実が得られます。
yuki
さんの御祖父様は私の父より随分先輩でいらっしゃるので、父とはまた違った体験をなさっていることと思います。よくお話をお聞きしておいてください。お元気なご様子、素晴らしいですね。


787窪田幸唯様 投稿者:まるこ  投稿日: 811()110751

ありがとうございました。部隊の動きだけでもわかることは知りたいので、問いあわせてみます。
 でも知らない土地に連れて行かれて、帰りたくても帰ることができずに亡くなった人たちがまだそこにねむったままなんて心が痛いです。戦争って嫌だな。


786.゚ール博士について 投稿者:小松 悟  投稿日: 810()20537

最後のページの最後に、パール博士(判事)が東京裁判の途中で本国に帰ってしまわれたということが書かれていましたが、パール博士は最後まで裁判に参加されました。途中奥様が大変な病気をされたので一旦帰国されたのは事実のようです。しかし、病床の奥様が裁判は最後までやってきてくれ、自分は博士が戻るまでがんばるから、ぜひ東京へ戻って裁判に参加してくれ、もし博士が自分の死に目に会えなくても、決して恨むことはないので途中で放り出さないでくださいと懇願されて、戻ってこられ、最後まで裁判に参加され、日本無罪論の判決書を書かれています。その翻訳本は「共同研究 『パル判決書』」として講談社学術文庫から上下2巻で発行されています。また、「パール判事の日本無罪論」として田中正明氏が小学館文庫から発行されています。結局は裁判が済んで帰国されたときには奥様は亡くなっておられたと聞いています。パール判事の名誉のために申し上げておきます。


785.防衛研究所図書館史料室 投稿者:窪田幸唯  投稿日: 810()161812

まるこ様
同様な問い合わせをいただくことがあります
「防衛研究所図書館史料室」が個々の関係者の問い合わせに対応しているとのことです。
http://www.nids.go.jp/military_history/military_archives/
部隊名、住所氏名など分かっていることを伝えれば、部隊の動きなどは分かると思います。ただ、お祖父さんのことを知っている人ということになると同じ部隊の戦友会があれば別ですが、ほぼ不可能ではないでしょうか


784.大いに参考になりました 投稿者:小松 悟  投稿日: 810()083012

初めまして、64歳の老人です。私は小学校以来学校で、本や新聞で、「大東亜戦争は日本が侵略のためおっぱじめ、軍部が主導した、東条元首相を始めとする陸軍が悪いのだ。各地虐殺をし、略奪をてきた」ということを見聞きするたびに、「子供心に日本の昔の方々がそんなに悪いことをするわけがない。日露戦争で勝利の後、ステッセルとかロジェストウインスキーとかという敵の将軍の処遇の仕方を見ても、ちゃんと敵の将軍としてもてなしていますし、日露不可侵条約にしてもドイツからしきりに誘いがあっても、決してドイツの言う通りにはしていません。また、従軍慰安婦についても、若い兵隊の性の捌け口を現地の若い女性に向けさせないように、日本からわざわざ派遣していたことからも、そのことが伺われます。このようなわけで、中学以来本を読むことを止めていました。定年退職して、少しずつ本も読み、インターネットで見ているうちに、このページを見ることになりました。特に、最後のページで「ラングーン空港からバンコク行きの便を待つ待合室でのこと」の部分には感動しました。マレーシアの国会議員だったラジャー・ダト・ノンチックさんが同じように「日本人よありがとう」と言っておられるということも聞いております。私の子供の頃の思いが間違っていなかったことが、いたるところで証明されているようで非常にうれしく思っています。マレーシアのマハティール元首相も「日本人よ昔の日本人に帰れ」としきりに言われているようですが、私たちも大東亜戦争で御苦労された方々に鞭打つような馬鹿なことはいい加減止めにしないといけないと思う日々を過ごしています。私は東条元首相を始め、多くの東京裁判等での犠牲者は『殉難者』と思っております。本当に良い内容のページを見せていただきありがとうございました。


783.初めまして 投稿者:yuki  投稿日: 810()022634

初めまして。yukiと申します。最近になって、太平洋戦争や日本軍に興味を持ち、色々と
学んでいる最中です。さまざまな本を借りて読んでいますが、祖父の話が一番勉強になり、
また、同時に色々と考えさせられます。
祖父の話を聞いて、祖父の居た軍がどういったものなのか、を知りたく思い、探していた
所、このように素敵なサイト様を見つけることができました。

私の祖父は、90を超えているのですが、太平洋戦争時、烈師団の衛生兵をしていた
そうです。私は、まだまだ学んで日が浅いですので、詳しく言えないのですが、祖父は
未だに、「食糧も不足していたから、退いた団長の選択は正しかった」と言っております。
一つの間違いが、全滅を招きかねない当時、命令に逆らってでも隊員を守ろうとした気
持ちは、素晴らしいと思いました。

祖父は、よく戦争の話をしてくれます。祖父の話す体験談は、私にとって、戦争をして
はならないのだという強い思い、戒めとなっています。

それでは、失礼致します。
中々文章をまとめることが出来ず、申し訳ありません…。乱文、失礼致しました。

 


 

