過去の掲示板(その21)


「インパール作戦・父が語る戦争体験記」への感想を多くの皆さんに書いていただいています。今までの掲示板への書きこみ内容をまとめてみました。上から順に新しい書きこみとなっています。
なお、改行位置などは一部編集してありますのでご了解下さい

平成11年3月の掲示板開設以来のもの(No1〜63まで)は「過去の掲示板その1」をご覧ください。
No64〜99までは「過去の掲示板その2」をご覧下さい
No100〜172までは「過去の掲示板その3」をご覧ください
No173〜206までは「過去の掲示板その4」をご覧ください
No207〜250までは「過去の掲示板その5」をご覧ください
No251〜279までは「過去の掲示板その6」をご覧ください
No280〜321までは「過去の掲示板その7」をご覧ください
No322〜371までは「過去の掲示板その8」をご覧ください
No372〜407までは「過去の掲示板その9」をご覧ください
No407〜456までは「過去の掲示板その10」をご覧ください
No458〜483までは「過去の掲示板その11」をご覧ください
No484〜541までは「過去の掲示板その12」をご覧ください
No542〜576までは「過去の掲示板その13」をご覧ください
No577〜619までは「過去の掲示板その14」をご覧下さい
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ホームページ編集責任  窪田 幸唯 

 

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1036.実話の重み  投稿者:窪田やよい  投稿日:2009年 2月15日(日)23時00分27秒
  匿名さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
貴重な情報をありがとうございます。
生身の人間が戦争をしていたのだなと思い知らされます。
 

1035.高田清秀少将について  投稿者:匿名  投稿日:2009年 2月12日(木)00時19分8秒
  小池 昭輔 様 (RE:217.部隊の消息知りませんか)


お探しの情報には当たらないと思いますが、
高田清秀少将について
小生の恩師の手記に記述がありますので、お節介かもしれませんが
お知らせ致します。
先生はインパール作戦当時、第15軍野戦兵器廠のカレワ支廠長
であられました。

  (前略)
ナチゴンにいる日は毎日4キロ離れた高田後方参謀の天幕に弾薬の現況を
報告にゆく。高田少将は報告を聞き終わるといつも月桂冠を茶碗に半分位
ついで「一杯飲んで少し話してゆけ」といわれる。そして、「俺はプロだからそうは
ゆかぬが貴官は召集された人間だから自分の命を惜しめよ」などと言われたもの
である。
作戦が順調に行かない事に責任を大いに感じて居られたらしく痛々しい感じを
拭えなかったが、『ウ』号作戦が終わって後に戦死されたと聞くが人間的に大変
立派な人であった。
(中略)
漸やく誰の目にもこの作戦はいかんなあと判ってきた頃、軍の高橋参謀(「囚人部隊」
にて高田少尉に同行していたとされる第15軍の後方参謀かと推察します)が私の所にきて、
「フミネに弾薬二十屯遅れ」と軍名を示した。
恰度『烈』がコヒマ、フミネ道を転進し始めた時期だった。
私が弾丸(タマ)より米を前送する方が、良いでは無いですか と意見具申すると「軍命
に逆らうか」と大変な怒りようである。
高田さんに相談すると 高田さんは破顔して「トラックを1台(二屯積み)を廻してやる、それで
敵さんから貰った鹵獲弾薬を捨ててこい」という大岡裁きである。 成程と思ったが次の日に
「余は万斛の憾みをこめて『ウ』号作戦を中止せんとす」という軍命がでたので疑問が氷解し
たわけだが、この高橋参謀は作戦中止直後内地に転属するため帰国の途中台北の空港で
チャンドラボース一行と墜死されてしまった。 人の運命は判らないものである。
コヒマ、フミネ道は糧秣は軍からの補給が全くなく、転進中「烈」師団の兵は』道に倒れる者続出
の地獄風景で白骨街道の名がついた程であることはコヒマ戦記に明らかな通りである。
もっとも私の居たカレワ、カレミヨウ道も後に白骨街道になったのだが。
(後略)
 以上 です
 何らかの参考になれば幸いです
 

1034.三仏塔峠  投稿者:o-show  投稿日:2009年 1月15日(木)16時45分50秒
  2ヶ月ほど前スリーバコダパスに向って左(4輪駆動車で30分)のミャンマー山中に日本軍の山頂塹壕(モン族の友人たちは”ジャパンヒル”と呼んでました)に行って、沢山の写真を撮ったのですが草に埋もれて今ひとつはっきり写りませんでした、綺麗に草刈でもをすれば立派な塹壕が出てくるでしょう。直径20m深さ1mほどの小さなものですがサンクラブリからスリーバコダパスへのルートが見渡せました。(とても美しい景色で写真を沢山撮ってきました)もちろんミャンマーサイドですので通常は違法です。付近にはジャパニーズイル(井戸)があり、最も近いミャンマーの村は”ジャパンビレッジ”と明確に看板に記載(丸文字と英語)があり、その村の病院も”ジャパンホスピタル”という名前でした。2008.11月 訪問
(途中に双方のチェックポイントがあり兵隊が銃を構えて見張ってますので通常は入国は無理です)
来月また訪問しますので、お線香でもあげてこようと思ってます。
 

1033.自国の歴史  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年12月22日(月)11時58分32秒    編集済
  REIRさん ご訪問&書き込みありがとうございます。

いわゆる戦後教育を受けた大多数の人々は戦争のことはよく知らずにきてしまったと思います。日本で日々暮らしているぶんには特に必要だとは思いませんが、外国の人と交わるとき、日本がどういう経過でどこの国のどの地域でどんな戦争をしたのか、が重要になってきますね。
 

1032.はじめまして。  投稿者:REIR  投稿日:2008年12月21日(日)20時21分26秒
  旅行でマンダレーにきています。
昨日さがいんを訪れ、ビルマ戦没者のことを知りました。
あまりにも自分が戦争のことを知らず、恥ずかしく思い
調べてみようとここにたどり着きました。
大変興味深く読ませていただきました。
 

1031.窪田様へ御礼申し上げます  投稿者:KOMIYA  投稿日:2008年10月 7日(火)10時52分11秒
  窪田様、貴重なご教示ありがとうございます。早速調べてみます。結果が判り次第また投稿します。  

1030.史料閲覧室  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年10月 6日(月)15時22分41秒
  KOMIYAさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
お尋ねの件については、福岡県の県庁に問い合わせてみるか、防衛庁のサイトを訪問してみてはいかがでしょうか。防衛研究所史料閲覧室で調べることができるようです。御祖父様の手がかりが得られますよう、お祈りいたします。

http://www.nids.go.jp/military_history/military_archives/index.html

 

1029.祖父を探しています  投稿者:KOMIYA  投稿日:2008年10月 4日(土)10時54分39秒
  初めて投稿させていただいています。私は、福岡県柳川市に住む小宮といいます。実は、私の祖父がビルマで戦死したことを幼いころから母より聞いていますが、その祖父がどのようにして戦死したか知りたいと思っています。ご存じの方は教えていただけないでしょうか。祖父は、福岡県高田町黒崎開出身の小宮等といいます。よろしくお願いします。  

1028.今井さんへ  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 9月18日(木)11時34分5秒
  今井さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
読んでいただけることがなによりうれしいです。
父も喜んでいることと思います。
 

1027.(無題)  投稿者:今井  投稿日:2008年 9月17日(水)22時11分34秒
   はじめまして、貴重な体験談を拝読させて頂きました。
このような貴重な体験談を後世に残して頂いたことに感謝致します。

 御尊父殿のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

 


1026.どうぞお大事に  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 9月 9日(火)13時29分50秒
  ガンキョウさん 大丈夫ですか?大変でしたね。
今はゆっくり静養なさってください。
わざわざご連絡ありがとうございます。
またお元気にパソコンに向かわれますよう願っております。
 

1025.ごめんなさい  投稿者:ガンキョウ  投稿日:2008年 9月 8日(月)20時28分33秒
  窪田様 申し訳ありません。
6年余の私の戦場体験記、書けなくなってしまいました。
思いも掛けず脳梗塞で倒れ、退院後バソコンを開くのも億劫になりました。
昨日は戦友の告別式でしたが、残念乍ら参列出来ませんでした。
何とか経理関係の簿記の仕事は責任上やりたいと思って居ります。
ほんとにご免なさい。
 

1024.兵士たちの証言  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 8月30日(土)23時47分52秒
  伊予さん ありがとうございます。
当サイトの主人公である父が亡くなって丸2年が経ちました。
先日NHKで再放送された「証言記録兵士たちの戦争」という番組でインパール作戦に参加した元兵士たちのお話を聞きました。
皆さんとてもしっかりとした良いお顔をしてらして、お話もしゃんとしてらして、感動しました。
 

1023.拝読しました  投稿者:伊予  投稿日:2008年 8月29日(金)23時01分7秒
  たまたま読ませていただいて、今日は命日とのこと、
ご冥福をお祈りします。
 

1022.関口様ののBSハイビジョン  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 8月26日(火)17時53分18秒
  窪田様 本日8/26夕方8;00からインパール作戦での 新潟高田連隊の関口様の証言がNHKBSハイビジョンでありますね。新聞で番組案内がラジオ欄にありました。
私のテレビは古く、チューナーをつけて見ています。最近のテレビは大きい。狭い部屋に大きいテレビは調和しない。小児科医は幼児にテレビは良くないと言う。発達障害が起きるとのこと。インパール作戦のことをもう一度、見たいです。  雑談ですが、

  NHKの証言集は良く証拠データーを集めていると思う。現代の万葉集でもある。
5歳の頃歌った「海行かば水づくかばね、山行かば苔むすかばね」はカバが海にいるのか
と思っていた。絵本には象がワニに鼻を噛まれて鼻が長くなったというのがあった。
この歌詞は万葉集を編集した大伴家持が作り、曲は昭和に作られた。
  刀や槍や弓の時代で、火薬や電気、電波、飛行機の無い時代だ。そして原子核エネルギーが現代だ。
マンハッタン計画のリーダーであるオッペンハイマーは4ヶ国語を理解し、サンスクリット(梵語)も理解しビシュヌ神(シバの神、破壊の髪)の詩を理解したという。 日本の墓には梵語の卒塔婆が立てられる。釣鐘のことを梵鐘と呼ぶし、梵天というのも聞きます。
 インパール辺りにはヒンズー教と仏教とどちらなのか判りませんが、梵語とタイの文字は似ている。「クーンナムチャ」は「君はお茶を飲むか」の意。インドの挨拶の「ナマステ」と南無阿弥陀仏はナムが似ている。
 横道にそれたが 海行かばと地獄のインパール戦場とは大差がある。
現代の万葉集とも言うべきNHKの証言集は貴重なものだと思います。
乃木大将の馬が日露戦争の旅順203高地で前に進まなかった。死体の生臭い悪臭を馬が感じてという乃木大将作の漢詩がある。 現代の将軍達で戦地の臭いを感じたのはそんなにいないと思う。テレビから臭いは出てこない。私は現在の日本の国防を自虐的に非難するのではない。国防は必要である。しかし紛争、衝突や事変が怨念を増大して、将来大きな歯車が再び動き出すこともありうる。オリンピックのように人類の叡智に期待したいです。
 

1021.(無題)  投稿者:高校生  投稿日:2008年 8月20日(水)08時28分8秒
  ありがとうございます。
参考にさせていただきます。
 

1020.どうぞご利用ください  投稿者:窪田幸唯  投稿日:2008年 8月13日(水)18時49分47秒
  「高校生」さん。我が家にも高校生がいます
戦争に関するさまざまな資料がありますが、その一つとしてご利用いただければ幸いです。いろんな立場での記述があります。誇張された物、自虐的なものもあるでしょう。そういう意味では当サイトは淡々と体験が記述されているのではと自画自賛しております。どうぞご利用くださいませ
 

1019.体験記を読んで  投稿者:高校生  投稿日:2008年 8月13日(水)11時40分30秒
  私は夏休みの宿題でインパール作戦を調べています。
そこでこのサイトにたどりつきました。
学校ではうわべだけしか習わないので、体験記を見てこの作戦の本来の事実を
知ることが出来ました。
このような体験をインターネットという形で掲載していただき本当にありがとうございます。
レポートの参考資料として使わせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?
あつかましいお願いで申し訳ありません。
 

1018.NHK BS-hiで再放送  投稿者:窪田幸唯  投稿日:2008年 8月 2日(土)12時51分59秒
  先ほど関口さんのサイト http://www.geocities.jp/tondaseishun/ を見ましたら、NHKBS-hiで「証言記録 兵士たちの戦争」というシリーズの再放送が
されているようです
http://www.nhk.or.jp/bs/heishi/
毎月一本ずつ放送されたものの再放送とのことです
 

1017.大東亜戦争関連のテレビ放映について  投稿者:小松 悟  投稿日:2008年 8月 1日(金)19時31分38秒
  大東亜戦争関連のテレビ放映は見たくありません。偏向はなはだしいことが多いですから。昨年8月にNHKが「パール判決書」に関する放映をしました。ビデオに撮って何回か見ましたが、判決書にははっきり、「ハルノートをつきつけられれば、モナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも合衆国に対して矛をとって立ち上がったであろう」と肯定されているのに、NHKのその放映ではパール判事はガンジーと同様無抵抗主義者だったから、大東亜戦争を決して肯定していなかったとしています。とにかくマスコミは偏向が激しくて見たくありません。最近比較的まっとうな産経新聞でさえ、「太平洋戦争」と題したDVDを大々的に発売しています。「大東亜戦争」だったら購入するのですが、アメリカから押し付けられた「太平洋戦争」なる呼称では購入する気にはなれません。
大東亜戦争に関するテレビ放映の話でしたのでついついコメントしてしまいました。

 


1016.人間の脳  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 8月 1日(金)16時21分10秒
  かつてある哲学者の本に
「飢えた人間の脳の重さは健康人と同じだ」というのがありました。
旧ドイツのアウスシュビッツかの収容所で痩せこけたユダヤ人たちが生き残っていて、遺体解剖した結果、の話だそうです。
 人間は脳のために身体のあらゆる部分を犠牲にして、脳に栄養素を送るのだそうです。
旧日本軍の20歳前後の精鋭兵士達も追い詰められ、飢えて、体重30kgほどになり、インパールから雨期に撤退するが200m歩くと休みたくなる。手榴弾を手に持って、眠り、そのまま死んでいるのもいた。引き金を引く力も失せて。 遺体はすぐハエの卵からウジや黒い虫が付いて、臭気を発しながら3日もすれば白骨になったという証言がありました。
 その証言者は体力があったのか生き残り、その後、慰霊にも出かけておられる。
地獄から生還した人達が武器食料の補給の無い中で、地獄の餓鬼畜生のようになり、なお援軍の来ることを信じていたことを記憶している。その人間能力に哲学者の言葉は正しいと思いました。
 

1015.テレビ放送  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 8月 1日(金)11時33分42秒
  浜崎和郎さん
そんな放送があったとは知らずに見逃してしまいました。
夏は戦争の季節(?)であるのに、そういわれてみれば戦争関連の放送はないですね。今からでしょうか。あっても深夜とは。
世の中で戦争への関心が薄れているように感じます。
放送局も戦争関連ものは視聴率が取れない、てことかもしれません。
 

1014.兵士達の証言放送  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 8月 1日(金)02時40分18秒
  ぺリリュー島(フィリピンの東方)やインパール作戦の兵士達、又は前2日の兵士達の証言はとつとつとしていながらも、嘘偽りは無かった。
極限の惨状もテレビで初耳のことが多かった。
千分の一、または万分の一の確率で生還できたことが、勝利であり、その語った内容は
私を啓蒙してくれた。
人間の醜さ、地獄のような負け戦の歴史と共に63年経っても光り続ける良識も並存することを示してくれたと思います。
 

1013.NHKテレビでにインパール  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 7月31日(木)14時23分52秒
  窪田様

 本日、NHK深夜の0:10から「生存者が語るインパール作戦」というのが「ベリリュー島終わりなき持久戦」とともにありますね。
 昨夜はパプアニューギニアの「ビアク島・幻の絶対国防圏」というのがありました。
その他沖縄戦の80歳ぐらいの人の証言もあり、一昨日はガダルカナルのがありました。
 イギリス軍ではなく米国との戦いは悲惨でしたね。

