過去の掲示板(その20)


「インパール作戦・父が語る戦争体験記」への感想を多くの皆さんに書いていただいています。今までの掲示板への書きこみ内容をまとめてみました。上から順に新しい書きこみとなっています。
なお、改行位置などは一部編集してありますのでご了解下さい

平成11年3月の掲示板開設以来のもの(No1〜63まで)は「過去の掲示板その1」をご覧ください。
No64〜99までは「過去の掲示板その2」をご覧下さい
No100〜172までは「過去の掲示板その3」をご覧ください
No173〜206までは「過去の掲示板その4」をご覧ください
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ホームページ編集責任  窪田 幸唯 kubota@kcnet.ne.jp

 

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901 濱崎さん、女子大生さん  投稿者:窪田やよい  投稿日:2007/ 2月15日(木)14時31分34秒
  濱崎さん、女子大生さん ご訪問&書き込みありがとうございます。

小説や映画は作者の意図するものがあり戦争はその素材に過ぎないので、事実を伝えているとは限らないと思います。濱崎さんがおっしゃる
>マッチを借りに来た。村民は山火事を恐れて貸さなかった。私は帰れと言ったのだ。疎開先の上級生に言えといわれて。復員兵は直立不動でお国のため尽くしたのだと言った。<
といった部分の方が鮮明に事実を伝えているように思えます。
体験者それぞれの真実があると思います。当サイトも一兵士の真実として捉えていただき、感謝いたします。当サイトのリンクにあります「関口さん」「小田さん」の体験談も生々しい真実が綴られていますので、是非参考になさってください。
父に意図があるとすれば、日本兵は誇り高かった、ということだと思います。

一緒のコメントにて、失礼いたしました。
 

900 史学科の社会人学生です  投稿者:1女子大生  投稿日: 2月14日(水)23時11分18秒
  お父様の体験記、一気に読ませて頂きました。
昨年、京都の大学に社会人枠で入学、日本史を専攻しています。
現代史を専攻するつもりです。
インパール作戦を資料を検索しているうちに、こちらに辿り着きました。
生々しい体験談に、目を離すことができず、最後まで読んでしまいました。
戦争体験を、悲しいね、辛かったね、だけで終わらせず、
深い反省をもって、きちんと検証していきたいと思っています。

このような記録を残してくださった体験者ご本人と、
それを書き留めてくださった管理人さんに、心から感謝申し上げます。
ほんとにありがとうございました。
 

899 ビルマの竪琴と若干違う  投稿者:濱崎和郎  投稿日: 2月12日(月)22時59分54秒
  貴重な体験談です。断片的に聞いていた話より、終戦まで具体的に書いてあり、読んで楽しかった。本人の体力が抜群に良かったのだと思う。それが幸運を呼んだ。高校のとき社会の先生が京大から従軍して、ビルマへ飛行機で暗号文をベンジンビンとともに運んでいざとなったら焼くように指示されていた話がありました。ビルマの竪琴という小説も中学の頃読んだ。白骨街道の話があったし、埴生の宿の歌の話もあった。水島上等兵のオームの話もあった。
 戦場にかける橋の映画も見た。将校あつかいして英軍の協力で橋を完成させる。
日立家電の社長のビルマ戦記の文庫本も読み、捕虜となってもイギリス軍は1500KCALの食事をくれた話があった。日本軍は補給能力ゼロで戦争している。現地人は中国人と違い、おおらかだ。
 知り合いの父もビルまで戦病死している。 今私のいた会社のタイ工場従業員が戦場の橋を見学に行って日本軍の跡地を観光している。旧日本軍の植えたサトイモ畑がまだあるとのこと。
 今日本人は歴史を忘れている。「硫黄島からの手紙」も2万の兵の苦しみを描いている。
 私はS15年生れ、祖父は海底電線敷設船で石垣島付近でS19.2.20撃沈されている。
 父は海軍少佐で生き残った。他界して20年になる。終戦時は私は大分県佐伯市近郊にいた。
 B29は墜落してきた。国民学校に戦後入学した。  復員兵に怒鳴られたこともある。
 マッチを借りに来た。村民は山火事を恐れて貸さなかった。私は帰れと言ったのだ。疎開先の上級生に言えといわれて。復員兵は直立不動でお国のため尽くしたのだと言った。濱崎
 