782.突然ですが 投稿者:まるこ  投稿日: 810()005855

私の祖父がビルマで戦死したのでいろいろ見ていたらここにきました。
どのように亡くなったのかのか知りたくて、祖父のことを知っている人を
探したいのですがどうしたらいいかわかりません。何か方法があれば教えてください。
突然こんなことをきいてすみません。


781.反日行動 投稿者:窪田  投稿日: 8 6()133550

靖国神社のサイトや中央官庁のサイトが外国からと思われるアタックを受けているとのことです。
中国におけるサッカー大会での日本チームに対する非常識な行動といい、ひどいものですネ。
反日行動の根には「貧しい」ことがあるとの分析もありますが、低レベルだなぁ


780.久保さん、かぼちゃさん 投稿者:窪田やよい  投稿日: 8 4()173551

久保敏夫さん
かぼちゃさん
ご訪問&書き込みありがとうございます。
私の父は子どもの頃からよく戦争の話をしてくれました。今でも戦争の話をするのが大好きです。
このサイトを立ち上げてから、戦争体験者でも戦争のことを語りたがらない方もいらっしゃるのだなあ、と驚いたものです。
その人その人によって「戦争」は違うものなのだなと思います。当サイトも一個人の一事実として捉えていただければ幸いです。
一緒のレスで失礼しました。


779.大正6年生まれの父も・・・ 投稿者:かぼちゃ  投稿日: 8 4()122854

窪田やよいさん
ご一家のあたたかい雰囲気がとても素敵な掲示板ですね。
お父様、日々お元気になられているそうでよかったですね。
うちの父は大正6年生まれの今年87歳ですが
やはり、ビルマに送られていました。
終戦後はあちらの収容所にしばらくいたそうですが、
当時のことはあまり語ってくれません。
お父様の日記を拝見して、父が見ていた光景を
初めて目にして感慨深いです。

わたしの父は持病からいろいろと合併症も経験しましたし
昨年は大腸がんの手術も乗り越えて、現在は母と二人で暮らしています。
今年の暑さことに厳しいですが、お元気で過ごされますように。

またまたメールにてご面倒なお願いをしましたがよろしくm(_ _)m

http://www3.ocn.ne.jp/~kurbis/


778.父を偲んで読ませて頂きました 投稿者:久保 敏夫  投稿日: 8 2()114142

4年前に他界した父が、学徒出陣の少尉として第54師団歩兵第121連隊に所属し、策集団転進(実は敗走)の支援をしました。父にとっての数少ない戦闘経験(後退支援の僅かな砲撃)や鉄道物資輸送での出来事や戦後の英軍捕虜生活について面白そうな話を選んでを聞かせてくれましたが、策集団後退のひどい状況については語りませんでした。又、残酷な話は一切しませんでした。言いたくなかったのでしょうね。今は亡き父を偲んで読ませて頂きました。有難う御座いました。


777.ありがとうございます 投稿者:窪田やよい  投稿日: 722()211854

32tmさん いつもありがとうございます。
好奇心旺盛でインターネットを楽しんだり、あちこち積極的に行動する、その意欲的な心が32tmさんの元気の源なんですね。これからも益々ご活躍ください。


776.おめでとうございます 投稿者:32tm  投稿日: 722()00016

お元気で退院されたよし、おめでとうございます。後はしっかり自宅で御療養してください。
私達の部隊の戦友も80才を越してもまだまだ皆元気で戦友会にでてきてくれます。

今月17日18日と高野山のミヤンマー慰霊祭に参加してまいりました。
なかなか皆さんお元気で、ビルマのタテコトの演奏や、女子留学生によるビルマ踊りなどもあり和気藹々の内に17日の前夜祭が終わりました。ミヤンマー大使夫妻も列席され、今年も台湾の戦友がはるばる参加されるなど和やかに前夜祭を終えました。

18日は早朝5時30分からの護摩法要後、奥の院の慰霊塔に集合してご供養、10時から成福院
摩尼宝塔にて慰霊祭が行われ今年も無事終了。来年の再会を約し下山しました。

窪田戦友、どうか元気でいつまでもこのホームページが続けて下さい。


775.元気になりました 投稿者:窪田やよい  投稿日: 718()230953

父・窪田孝之助は20日ほど入院して先週退院してまいりました。
現在自宅療養中。日に日に回復しております。
倒れたその日も暑い日中に農作業をしていました。具合が相当悪かっただろうに、頑丈すぎたというか我慢強いというか。回復の早いのにも驚いています。若い頃鍛えた心身の強さですね。

nakamura さん、ご訪問&書き込みありがとうございます。
丁寧に見ていただいてうれしい限りです。
連日の好天で空気は澄み渡り、我が家から大菩薩がきれいに見えます。暑い下界を離れて夏山登山なんていいですね。塩山へのまたのお越しをお待ちしております。


774.大正14年生まれの父 投稿者:nakamura  投稿日: 718()15599

インド独立・チャンドラボースに関する本を読んでから、イギリスの統治下で
あった国と、日本軍の戦争での係わり合いを知りたくなり、このHPを
拝見いたしました。

窪田氏とほぼ同年である(大正14年生)の亡父の14度目の夏となり、
戦争の話を聞いたこともほとんどなく、ただ敗戦まもない中国で、足に
流れ弾のかすり傷があるだけ、私も、もっと詳しい話を生前に聞いておきたかった
と思います。しかしなぜか、話したくないという雰囲気があり、
私も、積極的には突っ込んだ話はしませんでした。