ところでインパールとは現地語で乾いた土地という意味で、昔は城があり、ビルマ兵と英国のグルカ兵とが争奪戦をしたと観光案内にはあります。
マンダレー北西 350kmの地でアラカン山脈の北部のパトカイ山脈のインド側西斜面にインパールは位置し、今はインド国の東北部のマニプール州の州都です。その200kmぐらい北にコヒマがあり、その北300kmにはブラマドラ川を挟んでアッサム地方となり、そのアッサムの北はブータン国ですね。 インパールの寺院のカラス天狗みたいな仏像が観光写真で紹介されている。 バングラデシュはガンジス川河口に位置し、高校の頃は東パキスタンと学校の教科書に出ていた。  アッサム紅茶は有名ですね。
  そんな所で日本軍が戦ったとは今では信じられないですね。
 

1012.ミャンマー  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 7月21日(月)17時02分21秒
  在タイ者香美さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
現地リポートありがとうございます。
5月のサイクロン被害があったときには、なんとか支援をしたいものだ、と思ったものの
結局なにもしないままに過ぎてしまいました。
観光旅行で賑わっているとのこと、なんかホッとしました。
 

1011.泰緬鉄道の旅  投稿者:在タイ者香美  投稿日:2008年 7月21日(月)02時17分39秒
  先週、泰緬鉄道に乗って来ました。

車でバンコックから、現在の泰緬鉄道の執着駅である、ナムトック迄約200km走り
当日はナムトックのホテルに宿泊、翌日ナムトックより、カンチャナブリィーブリッジ駅
まで鉄道での往復をいたしました。

「死の鉄道」と言われているから、どれだけ凄い所を走るのか、期待と不安が一杯でした
が、実際危険と感じる箇所は、クゥェーノイ川にかかる木製鉄橋部分200mぐらいでし
た。その間だけは列車は時速5kmの徐行で、ギシギシと今にも壊れそうな鉄橋を、騙し
騙し走っているといった感じでした。
それ以外は、喉かな田園地帯と森林地帯を縫うように走る、片道2時間の旅でした。

実際死人が沢山出たのは、ナムトックから国境のスリパゴタまでの区間だという事
ですが、既に線路は撤去され、一部はダム湖の底に沈んでいるそうです。

少し不思議だったのは、線路らは離れていますが平行して走る、国道323号線
は完全な田園地帯を走っています。
当時はジャングルだったのかわかりませんが、完全に平坦でこちらであれば、あ
れだけ危険な場所の敷設工事にはならなかったと思います。

しかし、あの鉄橋のおかげで、観光路線として、内外の観光客が沢山訪れています。
私の乗車した日は、バンコック近郊の工場に勤務する人達の社員旅行のようで、立
見もいる超満員でした。

平和て貴重だなあと、つくづく感じた泰緬鉄道旅行でした。
 

1010.日本の原爆研究  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 7月19日(土)02時55分14秒
  大戦中の原爆研究「湯川氏関与せず」GHQ報告書、米で発見という朝日新聞の平成20年7月18日の社会面の記事は興味深いです。                                                                   日本陸軍の理研の仁科氏らの二号研究、海軍の京大理学部荒勝教授らのF研究が知られている。
  政池明・京都大学名誉教授(素粒子物理学)らは米国立公文書館で、GHQの科学顧問フィリップ・モリソン教授(マンハッタン計画参加核物理学者で、1945年9月に尋問し、湯川博士不在時に研究室の資料を調べた。報告書には結論として原爆の理論研究はほとんどしていなかったと結論つけているとのこと。

   しかし、それならばGHQは原子力研究禁止の法律を作り、何故理研のサイクロトロン2基を東京湾に沈め、京都、大阪大学のサイクロトロンも破壊したのだろうか。 私が小学校5年(昭和25年)頃、学習年鑑という社会科参考書には、東京湾にサイクロトロンを投げ入れる米軍の写真が掲載されていた。
 高圧ガス保安協会発行の23巻No.5(1986)の27頁〜28頁には江波実氏(元テイサン)の「アルゴン余話(原子雲を超えて)」にはガイガーカウンター用の純アルゴンガスを京都帝国大学の荒勝教授に納入するときの様子を紹介されている。
 また昭和30年8月6日の朝日新聞記事を引用されて、「原子力研究の序章はドイツの化学者ハーンとシュトラウスマンがウラン原子の核分裂を発見した昭和13年末に始まり、昭和14年1月6日号の「ナツールウィッセンシャフテンに発表され、世界の物理学者の共通の知識となっていた。昭和15年の夏、陸軍航空研究所長
安田武雄中将と仁科博士(サイクロトロンをその前年作製)との会話、阪大の菊池博士も核分裂現象を追いかけていた」なども紹介されている。
  今の日本では原子力は平和目的で発電に利用されている。
平和をイメージすることは夢想ではなく、共存共栄の現実論と思うのですが。
 

1009.イマジン  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 7月15日(火)11時41分17秒
  ジョン・レノンの「イマジン」・・・名曲ですね。
しかしやはりそれは理想の世界ではありますが現実的には難しいですね。残念ながら。
サミットでもにっこり笑いながらそれぞれの思惑が渦巻き統一見解を見出すのは難しい。
その点日本は一番「イマジン」の世界に近いと思います。あまりに思惑や戦略がなさ過ぎる。こういうお人よしの人ばかりなら、理想郷は作れるのかも。
 

1008.お盆前  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 7月13日(日)14時18分15秒
  お盆前となりました。投稿やめましたが、サミット終了、福田首相の心境や如何にと気になります。
ビートルズ、ジョンレノンの歌「イマジン」・・想像してごらん・・・すべての人が平和に暮らしていることを、いつの日か世界がひとつになることを・・・。宗教も国境も殺し合いもなく、飢えもむさぼりも、天国も地獄もなく、人々は皆世界の一員なのだと。私を夢想家と人はいうかもしれない。しかし私は一人で願っているのではない。殺伐な気持ちになっている人もいつか一緒に待ちましょう。
 お経のように胸に響きます。
 

1007.皆さんありがとう  投稿者:窪田幸唯  投稿日:2008年 7月10日(木)23時56分50秒
  久々に掲示板に入れました。ずっと当地(中国)からの掲示板へのアクセスができませんでしたが今夜は入れました。
大勢の皆様のコメントありがとうございます。
今後もこの掲示板が皆様にとって良き場であることを願っております。若い方からお年をめした方まで訪問いただきありがとうございます。来月は故孝之助の三回忌を迎えます。ネットにこうやって記録を残せたことがよかったと思っております

 


1006.ニックネームで投稿してしまいました  投稿者:小松 悟  投稿日:2008年 6月15日(日)07時53分35秒
  6月12日に“おっさん”というニックネームで「投稿を読んで」と題して投稿してしまいました。これに対する窪田やよい様のコメントを読んで、自分が最初に投稿した部分が書かれているような気がして、改めて見直して気づきました。大変失礼しました。気が付かれていたのかもしれませんが、これを読まれる方もおられるでしょうから、明らかにしておきたいと思います。  

1005.父の思い  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 6月13日(金)13時40分48秒
  おっさんさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
父にネット上への公開の話を持ち掛けた時、父がまず最初に望んだことがあります。
それは「戦跡巡拝」のページの最後にある事柄をまず巻頭に述べたい、とのことでした。
父が自身の戦争体験に対して肯定的であったのは、この事実があったからだと思います。
今改めて読んでみて、一日本人としても感激しました。(自分で言うのもヘンですが)
 

1004.投稿を読んで  投稿者:おっさん  投稿日:2008年 6月12日(木)11時48分41秒
  平成16年8月に初めて投稿し、それ以来時々拝読させていただいています。平成20年5月12日の浦崎孝行様が「牟田口司令官の暴走は言語道断ですが、・・・」と書かれるのを見て、またまた投稿させていただきます。
インパール作戦に関してはこの類のことを書いた本が多数あります。元司令官の故牟田口氏は草葉の陰で涙を流しておられることと残念に思います。インパール作戦をこけおろす方は現在の基準で判断されているところに大きな問題があると思います。何もかもが満たされた現在では考えられないような時代だったということです。
インパール作戦についてよい意味での発言がありますので紹介したいと思います。英国ロンドン大学教授をされていたエリック・ホプスバウ博士の言葉で、「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動に依るものでは無く、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍(INA)が協同して、ビルマ(現ミャンマー)を経由し、インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされたものである。」という内容です。このことがパール判決書にも深層心理的な意味でかかわりがあるのかもしれないと思っています。また、直接インパール作戦が関係するわけではありませんが、タイ国の首相をされたククリクッド・プラモード氏が次のようなことも言われています。「日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母胎をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。こんにち東南アジア諸国民が、米・英と対等に話ができるのはいったい誰のお陰であるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決心をされた日である。 我々はこの日を忘れてはならない」。
インパール作戦で数万人、大東亜戦争全体で日本国民の犠牲者は300万人以上と言われています。アジア、アフリカを西洋の植民地支配国から開放したことは日本人としてしっかり認識しなければならないことだと思います。そうでなければ、300万人以上の犠牲者は浮かばれないでしょう。この300万人以上の中には朝鮮、台湾の方々も含まれているのです。
大変長くなりましたが、よくよく調べて見ると米国、ソ連、英国をはじめとするヨーロッパの植民地支配国家が一団となって中国を利用し、日本を貶めようとした歴史が発見でき、帝国陸海軍も已む無く立ち上がったと思い、敢えて書かせてもらいました。
 

1003.ガンキョウさんへ  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 6月 4日(水)22時38分56秒
  お疲れ様です。挑戦なされたのですね。
写真もあるとのこと、ますます興味深いです。
ご無理なさらずに楽しみながら進めてください。
出来上がりましたらぜひお知らせください。
 

1002.トラさんへ  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 6月 4日(水)22時33分3秒
  お褒めの言葉、恐縮です。
語彙力がないものですから簡単な言葉で書きました。その点読みやすいってことはあるかもしれません。それと私自身は戦争に関しての知識が乏しいので自分自身が理解するためにまとめたようなものです。
 

1001.豚の木登り  投稿者:ガンキョウ  投稿日:2008年 6月 3日(火)20時57分7秒
  やよいさま、 豚が煽てられて木に登りしました。
何とか纏めてみましたが、何と言っても賞味期限切れの頭、真ともに読めるものではありません、只真実を正直に書きました。 戦闘場面は皆さんが書いておりますので、私は
余り他人さまの書かないもの、書けないもの、書きたくないものに重点を置きました。
聖戦の真っ只中にあって、本当の戦争を、戦争とは綺麗事では済まされない事を、知って貰いたいのです。
これから未だ写真を整理しなければなりません。それに少し休養もしたいです。
若し やよいさまが御覧になって、これは如何かとお感じになられたら、遠慮なくご指摘ください、では又いずれ後日、お目にかかります
 

1000.文章力に感銘  投稿者:トラ  投稿日:2008年 6月 1日(日)22時52分15秒
  他の方も書いて居られましたが、やよいさんの文章力すごいですね。今までも色々手記を読んできましたが、ほとんどが自身で書かれたもにばかりです。それを娘さんとはいえ口伝で、ここまで書けるとは、すごいと思いました。
ああ、それと、お父さんのこと尊敬されてるんだな〜って感じました。
うらやましい限りです。
 

999.楽しかったです  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 6月 1日(日)20時26分24秒
  トラさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
子どもの頃、父は楽しそうに(?)戦争の話をしてくれました。私達子どもも楽しみに聞いていました。そして9年前にちゃんと聞いておこうと思い立ちネット上に公開を始めました。話をしてもらいそれをまとめる作業は私にとっても父にとっても楽しい作業でした。
このように大勢の皆様にご覧いただきとてもうれしく思っております。
 

998.偶然見つけました  投稿者:トラ  投稿日:2008年 5月31日(土)21時23分32秒
  よくぞ書き上げられましたね。父親が戦争の話をすると子供は嫌がるのが常と聞いていますが私は叔父から戦争体験を興味深く聞いていました。最近になって、ふと今聞いて置かなければ10年後は誰もいなくなるのでは?と思い老人と話す機会があると出来るだけ耳を傾けるように心がけています。何が出来るというわけじゃないですが、順次伝えて行かなければと思うようになりました  

997.うれしいです  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 5月29日(木)23時01分7秒
  いざよいさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
恐れ入ります。丁寧に読んでいただきうれしいです。またどうぞお寄りください

 


996.貴重はお話、ありがとうございました  投稿者:いざよい  投稿日:2008年 5月29日(木)13時54分10秒
  はじめまして、こんにちは。
今朝のラジオで、商店街紹介の企画があったのですが、その中の商店街の方がインパール作戦の帰還兵と言われたのを聞いた司会者が「よくご無事で」と感動されてたのを聞いて、ネットを検索してこちらを拝見させて頂きました。
私の様なものが意見なんて何も言えないのですが、ただこのページを拝見させて頂いた事に心から感謝し、涙いたしました事をお伝えできたらと、書き込みをさせて頂きました。
一生この事は心に留めて、友人、子供達に「こういう事もあるんだよ」と伝えていけたらと思います。
貴重なお話、ありがとうございました。
 

995.是非  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 5月28日(水)13時42分30秒
  ガンキョウさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
ご高齢にまず驚きました。パソコンを駆使なさる活力と明晰さから推測しますに
稀有な体験をなされ意義深い記録が残されていることと思います。
是非ネット上への公開をお願いいたします。
娘さんにも協力いただきながら、少しづつ書いていかれたらいかがでしょうか。
 

994.私も書きたい。  投稿者:ガンキョウ  投稿日:2008年 5月27日(火)13時19分41秒
  お父様の口述、よく纏められましね、貴女の文才に感服致しました。
小生あと半年で90歳、私も昭和14年12月より敗戦の翌年6月まで6年7か月、軍籍にありました。中支、南支、仏印、ラオス、そして泰国より帰還しました。
幸い私は日付け、地名、時間、出来事等など書き続けた日記を紙縒りにし、荷縄の芯に綯いこんで持ち帰りました。最近娘よりブログに書きなさいよ、と言われます。しかし、
2391日間の記録を纏める気力、体力に限界を感じて居ります。
貴女さまのご努力を羨みながら、一言御礼申し上げます、有難う御座いました。
 

993.紫煙  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 5月16日(金)09時12分36秒
  工学部の化学卒の私は有機化学のフィーザー著の教科書に、焼夷弾のカロリー計算を体積基準と重量基準で比較してあるのを知り、驚いたことがあります。B29に積載できる最大カロリーを計算していたのです。                            世間から戦争の記憶が遠のいて、常識が違ってきて、携帯電話のセールス嬢とか、パソコン関係者と話すと宇宙人と話している錯覚を覚える以外に、天下のNHKですら、篤姫役の女優(芸名を忘れた)が前の朝ドラマで、岡崎市の八丁味噌屋から恋人が出征していくとき、駅のプラットホームでの場面が、外国みたいに思えたことも投稿起点です。

  私は5歳頃、母に連れられ、折りたたみの棹の小旗をもって、大分県佐伯の駅で出征兵士を見送った。緑っぽいカーキ色の軍服を着た、何人かの出征兵士は直立不動で、見送りの群集に視線を向けていた。  まばたきもしなかった。  ところが、ドラマでは篤姫がホームを走り、追いかけるではないか。 ドラマの監督以外に、大きなNHKが、組織自身、若返り、
予算も若い国会議員で決められ、田舎芝居を演じるようになった。信じられない。
  歴史を正視せず、 デマを流している。それは小泉元首相が、親を含め、戦争経験が無いからではないか、とさえ思ったからです。ブッシュジュニアも若い頃はアル中だった。
  私は若い頃、甲斐駒には2回登山した。甲府のサントネージュワインも四日市コンビナート各社の環境対策関係者と見学した。(ぶどう酒のビンには亜硫酸ガスが酸化防止材として、古来使われているからだが、それが喘息を引き起こすと言われ始めた頃だった)。
インターネットの中は、一言コメントが多い。 日本人は俳句が好きだ。 それも良かろう。 しかし、しかし、  今の日本人は傲慢になりすぎている。
 キリストの磔刑はローマ人が罪人が最長時間苦しむために作り、江戸時代も極刑とされた。苦しみを短くするために、介助人は首を切った。マリーアントワネットはギロチンで苦しまずに死んだ。1分間の助命を許された後だった。民衆は歓喜したがそれはアホだった。
  私は68歳になりました。穏やかに今後過ごしたいと思っています。
 松尾芭蕉も51歳で、夢を枯野に残して去ったのです。    敬具
 

