過去の掲示板(その19)


「インパール作戦・父が語る戦争体験記」への感想を多くの皆さんに書いていただいています。今までの掲示板への書きこみ内容をまとめてみました。上から順に新しい書きこみとなっています。
なお、改行位置などは一部編集してありますのでご了解下さい

平成11年3月の掲示板開設以来のもの(No1〜63まで)は「過去の掲示板その1」をご覧ください。
No64〜99までは「過去の掲示板その2」をご覧下さい
No100〜172までは「過去の掲示板その3」をご覧ください
No173〜206までは「過去の掲示板その4」をご覧ください
No207〜250までは「過去の掲示板その5」をご覧ください
No251〜279までは「過去の掲示板その6」をご覧ください
No280〜321までは「過去の掲示板その7」をご覧ください
No322〜371までは「過去の掲示板その8」をご覧ください
No372〜407までは「過去の掲示板その9」をご覧ください
No407〜456までは「過去の掲示板その10」をご覧ください
No458〜483までは「過去の掲示板その11」をご覧ください
No484〜541までは「過去の掲示板その12」をご覧ください
No542〜576までは「過去の掲示板その13」をご覧ください
No577〜619までは「過去の掲示板その14」をご覧下さい
No620〜673までは「過去の掲示板その15」をご覧下さい
No674〜737までは「過去の掲示板その16」をご覧下さい
No738〜793までは「過去の掲示板その17」をご覧下さい
No794〜818までは「過去の掲示板その18」をご覧下さい

ホームページ編集責任  窪田 幸唯 kubota@kcnet.ne.jp

 

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864 ご覧下さい。  投稿者:斎藤 彰  投稿日: 4月27日(木)09時43分25秒
  小学校6年生の時に「終戦前後2年間の新聞切り抜き帳」を作りました。
ご覧下さい。
 URL下記。

http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/

 

863 (無題)続き  投稿者:32tm  投稿日: 4月25日(火)13時19分53秒
  窪田やよい様 有難うございます。この掲示板に書き込みをさせて頂けて、少々なりともご遺族のお役にたてば嬉しいです。

KYOKO様の疑念、私なりに調べました。但し長年月のこと間違っていたら御免下さい。

林と策・・・林は第15軍  策は第28軍の通称部隊名です。 因みに私は高(第5飛)です

調べましたら策3005部隊は独立自動車236中隊でした。独立部隊は軍直轄部隊です。

7月末はビルマの雨季で5月頃から10月頃までです。7月といえば雨季の真っ只中で、米どころの南部米作地帯は道路も冠水し一面湖と化してしまうほどの季節、河川は大増水、日本の大川が台風で決壊寸前の様を想像してください。その河にありあわせの材木で満足にくくれる紐も無い戦場でやっと造った命の綱の筏も河に入ったとたんにばらばらになり多くの若者が水ずく屍になり「マルタバン湾」に押し流されてしまったのです。

四方を包囲され生きて虜囚の辱めを受けるなの軍命で此処まで生き延びることが出来た将兵の此の河を渡れば友軍の陣地にたどり着けると飛び込んだ数は31000余無事たどりつけたもの14800名としるされています。
此の策集団には中南部ビルマに展開の兵(つわもの)・壮・狼・勝・楯・干城・振武・神威・敢威・貫徹と兵站病院1100名も含まれていて病院は3班に分けられ脱出を図りましたが救われたもの数十名でした。病院には従軍看護婦も多く健気な行動は男子顔負けの気丈さでした。またこの集団には軍属や民間人が現地で招集され俄造りの兵隊になったものも数多くおりました。
以上少しでお役に立てば幸いです。あのシッタン河の鉄橋も完全復旧して、人も車も貨車も通っています。然し大河川の橋は軍機で写真撮影は禁止です。此の河をはさみ克ってはイギリス軍が日本軍からの攻撃で大きな犠牲をこうむり、二年も経ぬうちに今度は日本軍が大敗北、空しい憤りを覚えます。然し東南アジアの各国がそれぞれ独立をし、私たちがその一端を担った誇りを覚えます。
ミヤンマー国の幸せと若くしてミヤンマーの土になられた皆様のご冥福をお祈りいたします。
 

862 さすが!  投稿者:窪田やよい  投稿日: 4月24日(月)11時52分31秒
  32tmさん ありがとうございます。
さすがにお詳しいですね。まさに生き字引!なかなか得難い情報をさらりと載せてくださる。感激です。
naoeさん、KYOKOさん、ご覧になりましたか?
 