捕虜となった時に描かれた、絵も拝見させていただきました。
この時は、かなり余裕の筆使いが感じられますが、何度も生死の
境を歩かれてきた記録に、圧倒されました。
地図帳を虫眼鏡でみながら、窪田さんの足跡を追い、
インパールが「インド」領内にあることなど、初めて知りました。

実際に戦争に行かざるを得なかった方の、このような貴重な記録を
読むことはあまりありませんでしたので、いろいろな角度から
当時の歴史を見直して行き、二度と同じような思いをするような
ことにならないような世界にしたいと思います。

塩山は、大菩薩峠、甲武信岳などの入山時の駅として
何度も利用してます。窪田考之助氏の体調がよくなることを
祈念して筆をおきます。


773.書き込み感謝です 投稿者:窪田幸唯  投稿日: 7 8()234447

沢山の方々の訪問感謝です。一日あたり50100アクセスがコンスタントに続いていていることにこの掲示板を支えていただいている訪問者の方々のエネルギーを感じます。
実はこのサイトの主人公である窪田孝之助が体調不良のため、妻、やよいは農作業の主力として桃の管理収穫の真っ只中です。そんなことで書き込んでいただいた方々へのレスポンスが遅れておりますがご容赦ください。

 


772.(無題) 投稿者:RIKI  投稿日: 7 4()191653

現在、大学の学部で法学を学んでいる者です。以前に、日本軍の、占領地における戦争犯罪の罪責について、研究した事があり、こういった生々しい史料を読んだことはあったのですが、このページをみて、当時の日本軍の一人の兵士から見た視点は今後の研究に、とても役立ちますし、また、これは日本国民である者は誰もが知っていなければならないことでもあると思います。20年後には、戦争を語ることのできる人々は次第に減っていきます。できるだけこういった活動をして、後世に語り継ぐべきですね。


771.日本民族ありがとう。 投稿者:momo  投稿日: 7 4()023456

貴重な史料を読ませていただきました。
日本民族というのがどういうものであったかというのがなんとなく分かりました。
と同時に、大事にしていきたいなと思いました。
これまで小泉首相が靖国神社に行くと、中国と韓国がうるさいから
行かない方がいいのにと思っていました。
しかし、このサイトを見て首相だからこそ公式参拝して欲しいと思いました。
このたびは、考える機会を与えていただきありがとうございました。


770.元自衛隊員です 投稿者:ME  投稿日: 626()004756

検索でここにたどり着きました。
私は過去、海上自衛隊員でした。3曹で依願退職し、現在は普通の会社員です。
体験記を拝見させていただきましたが、いざ有事になった際に同じような勇気のある行動が取れたか分かりません。本当に紙一重以下で命が左右される事態になった時、職務を遂行できるのか疑問です。
祖父は元陸軍で健在ですが、私が自衛隊に行っていた時はかなり心配していたようです。
今現在、戦争を体験した人が少なくなってきていて、これから日本の進む道によっては戦争やテロに巻き込まれる事も可能性はゼロではありません。むしろ高いと思います。
こうしたサイトは興味のある人でないと探しませんし、見ないと思いますが、広く色々な方々に当時の苦境を知って、理解してもらうことが大切だと思います。


769.re)日本の実力・和を地球へ 投稿者:ミズキアキラ  投稿日: 624()223527

名実ともに日本がリーダーになれる日は来ます。

このwebを見てください。日本精神=和の心を、世界へ広げようと言う運動です。
キリスト教の西洋文化ではなく、和のグローバライゼイションだというのです。
偏狭な国家主義では有りません。何だか、希望が湧いてきませんか?

ちなみにwebを主催している東郷先生の「善悪中毒」は、西洋風の善悪の危険をあますところなく解き明かした、まさに名著です。快楽殺人から戦争まで善悪の発想が引き起こしているという可能性を指摘されているのです。善悪と言う分離の思想に対抗する思想が和、です。
こちらもURLを入れておきます。是非、是非、お読みになってください。
http://homepage3.nifty.com/pub-liberta/627.html

http://www.j15.org/index.html


768.日本の実力 投稿者:窪田やよい  投稿日: 616()105748

y&hママさん こんにちは。
日本人の欧米に対するコンプレックス引け目は根強いものがありますね。若い世代の方々はそうでもないのかな。逆に欧米人の日本(アジア)に対する優越感も根強いと思う。
日本は世界の表舞台に先頭立つことに不慣れである、もしくは優位な立場にあるよりは誰かの後ろでひっそりしている方が居心地がいい、みたいなところがあるんじゃないでしょうか。自分の能力を過小評価したがる傾向があるみたいな。自国が優れていることが気に入らないみたいな。
自国を過大評価し他国を臆面もなく非難する国を滑稽にも思いますが感心もします。
日本の文化や技術力は世界に胸を張って誇れるものです。世界の舞台で活躍している人も大勢いるし、日々の暮らしの中で努力して工夫してよりよい結果を追求している人が大勢いてこれはもう世界一だと思うんですが、名実共に日本が世界のリーダーになれる日がくるのでしょうかね。
皆様のご意見もおききしたいです。