992.申し訳ありません  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 5月15日(木)21時42分26秒
  こちらこそ申し訳ありません。
浜崎さんの高い見識と思想は独立したサイトとしてまとめられたほうがよいと思います。
ブログでもいいでしょうし、貴重な情報を発信するサイトとなることと思います。
ご活躍をお祈りいたします。
お世話になりありがとうございました。
 

991.陳謝します。  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 5月15日(木)14時35分45秒
  申しわけありません。
 ビルマインパールの作戦が辺鄙な所の作戦ではなく、大東亜共栄圏という目的で
行なわれたものであり、国家同士が戦うという意味が、どういうことなのか、
私自身、理解不足の点が多いのです。余分なことを書いてしまいました。
      余分なことを書き、ご迷惑をおかけしたかも知れません。
今後、投稿することを停止します。
                    濱崎和郎
 

990.浜崎和郎 さんへ  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 5月15日(木)13時54分31秒
  いつもご訪問いただきありがとうございます。
浜崎さんの豊富な知識には驚くばかりです。戦争について多面から参考にさせていただきましたが当掲示板の趣旨にそぐわないように感じています。
せっかくの知識をこんな所で披露せずにご自分のサイトを立ち上げ運営なさるとよいと思います。
掲示板には大勢の皆様からのご意見ご感想をいただきたいと思っております。他の皆様の意見発表の障害になるようなご投稿は削除させていただきますのでどうぞご了承ください。
 

989.火炎瓶  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 5月15日(木)02時00分29秒
  日本陸軍が火炎瓶でソ連戦車とノモンハンでのハルハ河国境争いで戦ったのは必ずしも
滅茶苦茶ともいえないにかも。なぜなら北欧では火炎瓶のことを皮肉っぽく「モロトフカクテル」と呼んで、ソ連戦車と戦ったのだ。エンジン部分を火災を起こすのが目的らしい。

昭和33年頃「ディー・ブリッケ」
「橋」というドイツの白黒映画を見たことがある。ドイツ少年兵らが、米軍戦車を石造りの橋を挟んで迎え撃つのである。彼らはバズーカ砲を持っていた。彼らの中で一番活躍したのは不良少年だった。その父親はその地方のヒトラー軍の幹部であり、付近の女の子をめかけのようにして不倫を行なう。多分女の子は、食糧不足の中で、権力者になびいたのであろう。米軍人は橋で対峙して、少年らに「幼稚園に戻れ」と号令する。しかし、バズーカを不良少年は打ち、巨大な戦車は破壊され、他の戦車も後退する。(西部戦線異状なしの小説でも米軍は安全第一の作戦を取る)。米軍人は腸をやられて、一日中わめいて、死ぬ。町の住民は避難してだれも米兵を助けない。ドイツ憲兵が回ってくる。逃亡兵と間違われ、少年らは逮捕されそうになる。誰も少年らの証人はいない。その憲兵を射殺して少年らは逃げる。 と言う筋だったと記憶する。

 レイテ島の軍令部にいたことのある岩間教授(東大卒、後に滋賀大教授)は、「レイテ島での一番苦しむ死に方は腸をやられた時だ、腐敗が早い。」とも言った。レイテ島は島の形が変わるくらい砲弾を打ち込まれたが、生き残るのもいた。砲弾破裂跡の穴にもぐりこむのだ。日本兵は椰子の芽を食った。それは土民の食糧源の椰子の
実が付かなくなる行為であり、禁止されていた。
 私の父は戦後、「レイテ突入を連合艦隊(GF:グランドフリートの略)がなぜ中断したかという話もあるが、全体的に劣勢だった。」言った。天候が悪く、艦隊は遠くから、稲光を戦闘と見間違えたのが原因とも言われる。米軍の方は「あの時やられていたら、ひとたまりもなかっただろう」と記録している。
歴史学の平野教授(後に横浜市立博物館長、東大3年生の時、海軍兵学校に入り、大竹海兵団の潜水学校で猛訓練し、終戦東大に戻り、卒業)は「ドイツUボートを設計図どおり日本で作ったが、重量バランスがうまくいかなかった」とも語ってくれた。Uボートはシンガポールまで、多くの資料を運んでくれたし、日本の潜水艦もドイツ訪問していた。

  化学の世界では戦後ドイツのIG(イーゲーファルベン;バズフなどを統合)の工場を徹底的に調査して、米軍はPBレポートにまとめ上げた。レッペ化学は石灰石原料でのアセチレン誘導体化学で戦後の日本化学のバイブル的存在だった。(レッペは来日して大きな声で講演した。趣味としては象が大好きだったとか。)高分子化学で著名なシュタオディンガーは戦時中は人工コーヒーを試作した。米国はドイツのバイルシュタイン事典に準じてケミカルアブストラクトでまとめ上げている。工学部ではそれを読み、実験追試が出発点である。もちろんサリン合成などは容易かも。悪用しないのは、反社会的行動は地獄につながるからだ。

反社会行動の最たるものは戦争ではないだろうか。権力を持つものが、大量殺人を企てること。ロケットも核の利用、薬品の開発も、まずは戦争目的で大幅に科学技術が進歩した。
一方、民生(自動車、コンピューター、ファッション、気象観測、省エネ技術)などの開発競争をしないと、産業界は硬直化し、国家は衰退する。旧共産圏は軍事を重視しすぎて、民生は遅れ、公害は垂れ流しとなった。
                             以上
 

988.硫黄島  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 5月14日(水)02時19分26秒
  昔、映画「硫黄島の砂」を中学校で引率されて見た。ジョンウェイン主役で、勝利の旗を立てるとき、日本兵に狙撃されるのだった。銃剣の振り方など、新兵が中々憶えないのを、ジョンウェインはダンスステップを真似て教え込むのだった。海兵隊新兵らは、砂浜で釘付けされて、「なぜ、こんな砂しかない島に上陸するのだろう」と言う。そして死んでいく。「ヘルプ ミー」と夜、海兵隊の前の暗闇でうめく声が聞こえてくる。新兵が塹壕から助けに出て行こうとする。ジョンウェンがそれを留める。「あれは日本兵の騙しだ」という。日本兵は白旗を掲げて投降する。しかしそれはおとりで、白旗に近づく海兵隊員達が撃ち殺される。米軍戦車が進みながら、狭い覗き穴から見ると、日本兵が銃を持って、ジグザグに、暗闇の中を次々と死を恐れず、突っ込んでくる。ヘッドライトを潜り抜けて、フットボール風に機関銃の弾の間を突破してくる。米海兵隊は日本兵が死を恐れないことを死って、疑心暗鬼になる。(火炎放射器や、ガソリンを地下壕に流し込み焼き殺す場面、日本海軍がようやく米軍を真似て、ブルドーザー試作品を使い、飛行場など土木工事をする場面など無かった。)                                                                                               窪田様のお父上も、英軍戦車とビルマで対峙して、その距離が近すぎて砲塔の照準下限以下になり、戦車は突然引き返して、去る場面を書いて居られます。多分英軍兵は地雷を仕掛けられるのを恐れたのだろう。(イタリア陸軍が、アフリカの砂漠でやはり、タコツボを掘って潜み、地雷を戦車下に放り込み、英軍戦車を撃退するカラー映画も昔見た。戦車は床下は、表に比較して、鋼板が薄かったのかも。

モンゴルではソ連戦車に日本陸軍はタコツボ作戦を取った。火炎瓶(濃硫酸とガソリンを混ぜたもの)をハッチから投げ込み抵抗した。ソ連戦車は砲で撃てる距離まで退却して
再攻撃を繰り返した。接近戦を嫌った。

ガダルカナルでは1m深さのタコツボ上を戦車でわざと徐行し、ねじるように動き、日本兵とも踏み潰した                                                                                 オーストラリア兵もジャングルでは疑心暗鬼になった。地下足袋を履いて、音を立てずに歩く日本兵はオーストラリア兵を殺さないように狙撃してきて、負傷者を運ばせ、行軍速度を遅らさせ、集合地点を割り出し、全滅させる攻撃方法を取ったと戦後、牧師として来日して、教会で語ったとか、伝え聞いた。

窪田様のお父上も、英軍戦車とビルマで対峙して、その距離が近すぎて砲塔の包含下限以下にまでなり、戦車は突然引き返す場面があります。多分地雷を仕掛けられるのを恐れたからだろう。(イタリア陸軍が、アフリカの砂漠でやはり、タコツボを掘って潜み、地雷を戦車下に放り込み、英軍戦車を撃退するカラー映画も昔見た。多分戦車は床下は、表に比較して、鋼板が薄かったのだろう。)
                                                                                   硫黄島陥落でサイパンからの空襲が始まり、被害は一挙に増大した。            一昨日大地震に見舞われた中国成都(人口1千万人以上)では中国人民が人海戦術で初期B29日本空襲用飛行場を建設している写真が数年前に公開されている。
成都には日立、ホンダなど日本企業が多数進出していることを知った。

この前、成都に近い重慶でのサッカー国際試合では日本国旗を岡田監督の前で焼いたりしていたのは誰だったのだろう。
  周恩来が賠償請求放棄して、日中国交回復したことを考えると、複雑な思いがする。
地震被害者はチベット族が多いらしい。中国はチベットには一人っ子政策は強制してないらしいが、地震で一人っ子を失った人も多いみたいだ。チベット高原と山地の境目の断層がプレート圧力でずれたのだろう。衛星からの写真が報道されないのは軍事機密なのだろうか。以上
 

987.所感  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 5月13日(火)21時57分38秒
  浦崎孝行さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
個々の兵隊さんたちはお国のため、というより家族のためだったり誇りのためだったり、生きるか死ぬかの中で懸命に戦ったのだろうと思います。
今も組織の末端の人々の大多数はまじめにこつこつと戦っているのではないかと思います。
ヒーロー登場を望みますがヒーローはいないのかもしれない。
個々の人間が力を蓄え全体をも動かしていくような時代になるような気がします。

 


986.読みました  投稿者:浦崎孝行  投稿日:2008年 5月12日(月)15時55分8秒
  インパール作戦・父が語る戦争体験記読ませていただきました。この作戦については、NHK特集や高木俊郎氏のインパール作戦を読んで知っていましたが、実際に参加された方の手記は大変貴重で興味深く拝見しました。牟田口司令官の暴走は言語道断ですが、当時の日本軍は将校の個人的感情に甘く、組織として合理的な判断をしないことが多々あり、それが前途ある若者の犠牲につながったことは多くの識者が指摘しているところであり、慚愧に堪えない重いです。
しかし、日本は自らの手で戦争責任を追及し明らかにすることをしなかったため、この組織的欠陥は今日の日本社会にも根深く残っています。最近の社会保険庁のていたらくがこのことを如実に物語っているように思えます。歴史は繰り返すと言いますが、戦争の記憶を後世に伝え、二度と戦争をするという過ちだけは繰り返さないよう願うばかりです。
 

985.列強と日本  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 5月11日(日)02時21分45秒
  乃木大将が日露戦争で攻防を繰り返し、二人の息子も戦死させたこと、最後は明治天皇崩御にともない、夫婦で割腹自殺、殉死されたことは良く知られていることである。
しかし、何故日露戦争が起きたかは、知らない人がおおいのではないか。
 清国が列強の餌食となり、義和団事件が起き、アヘン戦争や中国北東部のモンゴル、満州や朝鮮の権益がどう争われたか、私も知らない。日英同盟がバックにあったことはわかる。
  アメリカで南北戦争があり、そのあとの余剰武器が、上海経由で薩長に流れ、明治維新で、フランス側の徳川が敗れたのは知っていても、アメリカではアラモの戦いで、メキシコ軍に、最後まで降伏せずに破れた映画はみたが、インデアンを殺し続けたこと、
黒人奴隷を、アフリカのアラビア商人から買い付けて運んだこと、
  ましてや、ハワイのサトウキビ畑やブラジルのコーヒー畑に日本人が行ったり、
満州に高粱を作りに出かけたのは何故か。なぜ、国際連盟を松岡外相(もと満鉄総裁)が脱退して、列強を敵に回すことを天皇が了承していたのか、日独防共協定は
秘密条約だったのか、伊勢神宮参拝を拒否して投獄された創価学会幹部と今の創価学会とどう結びつくのか、小泉首相は靖国神社に良く参ったが、伊勢神宮は正月だけだったのか、
天皇陛下万歳と言って死んだ兵士が何故、靖国神社だけに入るのか、団地の近くでも、兄が沖縄で玉砕したとか、職場でも兄は硫黄島で死んだとか、父は南の島で玉砕したとか、レイテ島で飢え死にが多発した時東大卒が食糧をガメていたと軍令部にいた社会学の教授からも、ざらに聞いてきた。

 賢い政治家や指導者、彼等が、仏や神から見たら、本当に賢いのか。
しかし、キリスト教でも、ダーウィンの進化論を否定する。
東南アジアで貿易決済する手形でも、華僑系の銀行が、国家銀行より信頼性があるのは何故か。オランダや英国系銀行は無いのか。サッパリ解らない。ユダヤ商人は投機的であり、破産は一生に3回しないと一人前でないそうだ。華僑は薄利多売らしい。

カナダのスーパーに日本人が行くと中国人と間違われるとか。私は鎌倉でイタリア人観光客に中国人と思われた。「この建長寺は古い中国の寺がモデルである」と英語で語りかけたからだ。

 私は、この前、ジャスコでミャンマー製の、スーツを買った。カシミヤだった。
サイクロンで2万人以上死んだとか。原爆被害よりははるかに少ないが、伊勢湾台風の6千人よりは、大きい。解らないことが多い昨今です。以上
 

984.うれしいです  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 5月10日(土)22時18分53秒
  シンゴさん 丁寧に読んでいただきありがとうございます。
うれしいコメント、こちらこそ元気をいただきました。
戦争は遠い昔の事のような気がしますが、70歳代80歳代の方々は実際に経験しているのですよね。身近なところにいるお爺ちゃんが素知らぬ顔をして実はすごい体験の持ち主だったりするかもしれません。
でもやはり遠い昔のことですね。現在とはかけ離れていすぎる。
でもだからこそその頃の苦労を忘れずに現在の私たちがしっかりしていなければと思います。
 

983.窪田さんへ  投稿者:シンゴ  投稿日:2008年 5月10日(土)20時14分22秒
  こんにちは。
遅くなりましたが、お返事どうもありがとうございます。

窪田さんからのお返事を頂き、お勧め頂いた、
小田さんの体験談を、先ほど読ませて頂いておりました。

私は今年、晴れて子を持つ身になるのですが、
戦争について、子供へどう伝えていこうかと考えます。

仕事前に朝、喫茶店にて食事をしながら読み返していました。
先がわかるのに、また読みたくなるんですね。

日常生活や仕事に悩みも多いのですが、どれ程ちっぽけかと思います。
なぜかわかりませんが、来週からまた元気に頑張ろうという気持ちになれました。
 

982.シンゴさんへ  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 4月21日(月)18時00分31秒
  シンゴさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
読んでいただきうれしいです。
戦争の体験者にはそれぞれの視点からのそれぞれの体験談があることと思います。
当サイトの主人公である父は戦争に対して肯定的な考えを持っていたため
内容もどこそこ明るく快活であると思います。
リンクにあります関口さん小田さんの体験談も生生しい壮絶な記録となっていますので
ぜひお勧めします。
 

981.(無題)  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 4月21日(月)07時15分16秒
  お寺に行ったら説教がありました。人間は極楽から来て、極楽に戻る。無数にある命が循環しているが、人間に生まれるのは、大きな石を天女の羽衣でこすって、磨り減る時間と回数の中のひとつ位の確率であり、それを仏に感謝すること、その念仏を唱えることで極楽の行ける との法然の浄土宗の教えだった。 それを聞いてほっとしました。