861 (無題)  投稿者:32tm  投稿日: 4月22日(土)13時11分39秒
  窪田やよい様

ご無沙汰しております。4月15日の掲示板にミヤンマーへの慰霊に関する記事があり私の名も紹介されて
いましたので遅ればせながら下記のアドレスをお知らせいたします。 参考になれば幸いです。

実はパソコンを3月にXPに新しく買い換えていろいろいじっているうちに 「i フイルター」という「ソフト」を見つけて
何の気なしにインストールした所、お気に入りのホームページ全部の掲示板にフイルターが掛かり見られなくなり
4月21日がその解除の日でした。

一ヶ月間が試用期間でしたが今まで見られた掲示板が全く見えなくなる こんなつまらない事は二度と味わい
たくありません、 もうこりごりです。

naoe様の狼兵団はビルマ戦線の各師団や部隊の応援や救出のために抽出されて活躍した部隊でした。
私は昭和19年6月に門司港を空のタンカーでビルマに向かったのですが、同じ船に狼兵団の1個中隊が
朝鮮から乗船してきてシンガポールまで食事など世話になりましたが若い韓国人兵士が可なりおりデッキで
韓国語の「連絡船の歌」を口ずさんでいたので何時とは無く言語で覚えてしまいましたが、彼達もビルマに送られ
終戦までは日本軍兵士として共に戦った仲間でした。

KYOKO様の策兵団はビルマ南西部、ラングーンの西方、イラワジ河沿いに展開していた各部隊でしたが
マンダレー、メイクテーラの戦いで英機甲部隊の進撃が急でマンダレー街道が押さえられ退路を断たれる
危険を感じた上層部はいち早く軍がラングーン放棄して撤退したため取り残された部隊の集団です。
インパール作戦に劣らぬ損害をこうむり折からの雨季と重なり一年前のインパール・コヒマの悲劇の再演となりました。
策集団には兵(つわもの)、壮、林、楯、野戦病院や輜重(自動車隊も)などで混成され、イラワジ、シッタンの
大河川に辿りつけたものの雨季で増水した河は逆巻き濁流で多くの兵士を飲み込みました。
終戦も知らずペグー山中でもおおくの兵士が飢えと病で或いは敷き詰められた地雷で命を落としたのです。

下のアドレスは堀池様のご好意で出させて頂きました。
http://www2.ocn.ne.jp/~ricky.mv/pws-tkf.html
 

860 慰霊の旅  投稿者:窪田やよい  投稿日: 4月15日(土)11時04分41秒
  naoeさん ↓うっかり途中でアップしてしまいました。
で、その旅行はGolden Gardenという旅行会社にお世話になりました。ヤンゴンにありますが、ビルマの魅力の虜となった日本人の方がやっている会社で、問合せ等、すべてネット上でOKです。もしよかったら参考にしてください。

http://gg.yangon.jp/

 

859 (無題)  投稿者:窪田やよい  投稿日: 4月15日(土)10時43分13秒
  naoeさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
慰霊の旅のご質問ですが、ここに書き込みしてくださった方の中にも行かれた方は大勢いらっしゃるようです。例えば32tmさん。もしご覧になっていらしたら是非ご教示ください。
32tmさんの慰霊の旅の様子などが書かれた掲示板もどうぞ。
もちろん個人的に旅行に行くことも難しくないと思います。父も去年の秋に個人旅行でビルマへ行ってきました。とてもよい旅だったようです。

http://www.kcnet.ne.jp/~kubota/keiji17.html

 

858 ビルマへ  投稿者:naoe  投稿日: 4月15日(土)06時01分18秒
  父は、インパール作戦の後半でビルマの戦場に行きました。 49師団「狼」です。 父が他界してからビルマにいってみたい気持ちが日々強くなりました。
戦没者の慰霊のためにビルマに行っておられる団体あるいは個人があれば教えていただきたいと思い投稿することにしました。
どなたかご存知でしたらよろしくお願いします。
 

857 戦争の話  投稿者:窪田やよい  投稿日: 4月11日(火)11時36分55秒
  HKさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
父も戦争の話をするのが大好きです。子供の頃から断片的に聞かされましたがやはり武勇伝を語るごとくいきいきと語ってくれました。当時の状況下で自分が正しいと思えることを正々堂々と行ったからではないでしょうか。苦楽を共にした戦友さんはかけがえのない存在のようですが、残念ながら多くの方が他界してしまいました。戦友会も開催されなくなってずいぶん経ちます。
 