898 第149兵站病院  投稿者:第55輜重兵  投稿日: 2月12日(月)21時06分19秒
  私の知り合いのじいさんの兄が、55師団でプノンペンの第149兵站病院で死なれたらしいんですがパソコンで検索してもでてきません。全兵站病院の表みたいなのが載ってるサイトみたいなのを
どなたかご存知ありませんでしょうか?
 

897 すみませんm(_ _)m  投稿者:てつ  投稿日: 2月 2日(金)22時57分38秒
  投稿者欄をそのままにしてしまったので、管理人になってしまいました。申し訳ありませんでした。当方のブログをごらん頂いた由。ご訪問有難う御座いました。
どうも、現在の日本では戦没者を「犬死」「無駄死」に見る向きが多いようです。これって
彼ら戦没者の尊い犠牲を、まるで無視した「畜生」にも劣る所業ではないかと思っています
私の係累に戦没者がいないので、「私人」ではなく「公人」として良く、靖国に参拝しています。国民の一人として当然ではないかと思います、戦没者を慰霊する事って。
今後とも、よろしくお願いいたします。

http://blogs.yahoo.co.jp/zeps_7165

 

896 (無題)  投稿者:窪田やよい  投稿日: 1月30日(火)23時06分13秒
  管理人(?)さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
貴ブログ拝見しました。熱いサイトですね。賛同するところが多々ありました。
当サイトの紹介もしていただきありがとうございます。
戦争の一体験談ですが参考にしていただければ幸いです。今後もよろしくお願いいたします。
 

895 はじめまして  投稿者:管理人  投稿日: 1月27日(土)17時56分31秒
  お父様の貴重な体験を拝読させて頂きました。私の母方の祖父が海軍の軍人で、かつての連合艦隊旗艦「長門」乗り組みであった事と、母が戦時中、疎開先で悲惨な体験をした事しか
戦争体験が有りませんでした。戦争自体は悲惨で、出来る事なら避けたいものですが、人がいて、主義主張が異なる限り争いは避けられません。興味深く一気に読んでしまいました。
有難う御座いました。

http://blogs.yahoo.co.jp/zeps_7165

 

894 ありがとうございます  投稿者:窪田やよい  投稿日: 1月25日(木)12時51分1秒
  32tmさん お久しぶりです。お元気そうなご様子、なによりです。
貴重なコメントありがとうございます。知識の深さにいつも敬服いたしております。
kyoakeさん ご覧になりましたか?

http://www.nids.go.jp/military_history/military_archives/index.html

 

893 kyoakeさんの祖父様お元気で  投稿者:32tm  投稿日: 1月23日(火)21時37分39秒
  窪田やよい様 寒中御見舞い申し上げます。お父上御不在の正月はさぞお寂しかったこととお察しいたします。
 ビルマ戦線では最年少だろうと云われた私も本年3月とうとう八十歳になります。健在のうちに少しでもお役に立てばと思い出てまいりました。

kyoakeさんの祖父のかた49師団168連隊はビルマでは通称、狼18704部隊と呼ばれていて、多くは関西と九州地区から集められた方たちで、今の韓国ソウルで部隊を編成、龍山から昭和十九年初め頃より逐次船団を組んでビルマに送り込まれました。韓国人志願兵も日本人五人に一人の割合で配置されて居り日本兵士として活躍しました。

昭和十九年頃には南方航路はアメリカ海軍の潜水艦隊に牛耳られて輸送船は次々と沈められて運よく身一つで救助された将兵も装備は船と運命を供にし丸裸の状態で任地に到着するのもやっとのことでした。