 少し前には、三井三池鉱山のあった大牟田の石炭産業博物館を友と見学し、柳川の北原白秋の記念館も川くだりとともに見学した。
  団琢磨が三井財閥の番頭として昭和初期に血盟団に暗殺されたのも改めて解った。
彼はマサチューセッツ工科大学の鉱山科を卒業し、イギリスの機械を導入して、三池炭鉱を開発した。長崎グラバー邸のトーマス・グラバーは長崎県の高島炭鉱開発をやはり英国の機械を導入し、日本の産業革命の一翼を担った。石炭は戦前のエネルギー源であり、今はアラビアの石油がエネルギー源となり、日本の電力も石油、原子力、天然ガス、水力、風力、太陽光などベストミックスで作られている。戦争は古代からあるが、産業革命以後の戦争は天然資源獲得手段ではなかったのかと思う。産業界の要望を政府がまとめ上げ、政策として紛争を武力解決しようとする。
政府が弱体か、無い場合は民族紛争となる。宗教や復讐理論の哲学や芸能まで動員される。政府の中でも、独裁者が国政を自分の劇場に仕上げ、君臨して、官僚が細部を作り上げる。戦争となれば、互いに犠牲者がでて、犠牲者の多いほうが負けて、相手の言い分に従う。犠牲者の数は第2次大戦より大きくなる、第3次世界大戦もそろそろ起きるかもしれない。戦争経験者が政府内部、新聞社、放送局にも、相手国にも居なくなった。原爆の怖さを知らない人達で世論が形成されるようになった。
巨大地震のように何時くるか、予測不可能なのだ。

 今昭和初期から第2次大戦への歴史を見ると、親米派の団琢磨が何故暗殺されたか、
現在暗殺の対象は誰になっているか。
ナショナリズムは貧困から生じる。老人とやもめからも奪う政策、それらが投票という民主的でなく、暗殺という暴力で否定される。投票に行けない病人、目の前の生活に追われ、
投票どころではないやもめ、それを代弁するのは何か。無理が通れば道理引っ込む。

  ブッシュ劇場は終わりに近づいた。私は暴力や武力を放棄した憲法を守るべきだと思う。悪循環になるからだ。資源としては東京ガスが以前から実験しているように、二酸化炭素をメタノールにする。アラビアの石油に頼らない。食糧自給率と同じく、エネルギー自給率も上げるべきだと思う。三池炭鉱は戦前の日本を支えたが閉山した。露天掘りのオーストラリア炭だけでなく、
中国、インドの石炭も輸入、ロシアのガスも輸入してアジア内での産業圏を、公害の無い、持続性の高いものに変更すべきだと思う。車やビデオを売り込むだけが能ではない。
 

980.読ませて頂きました  投稿者:シンゴ  投稿日:2008年 4月20日(日)20時02分16秒
  読ませて頂きました。
戦争の体験を全く知らない私にとっては
このような体験談に触れる機会もなく、
非常にリアルで驚き、一気に読ませて頂きました。

実は、たまたま第二次世界大戦の内容をインターネットで見ていて、
インパール作戦というところで、このページへたどりつきました。

でも、これは物語ではないのですよね?
本当にあったお話なのですよね・・・

細かなお話がとてもリアルで人間臭くて、
でもどこか素敵なお話に感じてしまうのは、
窪田様のお人柄と、戦争を全く知らない世代の私の感覚なのでしょうか。
戦争を題材にした映画などとは、比べてはいけないんですね。

うまく言葉に表すことができませんが、心を惹きつけますね。
興味を持ちました。この機会に勉強してみたいと思いました。

もしおすすめの書籍等がありましたら、ご紹介ください。
 

979.チベット仏教弾圧  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 3月30日(日)21時33分10秒
  チベット仏教が弾圧されて20年ぐらいか。一部はネパールへ逃げている。レーニンは宗教はアヘンであるといった。ポルポトはカンボジアで僧侶や教師を労働者でないとして処刑した。
日本の明治政府も文明開化のころ、木戸孝インが仏教や隠れキリシタンを弾圧、第2次大戦中でも、国体に合わぬとして宗教弾圧した。創価学会も弾圧された筈。ナチスも教会を弾圧し、コルベ神父も強制収用所で殺された。

 チベットには新興宗教オームの浅原も出かけて、グルとか名前を付けて、怪しげな理論でナチスが開発したサリン毒ガスでテロ事件を起こした。

私は小乗仏教か、大乗仏教か知らないが、ビルマやチベットは伝統的仏教の中で、若者は一時的に出家して、文字を習い、社会性や思いやりを習得し、平和を愛することを学ぶのだと思う。 中国仏教会はダライラマを非難しているというが、地方自治を認めない中国の覇権主義ではないだろうか。中国では民衆からの公害裁判が起きない。
三権分立が無い。1党独裁が民衆のためだとする。マルクスレーニン主義は経済のことだけで、自然科学や信教の自由は項目に無いのではなかろうか。 納得がいかない。巨大な官僚組織で部分的に資本主義の科学技術をとりいれようとする。愛国主義教育をする。国益第一で国民を弾圧する。 何故公明党や福田首相はチベットに関して、沈黙するのだろうか。

 西日本の故郷に墓参すると墓には黄砂があり、鳥の糞も付いている。そばの海岸に降りると漂着ゴミの7割は日本製だが、2割はハングルが書いてあり、1割は中国漢字だった。
製造業者は愛国心を忘れて中国に進出し、日本は空洞化して、小学校は閉鎖になっている
 経団連も創価学会も愛国心を忘れて、間違っているのではないか。北京オリンピックは正しいか。

 インドからビルマやヒマラヤを越えてB29は重慶西の成都から北九州爆撃した。やがて日本の都市全土がB29の餌食になった。 人類初の核爆弾を2個も受けた。
世界の不景気は始まりかけ、 国連は老朽化し、地球は砂漠化し、牧畜や農業や水産業は疲弊している。情報産業は快楽中心、金銭ゲームとなって、ささやかな幸福を無視し、死後のことは考えない。

 季節風がヒマラヤから来るように、アジアはチベットから不幸が来るのではないか。
私は2酸化炭素に水素をくっつけてメタノールとして燃料化し、炭素の循環を考える時期だと思う。水も地球から逃げているわけではない。水素を水から得るために核を使うべきだと思う。
 

978.戦争の犠牲者について・・・  投稿者:リサ  投稿日:2008年 3月24日(月)16時51分24秒
  突然ですいません。
出来れば、すぐにでも知りたい事なのですが・・・
戦争で亡くなった方の中で調べて頂きたい方が居ます。
その方は、「小谷みすず」といって
当時は、小学6年生です。
どなたでもいいのでよろしくお願いします
 

977.最悪のタイミングでコソボ独立宣言させたアメリカ    投稿者:碇シンジ  投稿日:2008年 3月16日(日)11時57分29秒
  アメリカは、コソボに独立宣言させるのを、遅らせることも早める
ことも、止めることもできたはずだが、なぜ今回のタイミングでコ
ソボに独立宣言させたのか。セルビア周辺のバルカン半島地域の紛
争は、かつて第一次世界大戦を勃発させた。その連想から「アメリ
カはロシアに第三次世界大戦を仕掛けるつもりで、コソボを独立さ
せたのではないか」「アメリカは大不況と金融危機に陥っており、
この経済難を乗り切るため、世界大戦を起こしたいのだ」中東では
今後、イスラエルと、イランなどイスラム諸勢力との戦争が起きる
可能性が高い。連動してイラクとアフガンの戦争も激化し、米ブッ
シュ政権は、この時期をわざわざ選んだようなタイミングで、コソ
ボを独立させ、ロシアを反米の方向に押しやった。 ロシアは、以
前からイランを支援してきたが、アメリカの顔色をうかがいながら
だった。ところがコソボ独立を機に、ロシアは一気に反米親イラン
の方に傾いた。

 


976.東京大空襲のテレビ  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 3月11日(火)10時42分31秒
  昨夜、TBS系のテレビでB29の東京大空襲の被害放送がありました。
警視庁の写真班の方が36枚くらいライカカメラで、翌日の昼に撮影した貴重な写真があり、別人のゲルニカ風油絵もあった。東京下町が町工場の分業家内工業が多いから、その報いだとのメイ司令官の苦し紛れの弁解は、サンテグジュべりの「戦う操縦士」という本と同じで、戦争とはそのようなものです。悪の日本帝国の戦意喪失させる手段だ、というのが米軍人の考えであろう。                                                                      日本の重慶爆撃も、蒋介石に降参せよ とのメッセージだった。今なお、サッカー国際試合で、反日行動を中国人は取る。私は中国の国共合作で、共産軍が危険な場所を受けもち、内戦時は、それが共産軍を優位に立たせ、蒋介石は台湾に逃げたと父から聞いた。
別人からは蒋介石は敗れたその統治下にあった日本軍に危害を加えなかったので、天津辺りでは、何時戦争が終わったかわからなかったし、朝鮮からの引き上げ者より、楽に日本人は帰国できたとも聞いた。 蒋介石軍は米国だけでなく、ドイツから武器も購入していて、日本外務省はドイツに抗議したとも言われる。                             中国内戦の状況は私は調べていないし、語ってくれる日本人もいない。日本軍のトラックはすぐスプリングがだめになるが、アメリカ製のトラックは壊れなかったとも何かの本にはあったし、自動車部隊も終わり頃は燃料不足で、動けなかったとも聞く。                                                                           朝鮮半島は空襲がないので、戦争末期は、B29がきたら、朝鮮半島側へ、兵力温存のため、逃げていたとも聞く、焼死体は、縮んで、大人でも小さくなるとも聞く。

 日本軍の中国での乱暴な振る舞いも、憲兵隊が来るまでに行なわれたし、悪いのが、強姦した後、証拠隠滅で殺したが、ある部隊長は、「断ってからやれ」と指示していたとも聞く。

 中国軍は便衣隊(普段着隊)というゲリラ闘争を仕掛けてきたとも聞いたが、それは蒋介石軍か、毛沢東の八路軍側だったのか、日本軍の軍票による物資買い上げはどのようなものだったのか、とにかく負けたときは、銃の菊の紋は削って投降した とも聞きく没他様のビルマ戦線とおなじです。

  化学工場の24時間運転の職場にいると、ワイ談や戦争の話をして眠気を覚ますこともある。
若いときに、年寄りの同僚から、経験談を教えてもらうのだ。ある年寄りは11歳上だったが、B29の乗り組員の死体が、大阪で落ちていた時、とうもろこしのような、もじゃもじゃ髪の毛の頭の一部を、おばさん達が、わめきながら踏みつけていた、とも言った。

 大学の石油化学の助教授は、戦後の新技術を知るはずも無く、学生に馬鹿にされるのが
いやなのか、B29が淡路島付近に墜落したとき、小型船で捕虜を捕まえに行くとき、機関銃に弾が無かったことなど喋った。仲間のB29がその周りを何度も旋回して、墜落の状況を確認していたとか。

B29は自動照準の投下器を持っていたし、墜落時は破壊するよう指示されていた。磁石は軽くて日本には無いほど磁力の強いものだった。その分析は大学に持ち込まれた。

桑名近くの町では、墜落して落下傘で降下した搭乗員をいろんな人で殺してしまい、戦後
そこの警察署長は夜逃げ逃亡したとか。BC級戦犯で絞首刑になると自覚したのだろう。竹やりは実際に使われたのかもしれない。

隣の伯父さんが、または父親が、殺人犯でもあったのだ。埼玉も市立校長だけが2重人格ではない。ジキルとハイドの2面性を人間は持っているのだ。

 重慶で岡田監督の前で、日本国旗をサッカー場観客席で焼く暴徒らしき人間も、自宅ではネットに何か書き込んでいるインテリかも知れない。国際試合で相手国国旗を焼くというのは世界にあるだろうか。  インテリではなく、田舎者だろう。
 

975.小田実について  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 3月10日(月)01時41分37秒
  団地内の庭の梅の花がほころんでおり、手袋も要らなくなり、理髪店に行った。
ラジオで競馬中継で、蹄の音も入っていた。「名古屋マラソンの高橋尚子はだめだった」と店主は言った。私は馬が走るのは面白いが、人間が苦しそうに走るのを見るのは面白くないね、最近のテレビは見る時間ばかり取られて、ラジオの方が同時に他の事が出来て、良いね、昔はテレビは無かったし。」と言った。
  マラソンの起源はギリシャのアテネ軍の戦勝報告だったのだ。(女子マラソンは痛々しくて、私は見たくない。)その後、ギリシャで戦争ばかりしていてもアホらしいので、オリンピックを作り、戦争を中断した。
更に後でキリストは生まれた。キリストの言葉はギリシャ語で書かれ、聖書となってローマ人で支配されたユダヤ社会があった。
小田実はギリシャ語を東大で学んだ。彼はハーバードにも留学、ドイツでも東西の壁があるときに滞在している「何でもみてやろう」はべ平連時代の本であり、私は父からもらったが、難しくて、むしろ、堀江謙一の「太平洋ひとりぽっち」が面白かった。

  NHKのETV特集で小田実の話が出ていて、テレビで偶然、見てしまった。
彼は9条を大切にするし、阪神大震災を西宮の実家で経験し、その残骸が、大阪湾かどこかで燃えるのが、終戦1週間前の大阪大空襲と重なって見えたようだ。

私は大阪万博のとき、会場にはベトナム館もあったが、無人みたいだった。香港館は水堀を作り、火災を防ぐ作り方だった。繊維不況の繊維館にはカラスがいた。
米国館にも並び、月の石をみたし、ロシア間のソユーズも見た。カナダ館の騎馬警官が格好よかった。私の会社で仕事がプラスチック研究で、輸出のため、米国基準での物性評価もしていたので、英会話グループを作り、ECCから講師を派遣してもらって、会話に慣れるようにしていた。講師はカナダ人、オーストラリア人、ニュージーランド人などだった。米国人も臨時に代理で来て、べ平連のことも話題になった。当時米兵の年間死者はカリフォルニア州の交通事故死者数より少なかった。日本は1ドル360円が自由化で250円などと円高が進行して、町には失業者が溢れた。

私は彼に同調する点はアメリカは怪物であると言う点だ。ノーベル賞を最大に受けて、
強大な力を内在し、良くも悪くも世界に係わり合いを持つ。

 メルビルの「白鯨」を読むとアメリカ文学が理解できる。彼は「人間は逆境にくじけぬ背骨が大切だ」という。くじらをのもりうちに回教徒がいて、毎日、お祈りをすることにも
寛容であり、他者の宗教も認めている。
白鯨を追うエイハブ船長は片足を失う。そして何回かの航海での最後は白鯨モビーディックに逆襲され海中に沈む。(ハリウッド映画のハッピーエンドとは違う)。
その白鯨こそが米国なのだと翻訳者は巻末でいう。

小田実は昨年75歳で亡くなった。私より7歳上だが、戦争の被害者となる怖さと平和憲法で守られて、兵役の経験が無い同世代だと思う。そして、ワイマール憲法と現日本憲法を
同じ位置に置き、やがて改正されると預言する。聖書の中のエレミアの預言と同じになるか、ヨハネの黙示録のようになるか不気味である。私は仏教の盛者必滅を信じる。
グローバル化の弊害がナショナリズム反動を推進して、国連は国際連盟と同じ運命を辿りつつあり、やがて機能しなくなり、エルサレムが原爆攻撃されるかもしれないが。
メルビルの頃は第2次大戦前であり、米国には財閥はあったが、ユダヤ人は希少だった。
どの国も、富国を考え、戦争をも辞さないナショナリズムとなるのだ。
小田実のトルコの廃墟での猫会議の一部を私は想像する。
 インパール作戦の牟田口中将も日本国の産業を守ろうとしていただけだろう。
盧溝橋の関東軍も満州の荒地では無煙炭の撫順炭鉱しかなくて、中国の瀝青炭のある吉林が欲しくて、侵攻したのではないかと考えます。資源、エネルギー源確保のため、戦争という手段をとるか、取らないかが9条と関連してくるのではないでしょうか。
北朝鮮には9条は無い。世界には9条は無い。  小田実はそれを言う。
                              濱崎和郎
 

974.(無題)  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 3月 7日(金)01時53分32秒
  窪田様のお父上のインパール付近の戦闘状況は活発で面白い。