856 感想  投稿者:HK  投稿日: 4月 4日(火)22時45分16秒
  インパール作戦に参加され、無事に帰還され、このような生々しいドキュメントを作られたことに敬意を表します。私は戦後生まれですが、親戚のなかには満州へ行ったり、近衛兵として皇居に居たり、また南方の島で戦死したり、戦争体験者が多くいます。しかし高齢のためほとんどのあの世です。私はガキのころ彼らの戦争体験を子守唄代わりによく聞きました。彼らがもし生きていたらこのような記録も残せるのですが、今は墓の下で眠っています。私は彼らが負けた戦争とはいえ、なぜか戦争の話をするときは、みな一様にいきいきとして語っていたのを覚えています。ですから戦争に対するアレルギー的な考えはまったくなく、戦争は青春物語くらいの感覚です。軍歌も良く歌います。ただ、家族からは白い目で見られますが。
インパール作戦に参加して生き残ったのはまったく奇跡です。補給を無視したありえない作戦だったといまでは語られておりますが、命令は絶対の当時ではあたりまえに戦ったのでしょう。楽しいといっては語弊がありますが、すばらしいドキュメントです。
最後に、命を捧げて散っていた英霊にこころより敬礼いたします。
 

855 父の絵  投稿者:窪田やよい  投稿日: 4月 4日(火)16時42分26秒
  れいさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
身贔屓じゃないですが、父の絵、いいですよね!二十歳そこそこの青年が描いた、というのがまた感慨深いと思っています。父は82歳にて元気です。絵は描いていませんが。
今後もよろしくお願いします。

854 遥かなるインパール  投稿者:窪田やよい  投稿日: 4月 4日(火)16時35分15秒
  稲葉忠雄さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
貴ブログ拝見しました。多方面にわたる話題豊富で楽しませていただきました。
「遥かなるインパール」では当サイトの紹介をしていただきありがとうございます。
平和な現在から考えるとなんとも無謀な作戦で、そこで犠牲となった若き生命を思うと涙がこみ上げてしまいます。
 

853 ビルマ方面作戦  投稿者:れい  投稿日: 3月30日(木)21時38分24秒
  私にとっては大叔父になる人で 私は彼の墓石と遺影しか知りません。墓石には ビルマ方面作戦中戦死 昭和19年6月23日 としかありません。後、近衛兵というのも彫ってありました。師団名もあったのか 覚えていません・・・。私が勝手にもしかすると、インパール作戦に参加していたのかと 先日気がついたのです。子供のころから欠かさずお墓参りしていて27歳で戦死した彼よりもいつの間にかはるか 年上になりました。
お父様の絵の上手さ 興味を持って拝見させていただきました。
また 気がついたことがあれば 投稿させて下さい
 

852 プロームにあった墓標について  投稿者:稲葉忠雄  投稿日: 3月27日(月)23時30分57秒
  はじめまして、名古屋市在住の67歳です。私の恩師の弟様がインパールで亡くなられたことを知り、それを知ったのが私共が技術援助の仕事でプロームに住んでいた時でした。その近くに無名兵士の墓標があることを知って、皆でお参りをしました。23年前のことです。
その思い出を拙ブログに書きたくなって、調べ物をしていてこのサイトを知りました。色々と勉強になりました。有り難うございました。

http://tadaoinaba.cocolog-nifty.com/myit/2006/03/post_c0d3.html

 

851 ありがとうございました!  投稿者:KYOKO  投稿日: 3月27日(月)14時20分31秒
  窪田さま

ありがとうございました!
早速、仕事の合間に史資料の閲覧に行ってみようと思います。

戦争のことをまったく知らない世代の私ですが、
最近になって、インパール作戦に関する書籍やホームページを読み始めました。
地獄のような苦しみの中で死んでいった多くの兵隊さんや、
祖父のことを考えると、本当に胸が苦しくなる思いです。
おそらく私の祖父もインパール作戦には関わっていないと思うのですが、
祖父の所属していた軍隊の任務や敗走ルートについて何かわかればいいな、と思っています。
今年の夏は、母とともにミャンマーに慰霊の旅に行くつもりです。
 

850 こちらに問い合わせてはいかがでしょう  投稿者:窪田幸唯  投稿日: 3月24日(金)16時53分23秒
  KYOKO さん 書き込みありがとうございます
部隊の詳細などは下記のところで調べられるようです
防衛庁防衛研究所 史料閲覧室
http://www.nids.go.jp/military_history/military_archives/
詳しいことがわかるといいですね
 

849 祖父の経路は…  投稿者:KYOKO  投稿日: 3月21日(火)19時48分44秒
  はじめまして。
ビルマで戦死した祖父がどのような戦争中、
どのような経路で移動していたのかを知りたくてメール致しました。
祖父に関しての情報は、祖父がビルマから送ってきた葉書にある、
「南方派遣林3005部隊」という部隊名と、おそらく自動車部隊であること、
それから1945年の7月26日に、シッタン河を渡河するときに
空襲にあい、河を渡りきることができずに亡くなったらしい、ということです。
インターネットで検索すると、「策3005部隊」という部隊はあっても
「林3005部隊」はヒットしないため、手がかりがなく困っています。
祖父は京都の出身ですが、戦争当時は東京の品川に住んでいたらしいので、
東京の部隊だと思うのですが。。。
何か調べる方法をご存知の方は、教えてください。
よろしくお願い致します。
 