ビルマに到着してからは北に南にと苦戦している我部隊を救援したり、敵を攻撃したり活躍しましたが華々しい戦果を挙げることも無いうちに苦労ばかりで終戦となりました。

終戦当時、部隊本部はビルマ・モールメン附近にあったのでkyoakeさんの祖父さんがベトナム・サイゴンの病院で終戦を迎えられたのはかなりの重傷で後送されたのではと思われます。

私は他部隊の者です。窪田様のご指示のように調べられては如何かと思います。
 

892 hyoakeさんへ  投稿者:窪田やよい  投稿日: 1月18日(木)16時58分38秒
  hyoakeさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
戦争体験者が少なくなる中、情報を得ることは難しいかもしれません。
お住まいの県庁に問い合わせてみるか、防衛庁のサイトを訪問して防衛研究所史料閲覧室で調べてみてはいかがでしょうか。
何かしらの手がかりが見つかりますことお祈りいたします。

http://www.nids.go.jp/military_history/military_archives/index.html

 


891 うれしいです  投稿者:窪田やよい  投稿日: 1月16日(火)10時30分5秒
  千葉の大学生さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
参考にしていただければ幸いです。
身の危険を感じることなく、三度の食事がいただけて、なんでもできる今の日本はすごくラッキーですよね。
 

890 貴重な体験談読ませていただきました。  投稿者:千葉の大学生  投稿日: 1月15日(月)11時24分56秒
  大学での資料を探していたのですが、偶然このようなHPを見つけ、一気に読んでしまいました。
今の僕には見当もつかないような出来事です。自分の命がかかった毎日なんて今の時代に送ることはありませんから。。
ただこのような体験記を読むだけでもその過酷さ、悲惨さは伝わってきます。貴重な経験になりました。
ありがとうございました。
 

889 安部総理@NATO  投稿者:窪田  投稿日: 1月12日(金)22時14分23秒
  安部総理のNATO会議での演説は戦後日本の安全保障戦略上の快挙です。
かつて私が所属していた大学のゼミの先生がNATOの専門家会議に毎年出席していました。アジアからはただ一人の出席者で、当時の米ソ冷戦時代の中で欧州が正面、極東は裏面というスタイルを危惧していたことを思い出します。総理が演説を行ったことを象徴するようにわが国の存在感が旧西側諸国の中で一定のポジションが今後さらに築かれることを期待しています
 

888 教えていただけませんか  投稿者:hyoake  投稿日: 1月11日(木)20時25分20秒
  はじめまして、興味深く拝見いたしております。
父は、49師団168連隊の一員として、ビルマに赴きました。大阪府岸和田出身のYと申します。ちょっと、珍しい苗字です。父から、聞いた戦争体験は、ほんとうに断片的です。
最近、多少の認知症もあり、会話がおもうにまかせんません。元気なころに、もう少し聞いておけばよかったと、悔やんでおります。
父の話を総合すると、
○一等兵は上等兵で、戦地へ送られた。連隊では、一番先に戦場に到達した。
○隊長は、アイザワ?という名前であった。
○飛行場を攻撃した時、父の隊は、夜道に迷って、攻撃に間に合わなかった。
○小さな村に立て篭もっている時、英印軍の戦車に攻められて、戦車砲に撃たれて、塹壕がくずれ、腕に重傷をうけるが、くずれた塹壕の土に上半身が埋もれていたので、敵兵に死んでいると、誤認されて、止めを刺されなかった。
負傷したので、もう一人の兵と、後方へ下がった。
そこで、部隊とは、別れたので、それ以後の事はしらない。終戦は、サイゴンで迎えた。
父の事を、ご存知の方、おられるでしょうか?
 