767.2度目の訪問です。 投稿者:y&hママ  投稿日: 612()215542

私は現在アメリカにに住んでいます。先日日本へ一時帰国した時のことです。
祖母の家を訪れた時、仏壇の横に大叔父(昭和20年3月19日ビルマにて戦死)の写真が飾られているのを見つけました。私は初めて大叔父の顔を知りました。驚くほどハンサム、そして盛観な姿に思わず見惚れてしまうほどでした。でも、反面とても悲しくもありました。その写真の中には大叔父とその友人も一緒に写っていました。この写真の中の青年達は程なくして戦地へ出向いて行くのです。尊い命をこの国に捧げる為に。写真の中の当時はなんら今と変わらない青年達とその風景を写していました。大叔父は当時、中国語が堪能で通訳として中国へ行く話を断ってビルマへ出向いて行きました。自分1人が生き残る道より戦友と共にこの国の為に戦う道を選んだのです。昔の若者、今の若者、何が違うのでしょう。今の若者達はこの国の事どれだけ考え、今ある幸せがどれだけの人の犠牲の上に成り立っているのか知っているのでしょうか。 私もそうでした。今在る幸せは当たり前のものだとずっと思っていました。経済大国日本、命が脅かされる危機感もなく、平和で物が有り触れ裕福になったように思われるのに、悲しい事件ばかり、またいつまでたっても戦争を止めない国々、大叔父をはじめこの国の為に命を捧げた勇士は今この日本、世界を見てどう思うのでしょうか。
追伸:こちらに住んでいて思うのですか、日本は物作りに関してはものすごく優れていて、気が付くと日常に日本のものが有り触れています。車を始め、精密機器、アニメ(すごい人気です)・日本食もヘルシーということで大ブームです。こんなに日本の影響が強いのにいつも弱い立場にあるのは何故なんでしょうか。


766.カップヌードル 投稿者:窪田やよい  投稿日: 6 6()220259

歴史初心者さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
一兵士の一事実です。参考にしていただければ、幸いです。
カップヌードルのテレビCMのように、皆に1個ずつ漏れなく行き渡れば、皆笑顔で平和でいられるのだと思います。でも現実はなかなかそうはいかなくて、争いが起こるのでしょうね。


765.初めまして 投稿者:歴史初心者  投稿日: 6 4()223043

初めまして
戦争に行かれた方の手記を見るたびに
内容の凄さ大変さには頭が下がる想いです。
後輩である我々に是非真実を伝えて頂き
ありがとうございました。


764.32tmさん 投稿者:窪田やよい  投稿日: 510()115226

詳細な慰霊巡拝旅行のご報告、ありがとうございます。
私達の知らないところで、多くの方々のご尽力がなされていることに、驚きと感謝の気持ちでいっぱいです。ご苦労様でした。


763.宮澤宏二 さん 投稿者:窪田やよい  投稿日: 510()114515

ご訪問&書き込みありがとうございます。
戦時下というのは今の時代に想像する以上に厳しい状況なのだろうと思います。
生命の危険を日々感じることなく、お腹一杯にごはんが食べれて、言いたいことを言い放題。
イラクの状況などをテレビで観るにつけ、日本に生まれ育った幸せを感謝するばかりです。


762.(無題) 投稿者:32tm  投稿日: 5 4()21542


 ミヤンマーへの慰霊巡拝の旅も本年で7回目となりました。今年はヤンゴーンにあった日本人墓地がイエイウエイに移転して5年目に当たります。
 5年前の移転したばかりの頃は赤土のむき出した約3千6百坪の土地をコンクリート塀が取り囲み正面中央に大理石造りの慰霊塔、「平和記念碑」が建立されて以来、年々整備されて、むきだしだった赤土も一面に植えられた芝生に広大な緑地帯となり、チャンドウ、タモエの両墓地にあった明治以来の日本人の墓石も移転完了して、5年前に植樹したブーゲンビリヤの若木もしっかり根付いて紅や白の花を咲かせていました。
 イエウエイ日本人墓地の管理には墓地内の一隅に現地人家族が住み込んでいて、木々の水遣りなどの他、不意に訪れる日本人参拝者の応対などをしてくれています。 今年は墓地完成5周年を記念して植樹をすることになりあらかじめ出発前に予約をして若木の準備をしてもらっておきました。 
 ミヤンマーに着き最初に訪れるのはマンダレーの西方イラワジ河に架かるサガインの鉄橋を渡った所サガインヒルの頂上にある各部隊の慰霊碑です。
 此処の頂上広場には、安・祭・弓・菊・壮・烈・電信19・祭第2野病・鯨烈山砲等のインパール・コヒマ・雲南戦線で戦った部隊の慰霊碑・慰霊塔が祖国に向かって並んでいます。
 次ぎに訪れるのは陸路を数時間掛けての (サガインヒルの菊・祭・安兵団慰霊碑群)
メークテーラですが市の中央の湖は昔の儘の姿で満々と水を張り私達を迎えてくれます。西岸には日本仏教教会が建立したパゴダが一際高く聳えてミヤンマーの善男善女の参詣も多く、すっかり地場にとけこんでいるようです。メークテーラは昭和20年3月に我が軍と英印軍とでの死闘が繰り返された所でもあり慰霊碑なども数多く散在している地区です。東飛行場近くのトーマ村のカインドウ寺院には第84飛行場大隊の慰霊碑が建っています。
 タベイワ村に鯨烈山砲・弓215連隊、メークテーラ市内に菊歩55連隊・祭2野病・狼168連隊・狼106連隊・自動車101連隊・勇16連隊・弓山砲33連隊、レインドウ村に、菊56連隊の慰霊碑が有りますが隊員の高齢化などで年々訪れる人も減少模様です。
 私達の慰霊団ではミヤンマー各地で慰霊祭を終わり、帰国のためヤンゴーンを飛び立つ前に英霊にお別れの意味を込めて毎年イエウエイ墓地で締めくくりの慰霊祭を行っていますが、今年は5周年記念の植樹も出来て良い思い出になりました。
 今年を以て鯨烈山砲の慰霊巡拝も終えることになりましたが、また5年後に今年植えた木々の生長を見たいと願っています。