848 「ありがとう日本兵」  投稿者:ニュース西海新聞社   投稿日: 3月18日(土)22時56分2秒
  ニュース西海新聞社 主席論説員の坂井宏輔です。
本紙は中立と良識をその中心においています。

ホームページ貼り付けました。見てください。
http://newssaikai.kanpaku.jp/

戦後平和論を虚実として退け、
大東亜戦争の偉業を簡素に論説す。
論題「ありがとう日本兵」です。

これは長年の研鑚と最前線兵士などの
取材により検証されました。
戦争へ行った人やその子孫のおかげで、
いまの独立アジアがあるのです。
大正生まれは、情も深い立派で美しい人達です。
大事にしてください。

靖国神社参拝は、アジア民の良識です。
命を知る者が分かる最高教養の一つです。

靖国神社などには、2000年に亘る多民族国日本の
生存の歴史的知恵が込められているのです。

近代日本・独立アジアに、靖国神社あり。
同神社は昭和に入り進化しています。
これが分からぬ輩や敵対勢力などが、
無責任なことを言っているだけです。

さもなくばアフリカ史などと有様になっていたでしょう。
つまり、さらに内戦になり、米国も撤退したでしょう。

靖国神社を衰退に導こうとする輩がありますが、
半島朝鮮が核兵器宣言をしたということが、どういうことか
きちんと捉えねばなりません。

憲法9条などは、全項削除し、「平和を希求する国と国民」とする
程度にとどめるべき、と私は提言しています。

何時までも、戦後邪宗に、だまされてはいけない、
と私は主張しています。

http://newssaikai.kanpaku.jp/

 

847 皆様のご意見を  投稿者:窪田やよい  投稿日: 3月17日(金)11時57分25秒
  歴史研究者さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
日本が敗戦し戦争と関わらなくなった60年の間も世界の中で戦争が途絶えたことはなく、今も毎日のようにテロで何人死亡といったニュースが絶えません。生命の危機を感じることなく飢えを恐れることもなく毎日を暮らせていられるのはすごく幸せなことだと思いませんか。これはやはり日本が正しい選択を行ってきた結果だと思います。もちろん100点満点というわけにはいきませんが。その時代の社会情勢によって軌道修正はしなければなりません。過去現在未来をよく見据えて現在の私たちが努力していかなければならないでしょう。大切なものはなにか。
皆様のご意見を広くお聞きしたいです。
 

846 未来はどうなるのでしょうか  投稿者:歴史研究者  投稿日: 3月14日(火)23時59分1秒
  日本の戦争は植民地主義全盛のころからはじまり、世界の覇権が固定するころ
敗北しました。これは一般に一部指導者がはじめたものではなく、日本国民が意図するところ(戦争をやれば景気がよくなる、etc)を受けて、和を持って尊しとして、安易に行った結果です。戦後、アメリカの属国として50年を過ぎ、何が変わったかと言うと、何も変わらずついに近代的市民社会を実現できませんでした。この世界の歴史のなかで、日本は、日米同盟に従い、近代的国際市民世界の外で、平和に暮らすのを受け入れていくことと考えられます。
しかし、日本の立地条件を見ても、近代戦には向いていないので、戦争はしないほうがよいのかもしれません。また、外国に軍隊を派遣をして、かつてのように虐殺をすれば、(虐殺はなかったというひともいますが、武装した男性の集団が軍の統率下とはいえ、無秩序な地域に放り込まれたらなんでもありでしょう)、外国の殺された人の親族たちが日本に恨みをいだくので、やめたほうがよいでしょう。
 

845 奇跡!  投稿者:窪田やよい  投稿日: 2月23日(木)23時28分27秒
  浜賢太郎さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
私の父は現在82歳で健在、戦死した父の兄や母の兄は独り身でした。若き青年の死も惨いことですが、浜さんのお父様のようにご家庭をもった方の戦死は更に重い現実であったことと思います。特にお母様のご苦労を思うと胸が痛みます。
戦死の状況等が明らかになりよかったですね。ドラマチックなお話で驚きました。探し当ててもらい、きっとお父様も喜んでいらっしゃることと思います。ご供養が叶いますようお祈りいたします。
 

 