887 お返事ありがとうございます  投稿者:恵子  投稿日:12月 7日(木)21時58分21秒
  お返事ありがとうございます。確かにそうですね。60年前の日本が抱えていた戦争という一つの大枠の環境での危機とはまた違う、現代の人間の内実的に抱える問題も深刻といえると思います。曲がりなりにも平和と称される時期にあっては、避けて通れない問題ですが。私も若者世代ですが、確固とした自己を築けずに深く戸惑っている人間がほとんどだと思います。そのなかで逞しさの定義を、ただ自身の弱さを切捨てるしかない断絶されたものでなく、それを内包したままでも(周囲の支えというエッセンスも取り込みながら)困難に対抗できる力というものに社会全体がしていけたらいいですね。  

886 若者  投稿者:窪田やよい  投稿日:12月 6日(水)11時52分34秒
  恵子さん ご訪問&書き込みありがとうございます。

私にも大学生、高校生、中学生の息子がおりますが、今の二十歳前後の若者が厳しい環境の中で命の危険に晒されながら否応なしに責務を果たさなければならない状況、というのはとても考えられないことです。兵隊さんに行った昔の若者はかわいそうだったなあとつくづく思います。でも、今の若者が幸せかというと疑問です。確かに世界一恵まれた状況にあるとは思いますが、求めるものが何もないということは不幸であると思います。我慢したり努力したり工夫したり、そして得る小さな喜び大きな喜びを知らないことは不幸です。
戦争の話は確かに悲惨ではありますが、どこかハツラツとした明るさを感じるのは困難を潜り抜けた達成感みないなものがあるからではないかと思います。
だから戦争は良し、ではもちろんありませんが、今の若者にも困難を乗り越える逞しさをもってほしいものです。
戦争を心配する向きもあるようですが、今の日本人に戦争なんてできません、て。
 

885 初めまして。  投稿者:恵子  投稿日:12月 4日(月)21時31分31秒
  初めまして。私は福岡に住む大学生で、偶然にもこちらのインパール作戦の戦争体験記を拝見し、僭越ながら投稿させて頂きました。祖父が同じくビルマ戦役に出兵し、孫の私がこのような形で他の方の体験を聞くことが出来たということに、なにか不思議な縁を感じざるを得ません。祖父は輜重隊の兵員として終戦一年前に18歳で出兵しました。小さな時から聞いてきた話は、戦争の残酷と奇跡と間違いなくひとつの祖父の青春の話でした。白骨街道の往復の辛い道行き。部隊長以外には凶暴で生意気だった飼い猿を内緒で殴ったという話には、祖父とともに笑いました。そしてマラリアに罹り昏睡状態の最中みた夢。母親が怒った顔でただじっと見ていたそうです。諦めていたのに喝をいれられたと笑ってました。そして十日ぶりに生死を脱して覚醒し、置き捨てられる危機を脱したそうです。曾祖母が私までの繋がりを守ってくれたのだと思うと、ただただ泣きそうになりました。祖父の話は、悲しくけれどどこか温かいのです。拝見させて頂いたお話にも同じ思いを抱きました。そして新たに心に残るものでした。祖父も再びあの土地に赴きたいようですが、困難になる歳にもうなっております。窪田様の体験とともに、私なりの方法で祖父たちの経験したものを伝えていきたいと切に思っております。長々となり本当に申し訳ありません。こうして不思議にも縁が持てましたこと、本当に嬉しく思います。  

884 73部隊  投稿者:32tm  投稿日:11月12日(日)23時40分28秒
  お父上の部隊名が73部隊とありましたのでめ手持ちの資料で調べましたが不明です。
ただ 73兵站地区部隊本部(森8853部隊)
   73兵站警備隊   (森8854部隊)
以上の部隊は存在しました。参考になるかどうか、73部隊というだけでは難しいです。
 

883 聞く機会を逃した父のインパール作戦  投稿者:秋山 篤  投稿日:11月10日(金)01時54分0秒
   昭和24年11月生まれ 現在56歳になります。父は私が13歳の時他界。物心ついて父から聞いた戦争の話は 埴生の宿の話だけです。「ビルマの竪琴」で大変有名話ですがジャングルを逃げていたときかすかに聞こえた「home,sweet home」がきっかけになり終戦を知った話です。父は英語ができたので捕虜収容所での生活は大変優遇された。
 もし当時の真実を知る人がいるならお教えください。父の部隊は73部隊です。
 