 多くの死者を出していて不幸な戦争なのだが。

 第一次大戦でのレマルクの「西部戦線異状なし」はドイツ兵がフランス兵と塹壕での白兵戦で最後は死ぬ。蝶がその近くを飛ぶ、ドイツ軍本部には前線からタイトル通りの電文が発せられる。反戦小説と言われる。

 ヘミングウェイの「武器よさらば」も最後は、妻を雨の中、病院まで送るがそこで妻と死別するが、アルプスの雪解け水の飛び込んで銃撃されながら逃げる場面もある。

日本の大岡昇平の「野火」は南の島で、人肉をサルの肉だと戦友から分けてもらう場面もある。

米国側の最近亡くなったノーマンメイラーの「裸者と死者」に米軍側からみたジャングルの戦いもあり、便所から部隊の大きさを推察したり、日本人捕虜が、何日か経って、気を許して、米兵に笑い顔で振り向く瞬間、射殺する場面もある。(カミュの「異邦人」のアルジェでアラブ人を殺す場面に似ている。不条理な心理かも。)
人間の極限状態ではないし、実戦とも違う。

 トルストイの「戦争と平和」も冬将軍を利用してモスクワをわざと焦土としてナポレオン兵を壊滅するストーリーで、主人公は負傷して倒れ、空を眺める。混乱から整頓へ導いたとして表彰もされる。ヘップバーンが主人公の若いロシア将校の恋人として登場する映画もあった。

ビルマ、インド付近のインパール作戦は、中国成都から、B29が八幡製鉄に空襲を始めたのに対抗する作戦だった。                               サイパンがまだ落ちてなく、
空襲は中国から行なわれた。昭和20年3月の陸軍記念日の東京大空襲はサイパン側から、高度を下げて行なわれた。 B29の損害状況は、戦後60年たった最近、ネット上で情報公開されていて、高度を下げたので高射砲に打たれている。初期は中国成都まで戻れなかったのが多い。

 s24,3月、私は大分県佐伯から、下関へ転校した。大分あたりで銃剣を光らせた米軍兵士が15人位、満員の客車に乗り込んできた。客車の半分は、他の車両に車掌によって移動させられた。
 日本人はブツブツ文句を言っていた。 南小倉と思うが、そこで米兵は降りた。座席などにはピーナツの皮がたくさん落ちていた。蒸気機関車は石炭と水を補給した。象の鼻を大きくしたような布の筒が水で震えていた。
 わたしの家族は下関で降りた。そのときだったか、戦争孤児兄弟がピーナツのむかれた薄皮を拾って食べていた。弟は1年生くらいだった。佐伯でも戦争孤児がだぶだぶのナッパ服を着て、私の食べるお結びをジッと見つめていた。しかしやらなかった。皆が飢えていた。
 佐伯郊外の私の住んでいたのは農家の馬小屋を改造した1間だった。下関の引越し先は
網屋が大家で、義理の伯父が手配してくれた薄暗い家であった。水道は3軒で共用だった。
近くには朝鮮部落があり、女性は舟型の白いゴム靴を履き、頭に物を載せて歩いていた。
鶏を1羽、乳がバスケットに入れて、運んで来ていた。列車内で生んでいた。しかし鶏は鳴き声を上げなかった。車掌に見つからず、改札口も無事通過した。それを狭い庭で飼った。
学校4年生で、言葉が大分とはアクセントが違っていた。仲良くなるのが大変だった。学校には土手に防空壕が残り、運動場の端は芋畑だった。

 下関駅そばの港には興安丸、崑崙丸、徳寿丸など(関釜連絡線)が大きな煙突をもって係留されていた。4年生の遠足は門司の清滝公園だった。初めてクラスで写真を撮ってもらった。  列車は進駐軍用には白い線が入っていたし、関門トンネル出入り口には黒人兵が警護していた。

下関も空襲で焼け死んだ人が多かったらしいがの時は知らなかった。高校の友人の父上は開業医だったが、広島に軍医として到着した日に原爆にあい、
亡くなられたとのこと。一高から九大医学部に進まれ、上田中町(安倍元首相の家のある町)に医院を構えていたとのこと。大学も同じになり、下宿を同じにした。

 だらだら文になり、申し訳ありません。
 

973.竹下さんへ  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 3月 4日(火)00時53分1秒
  竹下恵さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
一兵士の一体験ではありますが、何かのお役に立ちましたら幸いです。
このように皆様にご意見いただくことでページを維持していくことができます。
今後もよろしくお願いいたします。
 

972.(無題)  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 3月 4日(火)00時47分13秒
  浜崎さん いつもありがとうございます。
「父の自分史」是非ネット上に公開されたらいかがですか?
冊子を作るよりもより多くの方の目に触れることができると思います。
せっかくの浜崎さんの豊富な情報をこんなところで(笑)披露してしまってはもったいないです。きっと意義深いサイトが出来上がることと思います。

「ビルマの竪琴」ですが
父はあまり好きではなかったみたいです。
現地に残る水島上等兵が美で日本に帰ってしまう兵隊はつまらぬもの、みたいな描き方がきっと納得いかなかったのだろうと思います。
そもそも物語ですからそれはそれでよいのですけど。
 

971.大変勉強になりました  投稿者:竹下恵  投稿日:2008年 3月 3日(月)09時35分8秒
  はじめまして。東京都千代田区の竹下と申します。インパール作戦がきっかけで
インターネットを検索してホームページを閲覧いたしました。大変勉強になり
また、幾度か目頭が熱くなるところもありました。ぜひ今後もこのような
ページを維持していただければと思います。取り急ぎお礼までに
 

970.取材お慶び申し上げます  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 3月 2日(日)23時56分48秒
  NHK取材班も史実資料を追い求め、闇に葬らず、ビルマ戦記を記録したいのでしょう。

 芥川龍之介の小説に「君見ずや、双眼の色、語らざるは憂い無きに似たり」
で終わるのがあったと思います。  水島上等兵がオームを肩にして、戦友の帰還を見送った「ビルマの竪琴」の小説は日本兵の心境であったと思います。
 その漢詩は、中国の古い漢詩のようです。

  最年8月のNHKの水木茂のネズミ男のラバウル全滅の陸軍部隊の玉砕を重傷で気を失い、
気が付けば捕虜となったのか、奇跡的に帰還できた話が放映された。人間の条件という小説でノモンハンで敗れて帰還し、軍法会議にかけられた重傷将校の牢に拳銃が差し入れられ、自殺する厳しさに似ていた。

同じくNHKでの過去には沖縄のそばの久米島で、米軍将校が単独で交渉に来て、戦わずして、部下を全員生還させ、戦後裏切り者扱いされ、つらい思いをした日本将校の取材放送もあった。                                                                                 私は小学校時代、映画館に学校から引率されて見た映画に、ハンサムな上原謙(加山雄三の父)が南海の孤島で、飛行機で不時着したら米兵も不時着してきて、顔を合わせ、戦うべきか何日か互いに考えて、次第に戦いが無駄だと思い始めて、終戦まで仲良く助け合う という筋書きだった。 信じられない架空のGHQ教育映画だと考えていたが、NHKの久米島の10年位前の取材放送を見て、場所は違うが、これがモデルだったのかと思ったことがあります。

  私は父から聞いたこと、職場で出会った中国からの帰還兵などの話、先生や教授から聞いた話、叔父や伯母から聞いた話、読んだ本からの知識など混ぜ合わせて、資料集めして「父の自分史」を作ろうかと考えたことがあります。
  新聞社に聞いたら、「費用は100万円はかかる」との話だったのですぐ諦めた。

海軍の暗号表は鉛の表紙だったとか、暗号表は地域と期間で違っていたとか、モールス符号は1秒に2文字打つ、とか南方は太平洋戦争開戦暗号文は「新高山登れ」ではなく、「帝国万歳」だったとか、父がビキニ付近のケゼリンやラバウルを撤退したらそこが順にやられたとか、最後は海軍は漁業者から燃料を徴用したとか、呉の地下タンクのことや、ポツリポツリと負けを意識し始めたときのこと、関門海峡5千発の米軍投下機雷原を「総員配置につけ」と指示して通過した恐怖などの耳にしたことや、母は逗子の小坪の借り上げ官舎でジョンという犬を数軒で飼っていてその写真もありますが、点の情報でしかありません。

原爆は日本も帝国陸軍は理研の熱拡散法、海軍は京都帝国大学で遠心分離法でのウラン濃縮をトライしていたとの出版文書も10年前に見たことがあります。スタートが遅すぎたとか、軍部が重要視しなかったとか言われています。それが実用化されたとして、日本が仮に勝ったとしても、今使うパソコン開発までの戦後世界史はガム島の横井さんも想像していなかっただろう。

50年後、100年後の地球上はどうなっているか、想像できません。
 

969.NHK取材  投稿者:窪田やよい  投稿日:2008年 3月 2日(日)21時29分1秒
  先日NHKのディレクターの方から電話があり戦争体験についての取材をさせてほしいとの打診がありました。インパール作戦に関する番組を作るにあたり当HPへと辿り着いたとのことです。
本日取材を受けました。
当の本人が亡くなってしまった現在、直接のお話ができないことが残念でしたが、父の心情など、私自身の考えを交え、お話しさせていただきました。
父が現地で書いたスケッチ帳実物に興味を持っていただいたようです。
番組としては今まさに取材をスタートさせたところで、これからどんな方向のものにしていくかを検討していく段階だそうです。
戦争に関しては体験者ごとに体験した内容がそれぞれであるし、またそれをどう受け止めているかもそれぞれ違うし、戦争をどう捕らえるかは大変難しく慎重に考えていかなければならない、ということで取材は終わりました。
 

968.インド洋給油再開  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2008年 1月24日(木)22時21分57秒
  寒風で夜の月も煌々と照っています。
ホームレスも暖かい所に行きたいだろう。インド洋に意地で出かける自衛隊。
地方に暫定税率での金をよこせと大合唱。
  確定申告の案内がこの高齢者にも来た。しかし納税意欲が全然湧かない。
しかし政府や市役所は、最後は預金通帳差し押さえをする。それが彼らの意地だ。
大正時代の白ロシア応援の列強出兵でのシベリア出兵を一番長く続けた日本。
その後、唱和初期の大恐慌と軍縮など、世界がナショナリズム化した。

サブプライムも米国の放漫財政の付けではないか。6年続けてまだ意地で続けたい自公政府に民主主義の理念はあるのだろうか。偽りに発する国際協調と無駄使い。
   歴史に学ぶべきではないか。あと何年なのか。月は明るいがお先真っ暗。
 

967.60年間の平和  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2007年12月30日(日)23時57分47秒
  戦後60年間、曲がりながらの平和は保たれ、戦争経験者は他界して行きます。しかし戦争の記録は残ると思います。日本は軍属210万、海外民間30万死亡という。市民の死は何人だろう。米国は100万死亡、内20万が太平洋戦争犠牲者らしい。日本との比率は太平洋では1対10
と観るべきか。アジア人は1000万人犠牲とも聞く。調べれば定量的に判るかもしれないがどうも曖昧であり、年金記録と同じくはっきりしない。
  ブット氏がパキスタンで暗殺された。アウンサンスーチーも同じになるかもしれない。
中国のビルマ付近のミャオ族などはテレビで見る限り、日本の山村のような感じがする。
自給自足の農業生活は羨ましいし、GDPでは表現できない幸福があるように思う。
  私は鈴鹿山脈北部の藤原岳麓太平洋セメントの聖宝寺の紅葉祭りを11月末に観に行った。
三岐電車の東藤原駅のそばであり、最澄が建立した天台宗の寺だったが織田信長に焼かれて
今は妙心寺派の臨済宗の寺となっている。紫がかった紅葉が有名だ。伊吹山も遠望できる。
戦没者30名程の墓地が役場近くにあった。6基ほどがビルマ関係だった。22歳から32歳の享年が記されていた。寒村からそれだけの若者が亡くなったのはかなりの比率だと思った。花が添えてあった。
  伊勢湾近くの四日市コンビナート用工業用水の伊坂ダム付近の戦没者碑にも花がいつも添えてある。30名程記録されていて、年齢は書いてない。レイテ方面、中国方面が多くて
ビルマ方面は3名位だった。志願兵も、徴用兵も区別できない。 花は自治会か部落会かの当番だそうだ。畑のそばに花畑を作っているのはそのためだろう。

私は電車会社が造成した新興団地に住み35年、化学コンビナートで定年を8年前迎えたが、その点ではよそ者と言える。戦死者がどのような気持ちで入隊し、どのように没したか
残された村人は小作だったのか地主だったのか、学徒動員がどのようだったか、聞くチャンスもない。付近の田んぼは牛でミャオ族と同じように鋤いていただろうが、秋は小型コンバインを農家が運転していた。

 


966.ありがとうございます  投稿者:窪田やよい  投稿日:2007年12月29日(土)15時15分20秒
  小島裕治さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
ご縁のある方からご投稿いただき格別の思いがいたします。
現在に至るまでなにかとお世話になりました。
二人とも他界してしまいましたが。
毎年100名もの方々が他界されているとは驚きました。
戦争は本当に遠い昔の話となってしまいました。
 

965.はじめまして近所の者です。  投稿者:小島裕治  投稿日:2007年12月22日(土)19時12分21秒
   私は窪田様の書かれました、文章の中に登場する同郷の小島重治の末の倅です。ホームページに対する感想等を読ませていただきました、私ももっと父親から話を聞いておくべきであったと思いましたが後の祭りです。ビルマ戦線で戦闘をした兵士達の戦友会もほとんど解散し.その上部組織であるビルマ英霊顕彰会も解散.その上部の戦友連も解散しました。
 私は少しでも父親の歩いたルートが知りたくなり、健在な父の戦友の方々が再度結成した、全ビルマ会に参加させていただいています。この会はビルマ.インドからの留学生との交流会などもありますが.語学力のないわたくしはあまり役に立っておりません.とにかく次世代が参加するだけでも.大変歓迎していただいております。 しかし毎年11月3日に靖国神社で執り行われるビルマ方面慰霊祭では、昨年約300名 今年約200名が参加とどんどん少なく成ってきています。(毎年約100名の方々が他界されていかれるようです)もし何か知りたい方がいましたら、参加なされてはいかがでしょうか、(あまり時間はないかもしれませんが)ちなみに窪田様や父達の所属していた31師団工兵31連隊(烈工兵)は3名参加でした。
 

964.米大使館賃料10年滞納  投稿者:濱崎和郎  投稿日:2007年10月29日(月)11時43分54秒
  新聞によると国有地の赤坂の米国大使館4000坪が10年間賃料を払っていないとのこと。
彼らは外交官ナンバーの車で銀座を走り回り、とても公正で信義のある国の代表とは思えない。
  権威に弱い日本人という品川沖に来て、国際法無視の大砲を撃ち、開国を迫ったペリーと同じでイギリス,ロシア,フランスなどとは無礼な連中である。
  四日市でも焼夷弾で焼け野原になった町を艦載機で低く飛びながらゴーグル越しにニヤニヤ笑いながら機銃掃射していたという。米司令部では「ジャップを殺せ,殺せ」が将軍の命令だった。
  戦後の米国留学生でも白人と同じプールに入れなかったとも聞く。
マッカーサーは日本人を12歳とさえ言った。彼らの本音がその辺りにあることをピッチャーの松阪や松井秀も知っておくべきだ。客人としてしかもてなしてない。隣人とは別だ。騙されてはいけない。 米兵でもまともな市民権を持ったのがどれだけいるか。駐留軍には字も書けないのがかなり居た。  米国には医療保険に加入してないのが半分いるという。
そんな国に民主主義を主張されるのはチャンチャラおかしい。
アメリカにNOと言える政治家は居ないのか。
 