844 父のこと  投稿者:浜賢太郎  投稿日: 2月23日(木)21時04分42秒
   小生の父はS.19.8に19師団より49師団衛生隊に編入され、S.20.5.8ビルマ国アレイワにて戦死しています。これまでアレイワが何処かも特定できず、ビルマに行ってみようとも思っても居ませんでした。ところが幸運なことに、ある方のお陰で戦死地が特定できました。父の軍歴・戦死年月日・戦死地等の限られた情報やビルマ全土における49師団の動き等から、「勝」の部隊と行動を共にしたであろうと推定されました。英軍作成のマップにAle-ywaという地名も見つかりました。イラワジ河河畔の村(プロームの対岸北西10km)で「勝」の行動ルート上にあったこと。戦史叢書などの資料においても、この時期には英軍の猛攻撃を受けながら対岸のプロームへの移動を強行していたという。又、無事復員した戦友(今となっては何処のどなたか不明)がわざわざ実家へ報告に来た時の内容とも合致します。「イラワジ河の畔で戦死、遺体は河畔に埋めた」とのこと。
 今年の一月念願叶ってアレイワを訪れることが出来ました。村人達は小生が訪れた目的を知ると、「日本兵がここで一人戦死した、その人は村の病人に薬をくれた兵隊だった、遺体は川岸に埋められた」と言うのです。このようにお年寄りから聞いていたと言うではありませんか。その息子が訪ねて来たので、聞いていた話は本当だったのだと言っていました。物証は有りませんが、父が戦死した場所に来たと実感いたしました。当時18歳だった女性が居ましたが、認知症であるとのことでした。今後したいことは、村に何かお礼をしたいこと、父の墓を建てたいこと、復員後父の戦死報告をされた方の調査です(これは現実的にはかなり困難でしょうが)。
 父は明治43年生まれ、36歳での戦死です。母は90歳で健在です。母も本当に喜んでくれました。
 昨年から時々拝見していましたが、念願が叶ったことで今回初めて投稿をさせていただきました。
 

843 こんにちは♪  投稿者:しょう  投稿日: 1月26日(木)14時46分31秒
  私の父は、インパール作戦に従軍し、右前腕部の骨を機関銃で吹っ飛ばされて
傷病兵として復員しました。
戦後、あの戦争の悲惨さを訴えようと、自身の戦争体験をまとめた本を自費出
版しています。

狂風インパ−ル最前線 ISBN:4794700571 叢文社 1982/06出版

もし、読んでみてもいいというのであれば、お送りします。
その場合、こちらのフォームメールでご連絡ください。
http://dp42051085.lolipop.jp/bbs/postmail/postmail.html

なお、この申込みは窪田様だけに限定させていただきます。
もちろん、無料でお送りします。
 

842 母の力  投稿者:窪田やよい  投稿日: 1月13日(金)13時14分31秒
  ひらはさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
強い信念が感じられ同じく子を持つ母として見習わなくてはいけないなと思いました。
当サイトが何かしらお役に立てれば幸いです。
子供たち、というよりは中高年の皆さんに日本に対し自分に対しもっと誇りと自信を持ってほしいですね。
寒くてしばらく凍り付いていました。
 

841 2児の母です  投稿者:ひらは  投稿日: 1月 3日(火)15時55分10秒
  初めまして。私は現在 高校生と小学生の子供を持つ38歳でございます。
私の父と母は 昭和11年生まれ東京育ち。戦争体験者ではありますが 疎開をしていたため
幸いにも 砲弾やら焼夷弾やらの体験は無く 敵の飛行機すら見ていないのです。
好き嫌いの激しかった 私の子供時分・・・お説教と一緒に 必ず戦争の話しを聞かされました。
私の子供も高校生になり どうしても伝えておきたいのが 戦争のことです。色々と捜しているうちにここへ。
「徴兵=赤紙」と思っていたのですが 大きな誤解でした。甲種合格も初めて見る言葉。
当時のそのままの言葉を使われたので 難しい気もしましたが 返ってそのままの方がよく伝わってきたように思います。
窪田さんのお陰で物語ではない 戦争を肌で感じたように思います。ありがとうございました。
これから 子供たちにも戦争で何があったのか そして子供らはどう考えるのか? どう感じるのか?
私の 子育ての総仕上げにして行きたいと思います。

 


840 kodaimoso_hahe  投稿者: kodaimoso_hahe  投稿日:12月17日(土)13時17分4秒
取引や売買、契約などは、双方に利益がある場合に行われるべきものだ。
これって人に理不尽を強要したい醜い経済大国にとって都合の悪い考えかのう?