882 北のあの国  投稿者:窪田  投稿日:11月 6日(月)22時12分49秒
  ミサイル、核実験・・あの国の脅しに対して引くことは不要
核保保有論をタブー視することはかの国からの脅しを増長することになります
普通の国としての議論は当然です。
しかしながら・・・自分自身の国を守るのは、国民の自国への誇りが武器より一番必要な事柄です。戦後の仕組みを乗り越えるための憲法改正を安部政権が目指していることを私は評価します

881 松村中隊長について  投稿者:はたやん  投稿日:10月20日(金)14時52分13秒
  832 「日本兵のはなし」 の書き込みにありました、
「三十三師団歩兵二百十四連隊第一大隊第三中隊」の「松村中隊長」の詳細についてですが、
最近、読んだ本の中に「松村中隊長」の記述がありましたので、書き込みします。
その本の内容によると、
「三十三師団歩兵二百十四連隊第一大隊第三中隊」の
「松村中隊長」とは松村昌直大尉のことだと思われます。
その本は、
--------------------------------
インパール
高木 俊朗 (著)
出版社: 文芸春秋 (1975/01)
* ASIN: 4167151014
野望に燃える第十五指令官牟田口中将の無謀ともいうべき
神憑り作戦と弓兵団地獄の戦いを、
従軍記者として、また戦後二十年間取材して再構生した不朽の戦記文学
--------------------------------
・・・です。涙なしには読めませんでした。
現在絶版らしいので、図書館で借りて読みました。
続編の2冊を含め、復刊を切望します。
そして一人でも多くの方に読んでいただきたいです。
 

880  投稿者:窪田やよい  投稿日: 9月19日(火)21時43分29秒
  父が亡くなって3週間経ちました。突然の出来事でした。あまりに突然だったので実はまだ現実感があまりありません。
父の人生を省みて、この年代の方々がされてきたであろう苦労は人並み以上にしてきたでしょうが、幸せな家庭を築き、皆様に愛され、楽しく悔いのない人生だったと思います。
娘の私がいうのもへんですが、自分の哲学を持っており芯のぶれない真っ直ぐな生き方でした。公正な判断力と合理的な感覚があったように思います。ずっと農業に従事していましたが、だからこそ自分の信念を曲げることなく言いたいことを言い、やりたいことをやり、地域の皆様から信頼を寄せられ、敬われてきました。
ここ数年体力気力とも衰えてきたのが心配でしたが、今年も桃の収穫を終え、後片付けも終えての死でした。あまりにあっけなくカッコ良く逝ってしまいました。いかにも父らしいなと思いました。
晩年この「インパール作戦」をアップし、大勢の方々に体験記を読んでいただき感想を寄せていただけたことは本当によかったです。ありがとうございました。
今後もよろしくお願いいたします。
 

879 謹んでお悔やみ申し上げます  投稿者:小松 悟  投稿日: 9月 4日(月)11時09分13秒
  インパールで亡くなられた方の分もプラスして長生きされることを願っておりましたが、突然の事故とのこと、お悔やみ申し上げます。週に1回程度はホームページ、掲示板をのぞかせていただいています。今後もこのまま続けられることをお願いします。
安らかな眠りをお祈りしています。
 

878 驚きました  投稿者:歴史音痴  投稿日: 9月 1日(金)10時48分55秒
  戦後60年も経過した現代にインパール作戦のことがネット上で開示されていること正直驚きました。私の父は15師団(祭)歩兵51連隊第一大隊の一員として、インパール作戦に従軍して負傷した上にマラリアに苦しみながら、白骨街道を退却した一人です。多くを語らずに亡くなりました
が、父の書いた戦記を読んだり、高木俊朗のインパール戦史の書物をよんだりして、戦争で苦労された父の世代が、私たちに託したくとも託せなかった想いがあったのではないか。もっと父に戦争の話を聞いておけば良かった。父の想いに共感を寄せる機会を持てば良かったと、悔やまれます。
父は戦後インパールまで出かけて行って遺骨収集をして帰ってきた時も、錆び付いた水筒を自宅に持ち帰り大切にしていました。苦しんで死んでいく戦友に食べ物はおろか水さえ分け与えることが出来なかったこと悔やんで自分を責めていたのではないかと、今さらながらに父の心情を推測します。こういうことは歴史の教科書では教えてくれません。私に出来ることは語りついで教訓を活かして生きていくことだけだと思います。
 