761.インパール作戦 投稿者:宮澤宏二  投稿日: 5 4()112649

私は従兄2名が中国戦線から15軍祭師団(三重、尾鷲市出身)でインパール作戦に参加20台の若さで退却中19年4月相次いで死亡、詳しい様子は不明ですが兄の様に慕っていた二人なので少しでも供養が出来たらと思っています.師団は違っても同じ戦場で当時の空しい戦況が目に浮かび目頭を熱くしています。戦没の皆様に心からのお悔やみを伝えたいと思っています。


760.ドイツはどんな? 投稿者:窪田やよい  投稿日: 415()16313

ピカンチさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
他所の国へ行くと、ましてや、暮らしてみると、日本の国の姿がよく見えてくるのでしょうね。
ドイツの人々の考え方だとか日本に対するイメージだとか、おもしろそうですね。
もっと詳しくお聞かせください。当地での生のお話をお聞きしたいです。


759.はじめまして 投稿者:ピカンチ  投稿日: 414()04376

はじめまして。以前の掲示板の内容が面白かったので、ここに書き込む事にしました。
去年の内容は、今の現在の内容まさにそのままだと思います。
ちなみにですが、私は同じ敗戦国のドイツに住んでいましたが、随分と考え方が日本と違うのを痛感したしだいです。日本も見習いたい所も結構ありました。
余談ですが、私は食品会社に勤めておりましたが、ドイツは食品輸入に関しては厳しい国
なのですが、日本の物はダメだけど韓国産はOKなどアメリカ産はOKなど矛盾しているところがありました。これも敗戦国の弱いところなのでしょうか?
またサイトに遊びに来ます。


758.RE:はじめまして 投稿者:窪田やよい  投稿日: 4 7()234752

大村奈央さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
そんなふうに当サイトをみていただけて、うれしいです。
少しでもお役に立てたこと、うれしいです。
書き込んでいただけて、うれしいです。


757.はじめまして! 投稿者:大村奈央  投稿日: 4 7()15524

初めまして。
私は大阪外国語大学でビルマ語を勉強している3回生です。
先日ビルマから帰国してきて、偶然ここのページに出会いました。
私の研究は、戦時中から現在も続くビルマ人の優しさについてです。
そのため、戦時中のことが知りたくて戦争を体験された方のお話を聞いております。
偶然にしてはすばらしいページに出会えたと感激しましたので、書き込みをさせていただきました。
ありがとうございました。


756.日本のありかた 投稿者:窪田やよい  投稿日: 314()164258

国のあるべき姿とは、そんなに複雑なものではないと思うのですが、体現するとなると諸事情が複雑に絡み合いあれこれ丸く治めてうまくやる、というのは難しいことなのでしょう。
日本の優れた点はなにか、劣った点はなにか、日本の進むべき方向はなにか。
日本人は全般的に優秀、温和、生真面目であると思います。社会の仕組みがうまくいってないのだろうと思います。
問題点を挙げればきりがないですが、でも一つ一つ対処していかなくてはなにも変わらない。
お上に何かを求めるのは所詮無駄なことなのかもしれない。でも基盤となる仕組みは国が作ってくれないと、我々にはどうすることもできないですね。

>真田左近さん
ご訪問&書き込みありがとうございます。
世界が羨望する平和と自由と豊かさを当り前に享受してきた我々は、その事実に深く感謝し、なぜそうありえたのか、これからどうするべきか、広く世界を見渡す眼を持ち、考えていくべきですね。

32tmさん
ご報告ありがとうございました。ご苦労様でした。
32
tmさんのような個々の活動が国を動かす大きな力へと続いているのだと思います。政治家さんたちもせめて自分の仕事をしっかりしてもらいたいものです。


755.植樹のこと 投稿者:32tm  投稿日: 312()001852

題名の植樹のこと書き落としました。すみません。
今年はビルマの日本人墓地が現在地に移転して5年目になります。古くは明治の唐行きさんの墓からこの大戦での慰霊碑までがこの地に集まりました。そこで記念の植樹となりました。

この墓地には管理をする現地の人もおり、幸い水も出ておるので植樹された竹、草木、芝生、皆元気に育って呉れると思います。我が隊の為に植えたブーゲンビリヤと共に5年後、10年後、楽しみにがんばって生きます。


754.植樹 投稿者:32tm  投稿日: 312()000055

やよい様、行って参りました。今丁度ミヤンマーは夏の時期で一番暑い頃です。丁度このときにビルマ中部の平原で60年前に英印軍の機甲部隊を向こうに回し肉弾と日露戦当時の小火器で苦闘していたんだなと考えるだけで涙が浮かびます。