963.国際協調とは  濱崎和郎  投稿者:濱崎和郎  投稿日:2007年10月28日(日)14時31分27秒
  前報に続きますが、終戦直後の集団自殺は皇居前でもあったと聞きます。(新聞はGHQ検閲で不記載かも知れない。)忠は明治のころ制定された軍人勅諭の最大の項目だった。
  政府は今、インド洋給油で国際協調をいう。6年前は米国ブッシュが間違っていても、お付き合いで良いだろうと私は思った。それは「軒を貸して母屋を取られる」という諺どおりであった。
6年経ったらブッシュ作戦の主要部となっていた。金をくれと外国は言いつづける。しかしもう限度だ。
日本国内は疲弊し、減税も、老人控除も無くなり、派遣社員が3割になり、年金加入者が減り、少子化どころの騒ぎではなくなった。派遣には忠誠心は無いから、内部告発が増えた。
 金持ちは貧乏人をいじめても、自分の会社が儲ければ、失業率も下がるから良いと考えたが、製品を買う人間は元中流で今は貧乏人なのだ。 (二宮尊徳は、徳も金も、たらいの中の水のようなもので、与えれば帰ってくると言った。勿論勤勉を勧めて、飢饉から村人を守った。)

  自民党に公明党も擦り寄った。公明党は靖国参拝はしない。国際協調という自民党は一方でせっせと靖国に参る。戦没者を慰霊するのは構わないが、日曜日に真珠湾奇襲攻撃をした当時のエリートも合祀されているのに。当時の外務省の出先が通報遅れしたと弁解したエリート達。 天皇が闇討ち日程まで承認する筈が無い。不忠ではなかったか。  国際的には戦犯として裁かれたのに、米国には謝罪もしない。反省もしてない。
  ひたすら米国にへらへら卑屈に協力してインド洋に税金を垂れ流ししている。
ブッシュにバカにされている。アジア人は自己主張だけして、犠牲になったことだけ訴えて、まともに謝ることを知らない民族だらけと思われているのだ。利用するだけ利用せよとシーファー大使に命令しているのではないか。 女性の品格ではないが、自民党の品格を疑う。それに付く公明党もおかしい。 表面的な馴れ合いの国、偽善の国、恥ずかしくないか。これは自虐ではない。
 

962.はじめまして  投稿者:蜜柑太郎  投稿日:2007年10月 5日(金)00時23分53秒
  管理人さんはじめまして、こんにちは
NHK 証言記録・兵士たちの戦争で菊兵団のことを知り
当時の作戦などネットで飛び回っていたらたどり着きました。
突然で申し訳ないですが番組を見ていて
塔の天辺に菊の紋章を取り付けた慰霊塔みたいなものが放送
されていました。
最強師団と謳われた菊師団の慰霊塔かどうかは不明ですが
興味あります。所在地などご存知でしょうか?
唐突なお尋ねですが、どうぞよろしくお願いします。m(_'_)m
 

961.沖縄での死守  投稿者:濱崎和郎  投稿日:2007年10月 4日(木)23時57分20秒
  沖縄には5年前、私は職場旅行した。ヒメユリの塔、そばにあるガマといわれる洞窟、1フィート運動での米側撮影写真がある記念館、日米犠牲者の村ごとの黒い墓郡を見て、さらに首里城とその中国風城壁(日本のようにでこぼこしていない、忍者も登れないような石組み)にザワワザワワの歌が頭の中で重なった。泡盛は絞る前の泡が出る酒と誤解していた。ブタは各家庭で以前は各家庭で殺し、本土のような部落差別が無い所であり、下水は横浜方式で、嫌気発酵で副生汚泥が殆んど無いことも沖縄出身のかっての友人から教わった。
   死守について、1.太田司令官の遺書に「沖縄の若い命に格別のご高配を・・」とあり、辞世の句にも若い青葉・・を惜しむ」とあったように思う。
2.当時は一億玉砕が叫ばれ、国民学校低学年で、会津の白虎隊の飯盛山自決が教えられた。会津は家老の家族も屋敷内で自決した。また乃木大将夫妻の明治天皇崩御時、切腹殉死も日本人の倫理感の支えでもあった。友人の車で行った首里城近くに沖縄健児の塔もあった。
 集団自決は手榴弾が主かも知れないが、青酸カリ自殺もあったのではないか。
一方学童疎開も行われていた。その数、年令など詳しくは知りません。疎開先で沖縄の児童集団の移動も聞いていた。
3.私の卒業した大学でも同窓会雑誌に終戦直後(当時は工業専門学校)2名が敗戦を嘆き、青酸カリ自殺したとある。中学時代、そこ出身の理科のM先生(先輩)には切腹と聞いていたのだが。
 奇妙なことに、その中学入学S27時、H校長の訓示は「心はコロコロする。それに石を乗せ、釘を打ったのが忠という字だ」とのこと。2年生では大陸か半島から引き揚げたK校長で「天行、健なり」と訓示された。教育委員は選挙で選ばれていたと思う。生徒会や学校新聞もあり、校歌も制定され、新制中学と呼ばれ、私塾も無く、アチーブメントテストで高校進学が決まっていたと思う。高校では武道は柔道と弓道が部として復活、生徒会予算が貰えて、剣道部はクラブであり、予算はゼロだった。
4.小学6年で同級生に上原君がいた。無口で、痩せていて、頭に傷があり、毛が斧の跡型のように禿げていた。会話が無かった。校区内の親戚に住んでいた。私はその子を何かの理由で追いかけたことがる。彼は半ズボンで何処までも逃げた。学校の外まで走って逃げた。私はマラソンのように、校区外を走って追いかけた。捕まらなかった。
 修学旅行で別府に行くことになり、彼は両親の都合か寝小便するかで、行けないと女先生が言った。私の親友Sがそれを聞き、私と両親かの家(学校近く)に行き、Sが「参加させて下さい」と頼んだ。
しかしダメだった。Sは後に丸紅社員となり、今は奈良国立博物館のボランテアガイドをしている。
5.沖縄の集会はパトリオット設置反対も大きいと思う。
 北朝鮮が狙うのは第一が沖縄であろう。米軍はフィリピンなどに分散すべきだ。
 テポドンが核を搭載して、かつてのマリアナの七面鳥撃ちとはVHS電波でゼロ戦を感知、付近で爆発、ゼロ戦は羽根が吹き飛んだ。パトリオットが接近した時、起爆する形式にしておけば、沖縄上空で核爆発が起きる。
 米軍と沖縄はパトリオットの引き金で壊滅する。 北は「パトリオットが責任だ」と世界に宣言するだろう。
 ミャンマーは北朝鮮と仲が良い。金何姫だったか、旅各機爆破事件にも、外交官だったか、爆発事件があったように記憶する。 ミャンマーは僧侶がいるだけでも、まだましだ。
ミャンマーから北はアヘンを輸入して怖れはある。ウランはどうか。北だけの鉱脈では発電を賄えないかも。核爆弾は原発内のウランより、はるかに少ない量のウランかプルトニュウムで製造できる。 北も自衛のための先制攻撃だとも主張するだろう。
 日本の危機管理はおかしい。
 

960.軍事政権  投稿者:窪田やよい  投稿日:2007年10月 4日(木)13時09分10秒
  ちょうど2年前の秋に今は亡き父と姉の二人でミャンマー旅行に出掛けました。
過去の掲示板19にもありますが、ミャンマーは子どもから大人まで敬虔な仏教徒で彼らにとって僧侶は本当に尊い存在なのだそうです。今回の大規模なデモ行動は軍事政権への日頃の不満に加え僧侶への危害で怒りが爆発したみたいですね。旅行中の話で、農民の一日の労賃が約1ドル。観光客がポーターさんへ渡すチップが100円ほど。一般民衆の間でも顕著になりつつある貧富の差に危惧を感じたそうです。
かたや沖縄での教科書記述に対する抗議行動。今の日本であれだけの大規模行動が起こるということがすごいなあと思うのと、日本は自由の国なんだなあと痛感しました。
それにしても「軍の関与」が事実だとしてもそれを教科書に記述する必要が日本の国にとってあるのか、とても疑問に思います。
 

959.北のやり方  投稿者:濱崎和郎  投稿日:2007年 9月25日(火)07時09分52秒
  亡妻(51歳で脳梗塞かくも膜下出血か解からぬまま病院で12年前死亡)はS19,2に平壌近くで生れ、夜中泣き声を上げないように姉に口を塞がれながら、学校から学校へと、民家を避けて、歩いて38度線を越えて引き揚げて来た。 その父は平壌医専卒で満鉄平壌鉄道病院医師だった。 亡妻の祖父は仁川駅長だった。 全てを失い医師免状だけ腹巻に巻いて
帰国し、 下関の引き揚げ者、孤児など収容するの施設の保健状況を確保するということで、
貧困地区で頼母子講が当り、開業できた。 朝鮮語ができるので、朝鮮の人も患者には多かった。
 私とは山口県医師会副会長の紹介で見合い結婚した。
  亡妻の妹(他家へ嫁いでいる)から2年前ぐらいに
聞いた話では、亡妻の父は晩年、ある医療過誤事件で悩み、石渡という男に1千万取られた。
  ある朝鮮の子供に投薬したら、神経症状が出たとしつこく、絡まれたとのこと。
石渡は日本名を名乗るが、在日朝鮮人だった。下関の医師は他にも個別に狙われたのではないかと思う。 なぜ医師会の顧問弁護士に依頼しなかったのか。 示談解決へ持ち込まれたのか。
 石渡とは医師渡り歩きの暗号ではないのか。 亡妻の父が80位で廃業して、膠原病で無くなり、亡妻の母も、その後、3年ぐらいで脳梗塞後なくなった。 亡妻が実家がゆすられていることを私になぜ言わなかったのか、.…(巧妙に内密化されたのか)。

  下関は漁港があり、李承晩ラインで銃撃され逃げ延びた穴だらけの白い船体が岸壁につながれていた。韓国は捕獲した漁船何隻で漁をしていた。

  S27ある朝、同級生と学校裏の霧の海岸の斜面で野イチゴを取りに行ったら、1隻の木造漁船から20人位、長靴を手に石ころの海岸に上陸していた。 彼らは黙黙と船べりから降りていた。
  先生には報告しなかった。密航という言葉も私は知らなかった。

 他の同級生は父親が漁船員だった。 中国でその父親は拿捕され、帰国できた。 帰国できる理由は、毛語録を暗記すること、日本国内で共産党に入ることという誓約書に署名することと彼から聞いた。 帰国の為には嘘でも宣誓誓約したとのこと。

  それらを見聞きしていたので、高校の一般社会という科目で、憲法を教わった時、特にその前文で「他国の公正と信義を信頼して武力によらない」というのがあったが、再軍備は必要と思った。 剣道クラブに入った。 当時は剣道部になれなかった。占領軍が武道は禁止で柔道、弓道だけが部になれて、生徒会の予算が付かなかった。 自衛隊員が夜間に通学していたが、それを反対すべきだという生徒もいた。 しかし、大多数の生徒は別に構わないではないか、という意見だった。
  確かに朝鮮学校はS25年頃廃止され、付近の小学校や中学に彼らは編入され、そこで日本語教育され、付いて行けず、配給も正式には受けられなかったのか、 S25頃、朝鮮半島が殆んど北になったとき、米の配給所に朝鮮のおばさんらが入り込み、米を手で救い上げ、ワーワー言っていたことがあった。 その横のうどん製造所が火事になり、通りかかったら消防に怒られた。消火区域は通行禁止なのだ。過去の清算とは私の年代では、少年時代の彼らのドスを教室の壁に投げるなど横暴から清算して欲しい。

町の市場では氷に上に犬が裁かれて乗っかっていた。
 日本人が彼らを先にいじめていたのだろうか。 中学の先生も引き揚げ者が多かった。
中には、彼の国では伝統的にナイフを携帯するのだ、と言う先生もいた。勿論ポケット検査が朝礼時行われるようになったことがある。 他中学での決闘殺人事件(日本人同士だったのかもしれない)以後のことだったが。

重金属は塩化水素水で煮れば塩化物になる。フッ化水素でもフッ化物になり、融点や沸点が大幅に下がる。ウラン235と238はフッ化物ににして、気体にすれば、比重が少しだけ違うので、遠心分離機で1万Gでもかければ分離濃縮できる。 洗濯機で脱水できるのと同じ原理だ。
  235は何キログラムかあれば、分裂を始める。100万分の1秒で何万度にもなる。
IAEAが 全土を把握できる筈がない。  鉱脈付近に地下秘密工場があれば衛星から見えない。
  希釈して平和利用するか、 そのまま武器にするか、 IAEAでも限界がある。
彼らをなだめるロシアが安保理で棄権したことは、 直接、日本を危機に曝してしまった。
 日本政府とブッシュの危機管理は、取り返しのつかない失敗をしでかした。
 

958.戦後コラボ  投稿者:濱崎和郎  投稿日:2007年 9月23日(日)01時02分32秒
  戦後、情報収集面で進駐軍に協力した日本人も多い。
父の手紙は家族当てでも封筒が開封され、当時日本には無かったセロテープで英語で「検閲済み」
の文字のようなものが印刷されていた。
またある商社の部長さんも官庁勤務して、電話盗聴もして、英語で2年ぐらい報告していたと言っていた。仏心鬼手で日本を良くしたかも知れないがパンパンコラボが自嘲本音だろう。
  私の父も随分、家族を養う為に、朝鮮戦争、ベトナム戦争でLST船長として協力したが、年金もなく、傭兵のような使い捨てだった。しかし、日本国民を裏切って苦しめる為のものでは無かった。 今国内は、老人やもめからも奪う過酷な政治が続いている。油補給隊はいい格好をしている。外面だけが良くて、内面は夜叉の顔です。 その手先(コラボ)になっているのも、家族の為だろう。同情する。
  ブッシュが米国民を代表するものではないし、経団連が日本国民の代表でもない。 米国の良心に期待したい。日本の敵はすぐ近く
の核です。シルクロードではない。ウラン鉱脈を持つ国が核を諦めるわけが無い。
 

957.(無題)  投稿者:英国駐在員  投稿日:2007年 9月20日(木)15時02分24秒
  博物館に交渉してみたいと思います。また結果をご連絡いたします。

 


956.コヒマ戦線での遺品  投稿者:32tm  投稿日:2007年 9月20日(木)13時11分43秒
  101.Re: コヒマ戦線の遺品
名前:管理者    日付:9月19日(水) 21時55分
川畑様、お知らせありがとうございました。

問題は博物館側が返還に応じるかどうかかと思います。もし先方から返還したいとの希望があり、私どもでもお手伝いできるのであれば、喜んでご協力いたしますので、お申し越しいただければ幸いです。 eaa1-ppp246.west.sannet.ne.jp (211.133.176.246)

英国駐在員様 上記の返答が掲示板にありました。ご苦労様ですがよろしくお願い致します
 

955.情報を本当にありがとうございます  投稿者:英国駐在員  投稿日:2007年 9月18日(火)06時12分18秒
  32tm様
情報を本当にありがとうございます。実はあの小さな日章旗に20人以上の整った毛筆の署名、どんな思いで書き綴られたのだろうと考えたり、美しい微笑んだ女性の写真、また和やかな家族の写真を、持ち主の方がどんなにいとおしく大切に持ってらっしゃたのだろうなどと思いをめぐらし、今日一日気になっておりまして、英国大使館の知り合いに連絡しようかと思っていました。あの博物館はとても小さな博物館なので、おそらくほとんど日本人は行かないのではないかとも思い、ますます気になっていたところでした。もし、西羽様の何かお手伝いができることがありましたら、博物館との交渉等、できるかどうかわかりませんが、微力ながらやってみたいと思います。ありがとうございました。
 

954.遺品の件、英国駐在員様  投稿者:32tm  投稿日:2007年 9月17日(月)18時12分12秒
  イギリスの博物館に遺品が展示されてあるのを発見されたとのこと、激戦地インパール北方の要衝コヒマはインパール同様の激戦地でした。
戦利品、記念品として英兵が持ち帰ったであろう日章旗もご家族の写真も博物館に大切に保存されて大事に取り扱われていたようで本当にラッキーでした。
 ご紹介します西羽潔様はボランティアで旧日本軍人の遺留品を探しご遺族に返還運動をされていてもう既にかなりの遺品をご遺族に返還されていますが戦後62年、もうそろそろ限界に近付き私たちビルマの戦友会関係者もぼつぼつ友の待つ冥府に旅立ちを急ぐ感がします。
 貴兄が、日本とかかわりの深い三浦按針祭りにかかわり渡英されて偶然博物館で遺品を見つけられたのも英霊がよび寄せられたのでしようか。 西羽様のメールアドレス次の通りです。
nishiha@rose.sannet.ne.jp