877 安らかにお眠り下さい  投稿者:32tm  投稿日: 8月30日(水)23時18分51秒
  窪田孝之助様の御逝去を知り余りにも突然の事にて驚いております。

ビルマの戦場では部隊が違い、お互い顔も知らず名も知らずの者が復員して数十年を経てこの「インパール作戦体験記」に辿り着き、投稿などさせて頂いて親しく親切にご指導頂き有り難うございました。

事情は分かりませんが不慮の事故とか、何卒安らかにお眠り下さい。   合掌
 

876 謹告  投稿者:窪田幸唯  投稿日: 8月30日(水)00時09分42秒
  本ホームページの主人公である、窪田孝之助 享年83才 は本日(8/29)不慮の事故でなくなりました。実に残念ですが、謹んでお知らせします  

875 最近のアクセス状況  投稿者:窪田  投稿日: 8月21日(月)13時42分43秒
  8月は当サイトへのアクセス数が急増する季節でもあります。昨年と今年のアクセスには変化があります。昨年までは同じ人が何回もクリックすることはあまりありませんでしたが、今年は同じ人が何回もクリックする傾向が出現しています。ブログなどで取り上げられる結果なのかもしれないです。
いずれにせよ、最後まで読んでいただいている方が沢山いるのが実にうれしいです。
 

874 カズさんへ  投稿者:窪田やよい  投稿日: 8月14日(月)18時25分4秒
  カズさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
広島県(ですよね?)の県庁に問い合わせてみるか、防衛庁のサイトを訪問してみてはいかがでしょうか。防衛研究所史料閲覧室で調べることができるようです。
私の父は戦争の話をするのが大好きで、このようなサイトができたわけですが、おなじ戦争体験者でも話したがらない方々もいらっしゃるようですね。それぞれ体験した戦況の違いなのか、捕らえ方の違いなのか、不思議に思います。
御祖父様の手がかりが得られますよう、お祈りいたします。

http://www.nids.go.jp/military_history/military_archives/index.html

 

873 本日のNHK番組  投稿者:窪田  投稿日: 8月13日(日)22時22分8秒
  本日のHNKスペシャル「日中戦争」を見た
南京虐殺の部分、米国宣教師の画像をそのまま「正しい」というようなニュアンスで流していたことに問題がある。中立的というのと解説を省略することは別物
物議をかもすことでしょう
 

872 祖父のたどった道?  投稿者:カズ  投稿日: 8月10日(木)10時50分0秒
  はじめまして。祖父が参加したインパール作戦についてネットで調べていたらここにたどりつきました。祖父は、私が男の初孫だったのでよくかわいがってくれて、いろんな話もしてくれましたが、戦争体験はなぜか話してくれませんでした。戦争中に思い出したくないくらいの苦汁をなめたのかどうなのか今となっては知る術もないですが。
祖父は、福山出身(すぐ近くに福山海軍航空隊基地があります)で、満州事変(祖父の家にある賞状には支那事変と書いてありました)参加後にこの作戦に従事したようです。激戦を生き残って、捕虜になって生きて日本に帰ってくれたことは家族にとってはうれしいことです。なぜこの作戦に参加したのか不明です。出身地からいけば福山歩兵第41連隊に所属するはずですが、この部隊はフィリピンで全員玉砕したそうなので。戦争中自分の家族がどこの部隊に所属し、どのような軌跡をたどったのか戦後60年以上経過した今となって知る術はあるのでしょうか?
 