839 リワビンビさんへ  投稿者: 窪田やよい  投稿日:12月 5日(月)09時32分32秒
リワビンビさん ご訪問&書き込みありがとうございます。

父の体験は一例に過ぎませんが参考となれば幸いです。過去の掲示板にも貴重なご意見が多数寄せられていますので、こちらも是非ご覧ください。

838 理沙子さんへ  投稿者: 窪田やよい  投稿日:12月 5日(月)09時28分46秒
理沙子さん ご訪問&書き込みありがとうございます。

卒業研究ご苦労様です。ひとつのテーマにじっくり取り組みまとめていくことはとても意義あることと思います。がんばってください。
私の父は大多数の方々がそうであったように、普通の家の普通の青年が徴兵され戦争へと赴きました。父の体験したこと知っていることはすべて本編に記してありますので参考になさってください。

837 はじめまして  投稿者: リワビンビ  投稿日:12月 4日(日)23時36分13秒
はじめて、お邪魔します。私の祖父もビルマで戦っていたので、調べていたらここに出会いました。私が子供の頃、祖父はビルマの人がやさしくしてくれたことなど話してくれましたが、私が子供過ぎてそれ以上のことは話してはくれませんでした。
祖父亡き後、祖父の本棚にビルマでの戦いについて書かれた本を何冊も見つけ、誰にも語ることはなかったようですが、生涯、彼はあの戦争について考えていたのかと思うと、私もなにかすべきなのでは?と思うようになりました。時々、覗かせてください。

836 卒業研究  投稿者: 理沙子  投稿日:12月 4日(日)16時03分46秒
こんにちわ。
わたしは東京の高校に通っている者です。わたしの学校では卒業研究というものがあり1年半をかけて一つのテーマをずっと
研究するというもので、わたしは戦争についてちょうど今研究しているところです。
そして、その研究テーマについて具体的に言うと、わたしの祖父の兄にあたる者が太平洋戦争で戦死しており、ちょうど今年は戦後60年という節目の年であるので、これを機会にその大叔父の生きてきた跡を追いながら自分なりに戦争というものをまとめることができたらいいなと思っています。そして、最終的には大叔父という個人的なことから徴兵を受けて戦争に行った普通の家の出の一般庶民にとっての戦争までひろげられたらいいなと思っています。
そして、今研究から半年が過ぎ大体、大叔父の跡がつかめてきたいま、戦地に実際いき生の戦争を体験した方からお話しを聞くというのを次の課題にしています。そうして調べていったところこのホームページをみつけメールを送らせていただきました。大叔父は「野戦重砲兵第21大隊」に所属しており、マレー、シンガポール、ビルマと行きインパール作戦後、戦死しています。
なにか知っていることがあったら何でも教えてください                          理沙子

835 (無題)  投稿者: 一柳留美子  投稿日:11月19日(土)04時17分40秒
窪田幸唯様、菊兵団伍長様
お返事ありがとうございます。
防衛庁に手紙を出したのですが、”現在のミャンマーの地名はミャンマー政府がインド国境付近の地図を軍需物資として外国へ出していないため、当時の地名と照らし合わせて見ることができません”と返事がありました。
併せて【部隊略歴】(厚生省援護局作成)が送られてきましたが、手がかりはありませんでした。
又、護国神社にも行きましたし、遺族会の方にも問い合わせたのですが、手がかりはありませんでした。
昔の地名を今の地名で知ることは難しいことなのでしょうか。非常に残念です。

 


834 91歳!  投稿者: 窪田やよい  投稿日:11月 5日(土)11時50分25秒
sakusanさん ご訪問&書き込みありがとうございます。

まずは91歳というご高齢に驚きと敬意を表します。新しいものに怯まず挑戦していく気概が素晴らしいですね。益々のご活躍をお祈りいたします。
sakusanさんの体験されたお話もぜひお聞きしたいです。初年兵だった父とは違いもっと深いお話が伺えるのではないかと思います。お元気ついでにWeb上公開に挑戦してみてはいかがでしょう。

833 ビルマ従軍記  投稿者: sakusan  投稿日:11月 4日(金)12時40分37秒
初めまして。先日PCの友人から「インパ−ル作戦・父が語る戦争体験記」を紹介され、感慨深く拝読しました。私は昭和17年3月25日にラング―ンに上陸以来終戦までビルマでした。初めは56師団(龍)の山砲連隊本部でしたが11月に師団司令部の参謀部に転属、さらに昭和19年4月に33軍(昆)司令部参謀部に転属になりましたがいづれも任務は電報(暗号)係りでした。したがって「インパ―ル作戦」の経過もビルマ方面総軍司令部からの情報電報でよく記憶していますが長文になりますので次回にいたしますのでご了承ください。申し送れましたが、私は91歳(1914生まれ)です。陸軍中尉でした。今は杖をついてのヨタヨタ歩きで、さらに難聴で困っていますが、脳の細胞だけはまだ何とか正常なのでPCで楽しんでいます。宜しくお願いします。