折から3月10日は陸軍記念日、その日にはメークテーラの飛行場を奪回せよとの軍命が下りて僅かに残った将兵が斬り込みをかけました。ただ肉弾と銃剣だけの突進で、あたら尊い命を捧げただけの攻撃でした。

今年も鯨烈山砲巡拝慰霊団稲田団長の小学校校舎寄贈が行われました。団長もよる年波で肉体の衰えは厳しく感ぜられました。然し児童達の喜ぶ姿は大きく参列の私達はすっかりその中に包み込まれてしまいました。持参の文房具を手渡す頃にはいささかウルルン、我が孫達のあまりにも幸せに
思いを致し感無量といったところでした。

ミヤンマーは陸続きの中国の援助で、国内の主要道路、橋梁、空港などの建設を中国から受けていると聞きます。我が国はその中国に莫大な援助をしています。その金が東南アジアの国々に中国からの援助として流れているので有れば中国への援助は即止めてほしいと願うのは当然と思います。

校舎を寄贈したり、文房具を手渡しして懸命に民間外交で頑張っている者のいることを知ってほしいです。有り余っていない尊い我々の税金の使い道を政治家達は真剣に考えてほしいものです。


753.この国の未来を思い 投稿者:真田左近  投稿日: 311()195112

私は元航空自衛官で、以前から戦史に興味を抱く者です。皆様方の平和を願う切実な心に心から敬意を表します。
ところで、この国には平和や安全が当たり前に存在すると云う妄想があります。「平和憲法」なるドグマを崇め、国の安全保障を軽んじるばかりか、他国への屈従的な外交に終始してきたその歩みに、正直なところ疑問も感じます。ここ数年の北朝鮮問題一つ見ても明らかなとおり、戦後日本は国としてのなすべき措置を怠り、国民を守るべきシステムの構築を長らく拒んできたのは事実でしょう。
なお、インパール作戦はその必要性自体疑問に思う向きも多いと聞きます。戦略と云うものを理解しえない司令官が多くの将兵を振り回し、失わなくともよい命を数多失わせた側面もあるのでしょう。‘一将功なりて万骨枯る,とも言いますが、あの作戦は滅茶苦茶な情勢判断と補給、3人の心ある師団長を更迭すると云った愚策により、我国開闢以来の惨事をもたらしたのではないか。私もそう愚考せざるをえません。
畢竟、日本と云う国は現実を直視せず、妙な原理原則や幻想が支配している点で昔から変わりないのでしょう。今は先人の苦労を偲び、貴重な教訓を学ぶ時と考えますが、インパール作戦は我国の負の伝統を垣間見る一つの事象なのかもしれません。


752.防衛研究所図書館 投稿者:窪田やよい  投稿日: 3 5()13596

y&hmamaさん ご報告ありがとうございます。
名前だけは知っていても、実際どのような手続きがなされるのか知りませんでしたが、案外素早く対応してくれるんですね。なにかしら情報が得られますことをお祈りいたします。
お役に立ててうれしいです。


751.訂正 投稿者:y&hmama  投稿日: 3 5()023654

)平籍簿→正)兵籍簿(へいせきぼ)の誤字がありました事重ね重ねお詫び申し上げます。


750.訂正 投稿者:y&hmama  投稿日: 3 4()194758

史料を資料と誤った書き込みをしてしまいました。失礼致しました。お許しください。


749.情報提供ありがとうございます。 投稿者:y&hmama  投稿日: 3 4()192349

窪田やよい様
早速、戦死したおじの事防衛庁に問い合わせてみました。おじの場合、所属していた部隊も分らないので、まずはおじの本籍地である三重県庁にて平籍簿を調べるよう言われました。幸いにも平籍簿におじの名前があり、所属部隊:輜重第15連隊、戦死した日などが分りました。軍歴も遺族に限り、その者とおじとの関係が証明できる戸籍謄本などを添えて手続きを経て教えていただけるとの事でした。その後、防衛庁に軍歴を添えて手紙で何が知りたいかという旨書き添え提出し、返答が得られるということでした。ただ、ビルマでの資料は極めて少ないというお話だったので、どこまで情報が得られるか分りませんが何か手掛かりになるものが残っているかもしれないと僅かながらの望みを持っています。
今年84歳になる祖母もなにか手掛かりになるものが残っているのではないかと願っています。
本当にありがとうございました。何も分らない私に親切にしてくださり、情報提供してくださって
感謝いたします。


748.情報 投稿者:窪田やよい  投稿日: 3 2()235240

y&hmamaさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
過去の掲示板で寄せていただいた情報ですが、防衛庁の防衛研究所図書館に問い合わせてみるのが確実なようです。
http://www.nids.go.jp/
 (防衛研究所)
http://www.nids.go.jp/military_history/military_archives/index.html
(図書館)
ですので、お確かめください。