871 お疲れ様でした  投稿者:窪田やよい  投稿日: 7月19日(水)10時04分31秒
  32tmさん 情報いただきありがとうございます。
大勢の方が集われたのですね。お疲れ様でした。
例えば北朝鮮のミサイル問題。日本国中で抗議デモが勃発してもおかしくない状況であるのに、普通の人々が日常生活の中で話題にすることすらありませんよね。そういうことを口にしてはいけないような雰囲気があるのはなぜでしょう。市井の人々が国の事社会の事に無関心でいるのはおかしいですよね。愛国心云々以前の問題だと思います。
 

870 猛暑の慰霊祭  投稿者:32tm  投稿日: 7月17日(月)15時50分59秒
  窪田様 長い間掲示させていただき有難うございました。
無事、盛大に「ビルマ方面戦没者慰霊大法要」を終りました。
各地から参集のご遺族はじめ、戦友たち二百数十名、ビルマを思う猛暑でしたが
15日16日高齢の参詣者の事故もなく無事に終了しました。
有難うございました。
 

869 ビルマ方面戦没者慰霊法要  投稿者:32tm  投稿日: 6月23日(金)10時44分29秒
  窪田様 勝手ながら掲示板をお借り致し、本年度の高野山慰霊大法要の案内することをどうかお許し下さい。

第四十一回ビルマ方面戦没者並びに物故者慰霊大法要が来る七月十六日(日)十時二十分より高野山魔尼宝塔にておこなわれます。

前日(十五日)より宿泊希望の方は一泊三食、一万二千円(参加費含む)
法要当日の参拝者は参加費(昼食込み)三千円。 詳しくは高野山、成福院(じょうふくいん)へ 電話 0736-56-2109  FAX 0736-56-3475へ お問い合わせ下さい。

当日は全国から各部隊の生存者、ご遺族の方たちが参集されます。戦後六十年を経て尚父が兄がどこで、どのようにと尋ねられるご遺族のご心情に我々生存者はたとえ僅かな手がかりもお答えできればと思います。
 

868 御礼2  投稿者:窪田やよい  投稿日: 6月 5日(月)10時35分18秒
  田辺博章さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
このようなコメントをいただくと胸がジーンといたします。サイトを立ち上げてよかったなと思えます。掲示板の皆様からのご意見を時々プリントアウトして父にも読んでもらっています。長い間多くの皆様に目を通していただいてご意見をいただいていることに父も驚き感謝しております。
 

867 はじめまして  投稿者:田辺博章  投稿日: 6月 1日(木)09時35分52秒
  窪田様 以前より拝読していましたが、投稿をするのは初めてです。小生の父も岡山の歩兵第154連隊にてビルマ戦線に従軍し、窪田様の復員から2ヶ月あとの、昭和22年7月1日に日本丸にて宇品港に帰還しています。帰還した日に、表道でなくウラ道を通って自宅に帰ってきたと聞いています。真面目で木訥な父の心情を思うといつも涙が出てしまいます。その父は、すでに数え90歳ですが健在です。私も定年となり、改めて父から聞いた軍隊時代の話を、正しく理解しておきたいと思い、資料を当たっておりましたところ、窪田さまのページに行き当たった次第です。やっとビルマ戦線の全体的な理解ができました。また多くの方々のご意見を読み、戦争の時代に青春をすごした父の人生のことを改めて想っています。  

866 御礼  投稿者:窪田やよい  投稿日: 5月24日(水)13時40分41秒
  Berliner大好きさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
アップしてから7年、おかげさまで大勢の皆様にご訪問いただいております。
一兵士の一事実ではありますが、戦争について考える一助としてお役に立てれば幸いです。
今後もよろしくお願いいたします。
 

865 はじめまして  投稿者:Berliner大好き  投稿日: 2006/5月22日(月)07時53分42秒
  私は21歳男です。今日インターネットサーフィンをしてて、たまたまこのサイトを見つけ、一気に読ませていただきました。私は戦争や紛争にとても興味がありとても参考になりました。インパール作戦とゆうのは今までの私のイメージでは無謀な戦いとゆうものでした。しかしアウンサン将軍がこのように絡んでいたのは知りませんでした。

もう20年もすれば、この世から旧日本兵が存在しなくなる日が来ます。その限られた時間の中でこのような記録を残していかないとと常々感じていました。私のような若い世代に記録を残していただきありがとうございます。

 


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