832 「日本兵のはなし」  投稿者: Akira Matsumura <akiram@  投稿日:10月28日(金)22時27分28秒
マネジメント社の「日本兵のはなしーービルマ戦線」(玉山和夫著)を読んでいたら、本文29ページ第四話(川又康治陸軍兵長)の中に、「三十三師団歩兵二百十四連隊第一大隊第三中隊」とありまして、そのなかに「松村中隊長」という文字が出てきてびっくりしました。小生の父、松村芳夫とまんざら別人とも思えず、著者玉山氏に問い合わせましたところ、第四話の川又さんはすでにお亡くなりになられたとのことでした。
父親はビルマ戦線のことはあまり話そうとせずに亡くなりました。家族も父がどの部隊に所属していたかの記憶もありません。亡くなった現在、調べる手がかりが何もありません。父は獣医大尉として17年から終戦まで従軍し、抑留生活の後、21年3月に帰国しました。この欄をお借りして当時の父のことをご存知の方がおられましたら、是非お教えいただきたいと思い、メールしました。よろしくお願いします。松村 燎(63歳)

831 ビルマ旅行その2  投稿者: 窪田やよい  投稿日:10月26日(水)16時38分48秒
父娘二人のビルマ旅行。マンダレーでお願いしたガイドさんのお祖父様は、戦争中通訳として日本軍に協力していてくださったそうです。観光が終わった後ガイドさんの家に伺って、お祖父様とお会いし流暢な日本語で昔話を懐かしんできたそうです。
また、マンダレーヒルでは慰霊の旅をしている元イギリス兵とも会ったそうです。父と二人抱き合うように固く握手を交わしてきたとのことです。
戦争中通訳をしていたビルマ人のお孫さんとイギリス兵と日本兵と。三国揃って記念写真に納まっています

830 ビルマ旅行  投稿者: 窪田やよい  投稿日:10月20日(木)20時53分26秒
父・孝之助は姉(父にとっては娘)と共にビルマ旅行に行ってきました。今回は特に戦地を巡る旅ではなく観光旅行です。旅行全体を通してビルマの人々の穏やかさが印象に残ったようです。日常の中に仏教が深く根差しており小さな子ども達も自然とブッタの教えを敬い親しんでいるようです。そこらにいる犬や猫さえも穏やかな表情をしていると感心していました。きっと彼らに危害を与える人間がいないということでしょう。

829 一柳留美子様(地名について)  投稿者: 菊兵団伍長  投稿日: 9月22日(木)13時36分48秒
 地名について
 私も,以前伯父の戦死場所を調べておりました。(投稿者名は伯父の肩書きです)
陸軍兵籍簿に「ビルマ国ミッチ−ナ県エンプンガ」と記載されていましたが,
「ミッチ−ナ(Myitkyina)」は,「戦史叢書(防衛庁戦史室編)」では,
「ミイトキ−ナ」と記載されており,「エンプンガ」は「ニプンガ」と記載
されていました。この程度の違いがあるという前提でお調べになった方が良い
かと存じます。ちなみに私の場合,「聯隊慰霊碑の地図」でこの違いが判明いた
しました。遺族会等現地に詳しい方であれば案外容易に判明するかもしれません。
 老婆心ながら,私の地元では,「県遺族連合会」と「護国神社」は同じ住所です。
また,「遺族連合会」はタウンペ−ジの「組合・団体」の欄に掲載されていました。
ご参考になれば幸いです。

828 手がかりがわかるといいですね  投稿者: 窪田幸唯  投稿日: 9月22日(木)10時50分58秒
一柳留美子さん 当時の地名を調べるのは大変ですね。どなたかご存知の方がいればと願っています。「第2ヤセイ病院」は「第2野戦病院」という可能性もあるかもしれいですね

827 お訪ね  投稿者: 一柳留美子  投稿日: 9月 1日(木)17時00分56秒
突然すみません。私の祖父が亡くなったところが”ビルマ ヤユ半島 アドウィンビン”
と記載されています。地図で調べてものっていません。問い合わせをしたところ、ビルマからミャンマーにかわったときに、地名も変更したため、わからないとのことでした。
もし、どの辺りかわかるようでしたら、ご返信宜しくお願いいたします。
ちなみに、プレンダン第55師団の経路だそうです。祖父は第2ヤセイ病院に収容されていたという情報もあります。最終的な戦没場所は前述の通りです。
何か手掛かりがあればと思い投稿致します。

826 ご教示ありがとうございます。  投稿者: 稲葉一郎  投稿日: 8月18日(木)14時38分55秒
窪田様

サイトの訪問、お盆休みで遅くなってしまいました。

防衛研究所の資料室は存じておりますが仕事の関係上時間がとれず、いまだに行っておりません。

靖国神社の図書館は日曜も閲覧可能ですので行って見ましたがまだ十分閲覧しておりません。
こちらの再訪が先になりそうです。
なお伯父の軍歴証明書は確認しており、靖国神社の記載誤記は訂正していただきました。