747.どなたかご存知ありませんか 投稿者:y&hmama  投稿日: 3 2()082151

初めて書き込みさせていただきます。私の祖母の弟はビルマで戦死したと聞きました。当時、三重県の部隊に入り、その後中国へ行きそこからビルマへと行ったようです。詳しい経緯は分りません。名前は杉中清四郎といいます。どなたか、何か知ってらっしゃる方はいないでしょうか。些細な事で構いません。生前の事でも何か手掛かりが欲しいのです。戦没者名簿とかはあるのですか。今、どうしても調べないといけない衝動に駆られています。ビルマでの事、いろいろ調べてるうちにこちらへ辿り着きました。インパール作戦の悲惨さ、戦争の惨さ、戦死された方々の事を考えると私達は今あるこの未来を大切にしていかなければいけない。そうでなくては日本という国の為、平和を願って命をなくした人々の死が無意味になってしまう。私も3歳と1歳の男の子を持つ母です。戦争の事子ども達にも伝えていかなければいけない。決して風化させてはいけない気がします。


746.RE:貴重なスケッチありがとう 投稿者:窪田やよい  投稿日: 224()173851

32tmさん いつもありがとうございます。
23
歳の青年が描いたものだと思うと、微笑ましいというか、いとおしい気がします。
32
tmさんは17歳という若さで戦争に行かれたのですね。今ではとても考えられないことです。
今の若者も、例えばイラクなど、日本以外の大多数の国がそうだと思われる厳しい国家情勢の国へ行って勤労奉仕でもしてくれば、いろんな問題が解決するように思います。若者に限りませんね。
いかに自分が恵まれた環境にいるかが身にしみてわかるんじゃあないでしょうか。
自衛隊の皆さんには敬意を表し、誇りを持って任務につかれるよう送り出すべきだと思います。
出発する場で「はんたーい」のシュプレヒコールを挙げるなんて、無神経そのもの。

慰霊の旅ご苦労様です。言葉だけでなくちゃんと行動で示すところがすばらしいですね。
お気をつけてご活躍ください。


745.貴重なスケッチありがとう 投稿者:32tm  投稿日: 223()220326

スケッチの追加、懐かしい。戦後の収容所の生活がよくわかります。
敗戦後のほっとした様子がよく描かれています。
60年も前頃になりますね。絵心のあった父君の貴重なスケッチですね。

私は終戦3ヶ月前に隣国タイに転進(退却)したのでタイの収容所に、そこはナコンナヨーク
といって日本兵が7万人も収容されていたところです。
同じイギリス軍が管理したのでビルマとタイでは殆ど違いは無かったとおもいますが
戦後復員した兵の話を聞くとビルマとタイでは全く違った国民感情だったんですね。

今年も3/1日から3/10日までミヤンマーに鯨烈山砲慰霊巡拝の旅に同行します。
激戦地メークテーラの村の小学校に稲田団長が小学校校舎を今年も寄贈されます。
激戦のさなか村人達の献身的な看護で一命を取り留められたお礼とのことです。
私も17才でメークテーラ東飛行場に赴任したけれど軍命でタイに撤退することになり
命長らえ復員出来たことは全くラッキーであったと思います。

今、イラクに自衛隊が派遣されています。彼たちが日の丸を背負って出動しているのに
国民はどうしてさめたまなざしで見送っているのでしょう。私にはそうとしか写りません。
彼たちは祖国の名誉の為に日の丸を背負って出動しているのです。
彼たちを声を大にして声援しましょう。 武運長久只それだけを祈ります。
私はもう古いんでしょうか。 


744.スケッチ追加 投稿者:窪田やよい  投稿日: 221()153458

本編に「スケッチ」が載せてありますが、もう一冊スケッチブックがあったはずだったのに行方不明だったのですが、古い棚を整理していたら、思わぬ所から出てきました。さらにボロボロの画帳なのですが、スキャンしてこの度アップいたしました。一冊目より後に描いたものなのか(本人も記憶なし)画風がのびやかで、ユーモラスでさえあります。是非ご覧ください。


743.ようこそ 投稿者:窪田やよい  投稿日: 221()152342

桓野忍さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
当サイトが少しでもお役に立てたならうれしいです。
一兵士の体験談ですのでひとつの事実として捉えていただければ幸いです。
現在もイラクの問題など、考えるべきことはたくさんありますね。
日本では「戦争」という言葉に過剰反応しがちですが、残念ながら人間の歴史の中で避けられない事象なので、冷静に多角的な視野で考えていかなくてはならないと思います。

 