サイト「戦争を語り継ごう」「旧日本軍人の遺留品を探して元の持ち主に返しましよう」と広く呼びかけられています。下記にご連絡して下さい。

http://www.rose.sannet.ne.jp./nishiha/iryuhin/

よろしくお願い致します。
 

953.英国工兵博物館(ケント州)でみた遺品  投稿者:英国駐在員  投稿日:2007年 9月17日(月)01時26分5秒
  突然の書き込みを失礼いたします。英国に駐在している会社員です。先日、ケント州の英国工兵博物館を見学したところ、ビルマで戦死した日本兵の遺品として小さな日章旗(原口鉄夫、橋口伊七等のお名前が見えます。鮮明ではありませんが、デジカメで写真をとってきました。)とコヒマで戦死した日本兵の遺品として、奥様かお嬢様と思える女性の写真等が展示されていました。博物館では写真等の展示してもらい、実物はご家族の元にお返ししたほうがよいのではと思い、ご連絡させていただきました。デジカメの写真等、ご提供できます。博物館の名前は     Royal Engineers Museum and Libraryで、住所は Prince Arthur Road, Gillingham, Kent, ME4 4UG     Tel: 01634 822839     Web: www.remuseum.org.uk
です。不思議なことに、私は William Adams 祭り(有名な三浦 按針 徳川家康の外交顧問)に参加して(ちょうど博物館の隣の場所で開催されていたのですが)たまたまこの小さな博物館を発見して見学したところ、この日章旗とお写真を見つけたのです。このWilliam Adams 祭りも、とても小さなこじんまりしたお祭りで、でもこの小さなGillinghamの町の人たちはこの日本にゆかりの深い人を忘れずに、毎年このお祭りで、彼の功績をたたえているようです。
 

952.遺骨ー2  投稿者:濱崎和郎  投稿日:2007年 9月16日(日)01時05分13秒
  仏教の法事では何回忌と言って、坊さんを呼び、家族が集まる。
 その忌ごとに色々な地蔵菩薩が順に現われるようだ。49日でも次に生まれ変わる日であり、キリストも十字架で処刑された後、40日ほど地上で弟子達の前に現れ、説教を続け、天に登った。
 遺骨に意味は無いという人も居る。遺骨にこだわることは唯物論だろうか。「宗教はアヘンだ」と言ったレーニンは遺体をモスクワに保存させた。今ハワイでは3世4世が米本土に移動して、初代移民者の墓が荒れているともいう。
受験勉強では徒然草では兼好法師は「古き塚は鋤かれて田となりぬ」と言っている。
受験勉強で出る小林秀雄(文化勲章受賞)の「無情といふこと」は大江健三郎の「死者の奢り」に影響を与えていると思う。医学部の解剖用死体がホルマリン水のプールに浮かび、何も言わず、評価も定まっているが生きた人間はまだ何をするか解からないという文だった。高校時代読み、強烈な印象を受けた。  国文学者の折口信夫(釈超空)の文に墓の中の骨がカタコトと動きながら
何か語る場面もあった。シェークスピアは墓堀人が埋めようとする死体を前に語る言葉も似たようなものがあった。
  高校のそばには忠霊塔があった。忠霊塔は第1次大戦の死者だけを祀っているのだろうか。
私の居る四日市北部のY市民センターは19町あり、住民は13,000人で70歳以上は1650人で12%(男5%女7%)である。 忠魂碑など所々の古い道沿いにあり、花が添えられていることがある。日露戦争の犠牲者を祀ってあるのかと思う。神社には軍人勅諭(明治時代制定)の石碑が残っている。
  正月のしめ縄をそこに納める。ゴミには出せない。
私の母方の祖父の墓は横浜市保土ヶ谷の寺にあり、逓信省の海底電線敷設船と共に撃沈されて石垣島付近で海底に沈み、納まっていないが、住職が境内を清掃してくれている。私は先月、従妹と花を供えた。外地で亡くなったのは戦死者が圧倒的に多いが、平時の死者は骨を埋めているのだと思う。 イスラエルの紛争はパレスチナ人の墓地にユダヤ人右翼が足を踏み入れ、
墓地の下に地下鉄を通すということで対立が激化してからではないかと思う。
  グローバル化の現代でも人間の相互理解が不可欠だと思う。
 

951.遺骨  投稿者:濱崎和郎  投稿日:2007年 9月13日(木)00時35分10秒
  死者を弔うのは生者の義務です。天の理です。死者は物言わぬから、死後の世界は無いという人は奢っている。死者は私達を何処からか眺めているのです。
  父は駆船艇「はやぶさ」で船団護衛をしていたときがあった。帰国船団の一部が帰途、魚雷攻撃で撃沈された。米潜水艦を追いかけたあと、波間に浮かぶ遺骨箱を拾った。 国内司令部から
到着遅れを叱られ、「そのようなものは拾わなくて良い」との指示を受けた。
   しかし、私はそれで父は助かったのではないかと思う。 逃げた潜水艦は船団の次の予定地点を報告しただろう。そのような宗教行事を戦争中、軍人がする筈がないとして計算し、次の攻撃
地点を割り出していただろう。 父は門司と台湾高雄間を護衛する時は一睡もしなかった。見張りを殴ってでも海面の水雷の航跡泡を発見させて、回避し、敵潜水艦を追跡していた。
沈没船の乗組員をロープを垂らして拾い上げていた。「ロープに捕まリ切らない人の助けを求める声が耳底に残っている」とも戦後言っていた。 日本郵船から護衛の指定を受けたのが自慢だった。 高雄では一晩グッスリ眠るのが成功の鍵だった。ところが司令部は、最後の頃、到着後すぐUターンさせようとした。父は「睡眠は大切」と命令に逆らわないように、訴えたと言っていた。

   今米兵の遺体帰国はは沖縄経由だろうか、ガム島経由だろうか。ベトナム戦争の頃は座間経由だったと思う。観光バスのガイドが「あの黒いバスがいたい搬送バスです」と埼玉から大磯、冨士五湖旅行の時に案内した。上野のアメ横では米軍の中古寝袋が売られていた。安いのには血がついていたと早稲田の学生が社会人になって、ベトナム戦争終了後に聞いた。
  朝鮮戦争では、遺体はLSTで北九州に送られ、学生アルバイトなど使って、ゴムの袋に詰め替えていた。アルバイト料は高いという噂だった。手足など揃えて、そこから米本土に空輸されていたようだ。 小倉と門司の中間の山にはメモリアルクロスの大きい十字架が立っていた。釜山から帰還する兵達に見せる為だったのかもしれない。今は撤去されている。沖合いの島の上で米軍は急降下訓練をしていて、超音速の衝撃波が海面に当り、ドカンと言う音が度々していた。
  北朝鮮が釜山近くまで米軍を追い詰めていた。 下関の朝鮮部落周辺ではアジ演説が夜、朝鮮語で行われ、交番が焼き討ちされることもあった。私は教会に通い、その途中で、黒く焼けた跡を目撃した。何十台ものMPが部落を包囲していたこともあった。首謀者は山口の刑務所に連れて行かれたようだ。 通学時待たされる踏切りで米兵達が白線入りの国鉄列車で、九州に向かっていた。1等車(今はグリーン車)はブルーの線が入っていた。2等車は何色だったか忘れました。米兵達は窓を開け、本当の白人ではないような感じだった。
  ベトナム戦争たけなわの頃、米兵死者数はカリフォルニア州の交通事故死者数より少ないと宣伝されていた。マクナマラという数学や経済が得意な人がジョンソン大統領に任命されていた。
  今回の13万人の米司令官の議会証言が嘘であることが英国資料かブルックリンとか何か、日本の新聞で紹介されていた。  軍人は嘘を言う。現地に行っていない人間にはばれないだろうと虚言を発表している。  しかし死者は何らかの形で、物を言ってくる。
軍人でも死後の世界があると解かっているくせに。  メンツが大切なのだ。
  彼らに巻き込まれるのはごめんだ。東南アジアからバングラデシュ(もと東パキスタン)まで
貿易決済で信用できる銀行は華僑系なのだ。 中国が国連で反対した理由だ。国際社会から高い評価を受けているというが、中国はそれには入っていないはずだ。 狭い国際社会で日本政府は判断している。  私は給油続行は反対です。 日本の第2次大戦での東南アジア戦死者たちもじっと見ていると思う。 極東日本が騙されて中東まで給油していることを。そして儲けている会社もあることを。  日本国内の霊魂たちも私達に働きかけているのではなかろうか。
 

950.菊師団 遺族会について  投稿者:77F里子  投稿日:2007年 9月 8日(土)09時41分50秒
  突然の書き込み失礼します。私は丸茂と申します。こちらの体験記は興味深く拝見させていただいております。教えていただきたい情報があり投稿しました。
2006年にミャンマーのメイミョーを訪れた際に、地元の知人から菊師団で戦死された日本兵のご家族が墓参りをされた際に掛けられたと思われます墓にかける布(お父様の所属師団名(菊)、名前とお嬢さんの名前が書かれたもの)を託されました。おそらく近くのお寺がメイミョーで戦死された方を供養されており、そこから飛んできたのではないかと思います。地元で訪ね、2〜3箇所の僧院を訪ねましたが、場所が分かりませんでした。ご家族に戻すよりも、お寺に戻した方がいいのかと自分で判断しております。どなたかメイミョーでの戦死者の永代供養をされているお寺もしくは僧院をご存知の方はお教えねがえないでしょうか?また私の考え方が間違っているのならご指摘をお願いします。勝手なお尋ねで恐縮します。よろしくお願いします。
 

949.丸8年  投稿者:窪田やよい  投稿日:2007年 9月 1日(土)11時47分40秒
  藤原さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
お蔭様で当サイトは99年にアップし今年で丸8年が経ちました。
その間訪問者数も増え続け掲示板にも貴重なご意見を多数いただき、感謝いたしております。
ちょっと過去の記録を読み返してみたのですが本当にすごいです。
膨大な量ですが是非ご一読くださるようお勧めします。
 

948.体験記拝見させてもらいました。  投稿者:藤原  投稿日:2007年 8月30日(木)15時56分23秒
  どうも。体験記拝見させてもらいました。
自分は29歳の男で戦争に関連する体験は全くありません。
そんな自分がここのような体験記を拝見し、擬似体験として戦争に触れる貴重な経験をさせていただいたと思います。
資料の数字では知りえない生の情報は大変貴重です。これからも長く続けてください。
 

947.新盆  投稿者:窪田幸唯  投稿日:2007年 8月15日(水)15時15分52秒
  このHPの口述人である窪田孝之助の新盆を迎えました。故人の従兄弟に当たる方の話を聞くこともできました。戦争末期に輸送船で中国から南方に移動中、二度沈められ生き残った話です。戦争体験者は高齢です。様々な立場での体験談が世に残っていくことが大事だと思ったしだいです。本日は終戦の日(敗戦記念日)。当HPへの来場者も異様に多くなっています。
午前中NHKでルバング島の小野田さんのインタビュー番組をやってました。とても頭の良い根性の座った方という印象です。逆にインタビュアーが「なぜ兵役拒否をしなかったのか」というピントの外れた問いかけが馬鹿げて見えました。

 


946.米国  投稿者:濱崎和郎  投稿日:2007年 8月11日(土)20時23分6秒
  私は今、ビールを飲んでいます。
冗談としてお聞きください。
   フセインはクエートを攻撃したのは悪い。クエートが大きなポンプでイラクの地下原油まで吸い上げるのをやめなかった。
   資源収奪において、国境は何処にあるのか。住宅地のように地表だけか。

アフガンはシルクロードの一部だ。仏像を壊したタリバンは悪い。中国の文化大革命は悪い。ポルポトも悪い。パリで共産理論を学んだ。それをアジアの農村で実現しようと大量殺戮した。

しかし、米国が殺したベトナム人の数より少ない。

米国は戦後最大の殺人国家だ。十字軍と称して、人道に反する、最大の殺人国家ではないかと思う。米国人の犠牲も大きいが、米国に殺されたアジア人は何百万人だろうか。統計もない。

日本は古来シルクロードで文明を吸収してきた。 その民族をロシアやアメリカが殺し、理屈をつける。 もうごめんだ。

なぜアメリカは回教徒と仲良く通商できないのか。仏教や神道の日本人からは想像できない。
テロリストはアメリカが作り出しているのではないか。

人類は兄弟ではないか。ヘッジファンドよ、郵貯までねらうのか。ヘッジファンドよ、米軍維持費を負担せよ。アジアの金融危機はあなた方が作ったのではないか。グローバル化は格差社会のことだ。 ヘッジファンドよアジアから手を引け。 平和を乱してくれるな。
 

945.第49師団を調べるに  投稿者:やちよ  投稿日:2007年 8月11日(土)01時12分57秒
   またお邪魔します。

 ミャンマー(旧ビルマ)へ派遣された第49師団については、まず

 まず、『戦史叢書 イラワジ会戦』『戦史叢書 シッタン・明号作戦』 防衛庁研修所戦史室 朝雲新聞社 というわが国の公刊戦史をご覧になられてはいかがでしょうか。県立図書館など公立の規模の大きな施設には収めらてあると思いますので、電話で尋ねてみてください。

 つぎに、旧日本軍の師団という組織は、戦争遂行上の戦略単位(単独で一作戦が行える)だったので、さまざまな種類の部隊で構成されています。そこで、まず調べるには、出身地や階級、どういう兵種でなんという番号の部隊だったか、などが調べる基本的な手がかりとなります。

 この師団の場合、大部は韓国の京城(ソウル)郊外の龍山という場所で編成され、北九州や関西などの出身者にくわえ半島出身者によって構成されていました。

 簡単に同師団の編制について略記しておきます。何かの参考になれば幸いです。

 第49師団司令部=(狼18701部隊) 終戦時はビルマ国、マルタバン湾東岸タトン県タトン

 歩兵第106連隊=(狼18702部隊) 終戦時はタトン、一部はパプン(モーチ山系の峠をタトン方向へ下りた街)

 歩兵第153連隊=(狼18703部隊) 終戦時はタトン

 歩兵第168連隊=(狼18704部隊)

 騎兵第49連隊=(狼18705部隊) 騎兵といっても主に装甲車編制の部隊

 山砲兵第49連隊=(狼18706部隊) 終戦時は殆ど砲を失っていた

 工兵第49連隊=(狼18707部隊)

 第49師団通信隊=(狼18708部隊) 師団司令部と同行動 タトン

 輜重兵第49連隊=(狼18709部隊) トラックを使って輸送する部隊 タトン

 第49師団兵器勤務隊=(狼18710部隊) 主に兵器の修理を行う部隊

 第49師団衛生隊=(狼18711部隊) 負傷兵を野戦病院まで搬送する

 第49師団第1野戦病院=(狼18712部隊) 京城陸軍病院で編成 タトン

 第49師団第2野戦病院=(狼18713部隊) 福岡県久留米で編成 終戦時はタトン県キンムンジョン

 第49師団第4野戦病院=(狼18714部隊) この部隊は姫路編成 タトン

 第49師団病馬廠=(狼18715部隊) 平壌で編成 軍馬の病院 廠長は獣医大尉

 第49師団防疫給水部=(狼18716部隊) 河川や湖沼の水を浄水して補給する 部長は軍医大尉
 

944.皆様に感謝  投稿者:窪田やよい  投稿日:2007年 8月 3日(金)17時14分35秒
  8月に入った途端に訪問者数がすごく多くなっています。感謝です。
遅くなりましたが、1940さん、書き込みありがとうございます。
私自身、戦争のことについてはよく知りません。
父の体験したことも認識していることも本サイトに掲載したものがすべてです。
当掲示板に皆様から寄せていただく感想や情報が貴重な財産となっております。
今後もよろしくお願いいたします。
 