本編は熟読いたしました。当時の事情が拝察されます。

825 防衛研究所史料閲覧室  投稿者: 窪田やよい  投稿日: 8月 8日(月)11時10分40秒
稲葉一郎さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
お問合せの件ですが、防衛研究所の史料閲覧室
http://www.nids.go.jp/military_history/military_archives/index.html
を訪ねてみてはいかがでしょうか。
父の知っている情報は本編に記載してある通りです。戦場の様子など参考となれば幸いです。

824 伯父の戦死の状況  投稿者: 稲葉一郎  投稿日: 8月 4日(木)14時59分48秒
はじめまして。
インパール作戦に参加、戦死した伯父の戦死の状況を調べていますがなかなか資料がありません。
どなたかご存知の方があればご教示いただきたいと思っております。

ここは本来感想を書くべき掲示板ですが、戦争体験者が少なくなっている現状から急がないとわからなくなってしまうというあせりもあり、あえて投稿させていただきます。

伯父 小宮山五郎は第33師団 防疫給水部の所属。19年6月22日にクンビィで戦死。戦死で准尉に昇進しています。
出身は山梨県、現在の山梨市北 墓も山梨市にあります。

原隊は歩兵第49連隊で甲府陸軍病院に勤務の後 第33師団に転属。師団創設時から所属したようです。
6月22日に見えなくなったという、戦後に尋ねてきた戦友の方の話があったそうなので恐らくは自決であろうと推測しています。
クンビィはインパール南道ですので山本支隊に配属されたのでしょうか。
英語のできる下士官ということで重用されたということです。

防疫給水部は小さな部隊です。戦記などにも出てきません。
「第33師団防疫給水部戦史」というのが一度だけ古書展に出ましたが抽選ではずれ入手できませんでした。

なにかしらご存知の方があればよろしくご教示いただきますよう重ねてお願いいたします。

823 戦後60年  投稿者: 窪田やよい  投稿日: 7月25日(月)14時12分19秒
ひささん ご訪問&書き込みありがとうございます。
終戦60年を迎える今年は、一段と熱く戦争について語られる夏になりそうですね。
もしくは、関心が薄れてしまっていてそれほどの盛上がりはないかもしれませんね。
しかし現在も世界のあちこちで戦争の火種が燻っています。日本は関係ないとも言っていられない状況です。戦争が悲惨であることは誰が考えても間違いないことなのになぜなくならないのか。
みんなが自分の生活に満足して人を羨んだり非難したりしなければいいのに。でもそれができないから戦争がなくならないのだと私は思います。

822 はじめまして  投稿者: ひさ  投稿日: 7月23日(土)08時30分14秒
初めまして。現在大学生の者です。非常に興味深く読ませていただきました。
私の祖父は私が子供の頃に亡くなったため、戦争の話を聞けずにいました。
こちらで戦争体験記を拝見できて本当によかったです。
私たち若い世代は、戦争を体験した方々のお話を知り、語り継いでいかなければならないと思います。
その意味でとてもすばらしいサイトだと思いました。どうもありがとうございました。

821 グアム島戦死  投稿者: 窪田やよい  投稿日: 6月14日(火)11時10分15秒

ごんちゃんさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
父孝之助の兄(私にとっては伯父)もグアム島で戦死しています。同じく大正7年生まれです。
伯父は野砲隊だったようです。やはり遺骨もなく死亡通知のみで詳しい状況はわかっていません。
数年前、父は弟(叔父)と共に初めてグアム島を訪れました。その際に自宅の庭の土を持参し、ここで戦死したであろうと思われる場所に散布し、グアム島の土を一握り持ち帰りました。赤褐色の土でした。それを墓地に埋めてせめてもの慰霊としました。

820 昭和19年4月頃のグアム島の状況について  投稿者: ごんちゃん  投稿日: 6月 9日(木)06時06分16秒
 私(昭和14年生れ)の兄(大正7年生れ)は軍医として満州に派遣されていましたが、グアム島に移動。昭和19年4月17日にグアム島で戦死。遺骨は帰ってきていません。兄は出身は福岡ですが、父は元々仙台の出身です。今更無理な話かもしれませんが当時のグアム島の状況を御存知の方があれば。

819 拙劣と無責任  投稿者: 窪田やよい  投稿日: 6月 6日(月)18時12分24秒
ロクな武器も持たず食べる物もなく、精神力だけで戦わざるをえなかった兵隊さんたちは本当にかわいそうでした。そのかわり精神面では日本の兵隊さんは世界一優秀だったと思います。
いつの世もどこの場にも優秀なリーダーがほしい。リーダーだけに限らず、末端の人々も各自の責務を全うしてもらいたい。自分のやるべきことがちゃんとできていない人が多いような気がします。まさに「拙劣と無責任」ですね。これでは良い社会は作れないでしょう。せめて自分の責務(たいしたことではない)はちゃんと果たしましょう。さ、夕飯の支度しなくちゃ。

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