742.初めまして。とても勉強になります。 投稿者:桓野忍  投稿日: 221()051928

初めまして。かんのしのぶ といいます。

戦前・戦中史に最近興味を持ち始め、資料や文献を探しているところで
このHPにたどり着きました。

皆様と比べて私はまだまだ知識も認識もゴミ程度でしかありませんが、
少しでも戦争について知り、考える機会を持ちたいと思っています。

あまり建設的な書き込みはできないかと思いますが、
どうぞ勉強させてくださいませ。。

高部正樹さんの「傭兵の誇り」 それから会田さんの「アーロン収容所」を
読み終わった所です。

よろしくお願いします。


741.判ると良いね 投稿者:32tm  投稿日: 110()214248

うさぎさん、初めまして。あなたの書き込みを見て私の孫と年の差のないあなたがとてもいじらしいです。私はインパール作戦が失敗してインパール・コヒマから我が軍が敗退している時期に(昭和19年5月)に日本を数少ないタンカーに(殆ど沈没)乗せられてビルマに向かいました。
私はビルマのメイクテーラという飛行場で任務に就いたのですが、ここも昭和20年の3月にはインパールに劣らぬ主戦場になり日本軍は大敗北となりました。
うさぎさんのおじいさんの所属部隊解りますか。○○師団○○部隊で何時、何処で戦死とでも解れば少しはその部隊の状況が解るかもと思います。情けない、口惜しい事ですが敗戦後、我が国民は戦争の事は口をつぐんで押し隠す風習が暫く続きました。
もうあの戦争にたずさわった人達は80歳以上の高齢者になり、どんどん黄泉の国に旅だって行かれます。
毎年7月の第2土、日曜に高野山の成福院という寺院でビルマ方面戦没将兵の慰霊祭をしています。うさぎさんの部隊も多分どなたかが参列されて居られるかもと思います。
もし、師団、部隊名、または通称部隊名が解れば確実と迄は行かなくともおおよその事が判明するかも解りません。
飛行機も、砲も、戦車も、弾薬も、食糧もなく只肉弾だけの無謀な戦いを強いた軍司令部の最高司令官は○○○大将です。 ビルマで無念の死を遂げた英霊19万柱、謹んでご冥福を祈ります。


740.おじいちゃんを探してます。 投稿者:うさぎ  投稿日: 110()035644

はじめまして。こちらには初めて着ました。私の母の父、私にとったらおじいちゃんなのですが、
おじいちゃんはビルマのインパルス作戦に行ったそうなのです。その時、おばあちゃんのお腹の中には私の母がいたそうで、最後におばあちゃんに手紙が来た時に、女の子だったら「智恵子」と名付けてください。っと書いてあったそうで、私の母は智恵子という名前をつけたそうです。
それから、連絡が取れなくなって、戦死したかどうかもわからず、ずっと待ちつづけていたら、
ある日えらいさんが、これが貴方のだんなさんの骨です。っとだけ言われて渡されたのだそうです。おばあちゃんがそっと箱を開けてみると、その中には石が1つ入っていたらしいのです。
そのときからおばあちゃんは、ああ、もうしんだんだって思っていたらしいのですが、「ビルマの竪琴」を見て、「必ず生きている」っと思うようになって、さあ、今からでも探してみよう!っと言うときに亡くなってしまいました。私はその時10歳であまりわからなかったのですが、一緒にビルマの竪琴を見ているときに、おばあちゃんがずーっと泣いているのを覚えています。
なんとか、おばあちゃんの旦那さんを探したいのですが、まずどうすればいいのかもわからず、
書き込みをさせていただきました。もしよければまず、どうすればいいのか教えていただけませんか?お願いします。


739.お知り合いだったかも 投稿者:窪田やよい  投稿日:1229()115945

AOさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
大叔父様と私の父とどこかで接触があったかもしれませんね。
本文にもありますが、父は昭和58年に巡拝旅行にいっており、サガイン・ヒルの工兵隊慰霊碑にもお参りをしてきした。その時は日章旗にそれぞれの中隊の戦死者の名前を書いて供えてきたそうです。
私の身内では、父(健在)、父の兄(戦死)、母の兄(戦死)、夫の父(健在)、が実際に戦争にいっています。当人はもちろんのこと、家族の想いはいくばくのものか。それぞれの苦労や努力を思うにつけ、私達は彼らに感謝しなければならないと思います。そして、平和な生活に浸りながら戦争について論ずるのは間違っていると思います。観念や情念が一人歩きしないよう、事実をよく踏まえた上で判断していかないとならないと思います。


738.はじめまして 投稿者:AO  投稿日:1226()011754

はじめまして。私は山梨県在住の二十歳の者です。
私の大叔父(祖母の兄)も山梨に生まれ、その後、聖橋高校(現・埼玉工業大学)に進学した後、
卒業を目の前にして召集令状が届き、仙台にて訓練を受けたそうです。
それからの大叔父の足跡については、ビルマにてマラリアのため亡くなられたとしか
知りませんでした。
しかし、つい先日、大掃除のため祖父が仏壇を整理していたところ、ビルマの
サガイン・ヒルにて行われた慰霊祭の写真が見つかり、その写真には慰霊祭のための
慰霊塔が写っており、その塔には「英霊・工兵三十一聯隊 聯隊長・鈴木孝」とあり、
その下には、おそらくサガイン・ヒルにて命を落とされた、私の大叔父を含む十七名の
兵士の名前が書かれた垂れ幕のような白い布も写っております。
この写真により、大叔父が工兵三十一聯隊に所属されていたことがわかったので
是を機に更に詳しく調べようと、ネットで色々検索していたところ、こちらの窪田さんの
ホームページにたどり着きました。
内容の詳細さはもとより、窪田さんのお父様も同じ山梨県出身、その後仙台にて訓練を
受けた工兵でいらしたとのことで、とても驚きました。

私の身内では、第二次世界大戦において、実際に戦場へと足を踏み入れた者は
大叔父しかおりません。また、大叔父は所帯を持たずして、二十三年間という短い生涯を
終えました。前者、後者双方の理由から、大叔父の足跡を辿り、辿ることによって、
家族(特に私の幼い姉妹)や友人らと、大叔父の体験(記録のみですが)を踏まえた上で
戦争について考えたり、思ったり、また、大叔父という人が生きていたということを
今後、語り継いでいけたならばと思っています。

そういうことで、このような、すばらしいホームページを作ってくださった窪田さんに
感謝しています。本当にありがとうございます。また近々お邪魔させていただきます。
長い文章で申し訳ございませんでした。それでは。