943.米国の遺族への謝罪  投稿者:濱崎和郎  投稿日:2007年 8月 3日(金)13時21分55秒
  私の父がGF2F、11駆潜隊、第8号駆潜艇で米潜水艦を撃沈し、多数の人を殺したことは私のトラウマである。聞き覚えではコパネスと言う名だったそうである。飛行機がまず攻撃して、油膜がかすかに海面にあり、潜水艦速度を計算して、爆雷を碁盤目のように投下したそうです。日本の潜水艦より、速度が速いので、大きめにばら撒いたそうです。潜水艦名をどうやって知ったのか聞いてない。
  マッカーサーはそれに乗っていなかった。  彼は家族ともマニラの司令部から高速ボートで夜明け前
オーストラリアへ脱出した。彼の部下2万名はコレヒドールで捕虜になり、バターン死の行軍となったのではないかと思う。  彼の自伝にはその時の恐怖が書かれている。日本海軍は彼を袋のネズミにしていたのです。しかし、まだ甘かった。 佐伯では豊後水道に水中マイクロフォンを設置して、米潜水艦の瀬戸内海侵入を防止していた。防潜網は垣根のように仕掛けられていた。
それに触れて沈没した米潜水艦もあるだろう。戦後読んだ米側の本では、「豊後ピドーが潜水艦からのゴミを拾って、察知していた」とあったが、それは無かった。 マイクロフォンの音は渦の音など雑音も多かった。水産講習所の教授は、グチという魚の交尾期のメスを呼ぶ声かもしれないと
鑑定した。  ビルマ戦線でも英軍はジャングルにマイクロフォンを設置して、日本軍の突撃を察知したと何かの本には出ていた。  南洋諸島でもポートモレスビーあたりでもマイクロフォンで察知していたとも別の本であり、地震予知みたいに、事前察知されたのだ。今なら衛星でイラク兵の砂漠軍団はピンポイント攻撃された。ジャングルや地下、都市部の建築物での移動はカーナビと同じく見つからない。 近代戦はモグラ陸軍になり、地下鉄で戦車を移動する時代が来るのではないか。 潜水艦もサメのように、海で動き回るだろう。電波は水中では伝わらない。
米軍は第2次大戦で100万人が死に、450人に1人死亡、日本は45人に1人死亡とも聞くが、
   父は終戦時、舞鶴で駆逐艦「柿」艦長で、他に「楠」「雄竹」の艦長も兼任(艦長不足)し、岬で緑の木でカモフラージュして爆撃をまぬかれたが終戦となり、最後の突撃のため佐世保集結したが中止となり、武装解除して、柿司令部からの命令により書類焼却した。
 

942.戦争体験  投稿者:濱崎和郎  投稿日:2007年 8月 1日(水)00時58分50秒
  最近の政治家にも戦争体験がない人が増えていrます。私は佐伯市で爆弾が3軒隣の家に落ち、自宅(借家)ガラスがめちゃめちゃに割れて、落ちた所に行ったらすり鉢のような穴が開いていた。
転居した家も機銃が打ち込まれ、タンスが割れ、疎開先では半分下だけ使った。空襲サイレンでも2種類あり、遠い時は普通のサイレン、近くの場合は波打つサイレンだったし、防空壕に逃げるがサイレンが間に合わない時は押入れに入り、布団を被った、弟と喧嘩することもあった。
  母方の祖父は石垣島付近で船が撃沈され死亡、父は戦後着てみたら、駆潜艇で米国潜水艦をマニラ湾で撃沈していた。ほかでも撃沈しているかもしれない。戦後は対馬水道掃海し、その後戦犯になった。  学校の先生も軍隊のことなど、時どき話してくれた。軍隊経験のない人のほうが少ない時代だった。虫けらのように人が殺される。アヒルの羽より、命は軽いと言われたそうだ。
またある飛行機通信士は3尺地上から浮いたら、消耗品と言われたそうだ。また、敵艦に突入する時より、通り過ぎて逃げる時に打ち落とされるとも聞いた。
 死とはそんなに怖くないものだろうか。 死の1秒前でも飛行機を操縦できるのです。
少年の頃はそれに憧れたときもあった。しかしゴジラの足音のように爆弾の音が近ずく怖さは今の政治家は知らないだろうし、大河ドラマのように敵を見ながら殺しあうことは近代戦ではないだろう。
人間は何時の時代も殺し合いをしてきた。1秒前までは死なないと思っているから、それからのがれることは難しいのではないか。
 

941.体験記を読んでー2  投稿者:  投稿日:2007年 7月24日(火)20時08分36秒
  (すみません。パソコンの操作ミスで書き出しだけで送信してしまいました。)私は1940年生まれ、67歳になります。「インパール作戦」を検索しこのホームページにたどり着きました。、昨年リタイヤしたのですが、更にその数年前に古本屋で太平洋戦争の戦記本を
数冊買って、読まずに本棚に乗せたままでした。リタイヤしてゆっくり読書の時間が持てるようになり、その数冊の中の一冊「自決命令」と言う同じくインパール作戦の体験記が書かれた本でした。今まで恥ずかしいながら「ビルマ戦線:インパール作戦」については上っ面しか知らず詳細については勉強していませんでした。前述の「自決命令」を読んで、更に詳しく知りたいと思い、インターネットのお世話になり、窪田様のホームページに出会えました。すでにご存知のことと思いますがこの「自決命令」の著者 黒岩正幸氏がアラカン山系から命からがら意識も朦朧で退却し、収容されたのが昭和19年9月2日、そこで記述は終わっています。ご尊父様の体験記はこの後を引き継ぎ、迫り来る英印軍と交戦されているようです。長い文面になってしまいまいますので、結論はインパール作戦に突入した昭和19年3月初旬から終戦までの一年5ヶ月、いろいろな方の体験記から年表的に拾い出し、且つ
地図の上でその撤退路、逃避行であったと思いますがその道程を調べたらそれなりに、自分なりに、全体像がもう少し解ってくると思いまして、キーボードに向かった次第です。
この無謀な戦い、日本陸軍が自ら作り出したこの世の惨状、深い悲しみと苦しみの中、非業の最期をとげた兵士の方々を思う時、どこへこの憤りをぶつけたらいいのかと言う気持ちです。
29日は参院の選挙です。「冗談ではないですよ、静かにしていなさい。」と申し上げたい人が立候補しています。東京ですが・・・この辺で。ありがとうございました。又時折お便りさせて頂きます。敬具
 

940.体験記を読んで  投稿者:1940  投稿日:2007年 7月24日(火)19時01分35秒
  窪田様 初めてお便りもうしあげます。御尊父様の書き残された貴重な戦争体験記を読ませて頂き、感動しご尊父様の体験されたあの無謀な戦い「インパール作戦」の一部、且つその詳細を知ることが出来ました。ご尊父様に合掌。  

939.32tmさん、窪田さん  投稿者:kamikaze  投稿日:2007年 7月22日(日)01時01分33秒
  ありがとうございます。はっきりとはわからないので少しいろんな資料を探して見てみます。
昔、子供の頃に見た記憶だけだったので・・・今もその資料が残っているかもわからない状態です。とりあえず探してみます。
 

938.慰霊法要  投稿者:32tm  投稿日:2007年 7月19日(木)20時27分45秒
  窪田様 慰霊大法要はビルマから生還できた私達生存者が出来得るただ一つのお努めと心しております。今回も悪天候で減ったとは申せ、生き残り戦友、ご遺族、160名がミヤンマー国大使をお迎えしての大法要でした。
また今後どの様な事があつても毎年七月の第3日曜日にはこの慰霊祭を続けるよう一同心新たにしております。

Kamikazeさん 狼部隊の戦友会の連絡先は宝塚市に現存しています。
49師団のうちメークテーラ奪回戦にはソール(京城)編成の狼歩兵106連隊と同じくソール編成狼歩兵168連隊が参加しています。
狼歩兵153連隊はビルマの油田地帯エナンジョン方面で戦闘に加わり、策集団の一部隊として撤退が遅れて終戦までシッタン方面で苦戦していたと聞きました。

戦死された伯父様の部隊、戦死の月日が解れば解決は早いでしよう。
 

937.32tmさん  投稿者:窪田やよい  投稿日:2007年 7月17日(火)22時13分45秒
  32tmさん
慰霊大法要、ご苦労様でした。ちょうど台風とぶつかってしまいましたね。
でも無事終えられたとのこと、なによりでした。大変な状況下にも関わらず遂行してくださるお気持ちに頭の下がるおもいです。

 


936.kamikazeさん  投稿者:窪田やよい  投稿日:2007年 7月17日(火)22時03分39秒
  kamikazeさん ご訪問&書き込みありがとうございます。

当サイトが少しでもお役に立ててうれしいです。
「狼」部隊はよく知られているのでもっと詳しい情報が得られるのではないでしょうか。
お詳しい方、32tmさん、とか、やちよさん、何か情報をいただけるとありがたいです。
よろしくお願いいたします。
 

935.有難うございました。  投稿者:32tm  投稿日:2007年 7月15日(日)22時37分32秒
  窪田様

今年も長期間に亘り掲示板をお借りいたし有難うございました。

台風4号の襲来で危ぶまれました慰霊大法要が無事に終えることができました。

八十歳を過ぎた戦友たちに混じり2世3世の若い人達が来院して下さいます。この灯は消えること無く続くでしよう。
 

934.こんばんは  投稿者:kamikaze  投稿日:2007年 7月14日(土)23時36分51秒
  はじめまして、いろいろ見て回っててここにたどり着きました。
私の伯父さんがビルマで戦死しているのを、子供のころに父母や祖母に聞いていました。
49師団の狼とゆう部隊にいたそうです。たしかラングーンとかメークテーラとかゆう
とこで野戦で切り込み体長でつっこんで行ったらしいです。(さだかではないですが)
しかしいろいろと49師団のことを探しても中々詳しいことがわかりませんでした。
ここで、すこし読んで見て、ほんの少しだけ知ることができました。
ありがとうございます。
 

933.アクセス量  投稿者:窪田  投稿日:2007年 7月 4日(水)14時22分21秒
  本日のアクセス量が異常の多くなっています。普段100アクセス程度のところが300以上。  

932.ビルマ関係戦没者・物故者供養  投稿者:32tm  投稿日:2007年 6月21日(木)11時13分11秒
  窪田様 勝手ながら掲示板をお借り致し、本年も下記の高野山慰霊大法要の案内することをどうかお許し下さい。

第四十二回ビルマ方面戦没者並びに物故者慰霊大法要が来る七月十五日(日)十時二十分より高野山魔尼宝塔にて御英霊と物故者の慰霊法要が監修されます。お誘い合せて御参詣下さい。

前日(十四日)より宿泊希望の方は一泊三食、一万二千円(参加費含む)
法要当日の参拝者は参加費(昼食込み)三千円。 詳しくは高野山、成福院(じょうふくいん)へ 電話 0736-56-2109  FAX 0736-56-3475へ お問い合わせ下さい。

当日は全国から各部隊の生存者、ご遺族の方たちが参集されます。戦後六十二年を経て尚父が兄がどこで、どのようにと尋ねられるご遺族のご心情に我々生存者はたとえ僅かな手がかりもお答えできればと思います。

(特記)
御参詣申込みの振替払込票に出来る限り各自ご承知の部隊名(通称名よりも出来る限り固有部隊名)を記入して下さい
 

931.ソ連侵入  投稿者:濱崎和郎  投稿日:2007年 6月 1日(金)23時45分58秒
  ソ連は二つの原爆の中間で不可侵条約自動延長期間に違反して、侵攻してきた。日露戦争で取られた所を奪い返す目的と、彼らの根底にある南への領土拡大本能と社会主義拡大目的と、ヤルタ協定での連帯約束遂行があった。 独ソ戦で勝利し、シベリア鉄道で戦車、兵員を東へ移動させた。
日本は戦争の欧米との和平交渉を、不可侵条約を結んでいるソ連に仲介してもらう努力をしていたが、それはモロトフとスターリンに握りつぶされ、狼に餌のありかを教えているようなものだった。  ソ連の動向を知った米国は焦り、2発目の原爆を小倉が雲に覆われていたので、長崎に慌てて投下した。  日本の関東軍は不可侵条約があるからと手薄であり、瞬く間に蹂躙された。
 ソ連兵は日本人から奪った時計を腕に2つも3つもしていた。昼間でも公道で輪になって、他にみえないよう取り囲み、女性を順番に集団レイプした。女性は手りゅう弾で自決した。
  男達は国に帰らせるといって貨物車に乗せた。 しかし、北極星に近づくので、騙されたと気付いた。 国に帰る(ダモイ)が日本人の合言葉だった。シベリアを開発する労働力とみなした。
 階級は関係なく、大工が重宝された。マイナス20℃(マロード)になれば、労働はしないという
ソ連の習慣が適用された。通常はトラックも夜中中エンジンをかけっぱなしにして、ラジエーター
が凍りつかないようにした。ソ連兵は白金カイロを持っていた。 病気の日本人はご飯に白い粉をかけられて、別の場所に移動させられた。健康診断は行なわれて、仮病か判断された。
衣服は日本軍時代のままだった。後はソルジェーにチンの収容所列島と言う本とそっくりです。
  以上私が聞いた話です。
 

930.書き込みありがとうございます  投稿者:窪田幸唯  投稿日:2007年 6月 1日(金)23時06分49秒
  横井さん 思うところを書きつづっていただき感謝です
私は横井さんと同年輩、今年51です。
子供の頃父のシベリア抑留の話を聞きました。楽しい思い出ではないはずなのに、ちょっと楽しげに、その当時仲間と一緒に過ごしたこと、いかに当時のソ連がに物資がなかったかなんていう話を折りに触れて聞きました。ソ連は心底嫌いでしたが、私といった大阪万博のソ連パビリオンの前で悪態を結局つけずじまいでした。
10年前くらいにようやく終戦直後の満州にソ連が入ってきての悪逆非道の話は始めて聞きました。大人相手でないと伝えられない内容でした。勝てば官軍。負ければ賊軍ということと教えられました。
 

929.横井さん  投稿者:窪田やよい  投稿日:2007年 6月 1日(金)17時36分52秒
  横井さん ご訪問&書き込みありがとうございます。

心温まる記述をいただきとてもうれしいです。
昔の兵隊さんのことを思うと本当に涙が出てしまいますね。
 

928.やちよさん  投稿者:窪田やよい  投稿日:2007年 6月 1日(金)17時33分11秒
  やちよさん ご訪問&書き込みありがとうございます。

随分とお詳しいのですね。びっくりです。こういう生き字引みたいな方がいらっしゃることはとても尊いことだと思います。
妹尾さん、みてくださっているといいのですが・・・。
 

927.父を思い出して  投稿者:横井  投稿日:2007年 5月31日(木)17時53分43秒
  私の父も同じ戦場で戦い捕虜となりました。戦争の体験を語ることは非常に少なかったけど私が二十歳になった頃、ぽつりぽつりと思い出話をしてくれました。主に命拾いした話と食べ物が無く半年も竹の子を食べて下痢をしながらも行軍した話なんかを、また戦友の死の辛さなんかを、生きて帰れたのも陽気で冗談の好きな父だったからでしょう。大和魂と言うかその精神力にはただただ関心します。残念ながら私が大学2年の初めに心臓麻痺で56歳の生涯を終えました。戦場で青春を過ごした体はぼろぼろだったのでしょう。今、父の面影を思うと涙がこぼれてきます。今の平和が続くよう戦没された人々に心より感謝いたします。
私も51歳となり息子と二人の娘の父親です。偶然このHPに出会ってとてもうれしかった。
ありがとうございます。

 


926.妹尾さんへ  投稿者:やちよ  投稿日:2007年 5月13日(日)04時44分5秒
   はじめまして

 「野戦輸送司令部」で検索していたら、偶然この掲示板へ入ってきました。

 「姫路歩兵第46連隊」ということですが、それは「中部第46部隊」(この通称号は平時編制や補充部隊に附されたもの)のことでしょう。中部46部隊というのは姫路の「歩兵第111連隊」(連隊が南方へ出発後は、歩兵第111連隊補充隊となった)の番号ですから。

 おそらくあなたの伯父様は、第54師団が平時編制のときに在隊していたか、ジャワ島出発に際して戦時編制へと動員されたときに召集されたか、師団が出発した後に補充要員として徴兵あるいは召集されて出征されたのだと推測されます。
 同連隊は、43年3月7日に動員を完結し、4月8日にジャワ島ジャカルタへ上陸。東部ジャワの警備にあたり44年1月にビルマへ派遣されました。(戦時編制になると同時に通称号は「兵第10112部隊」となった)

 ちなみに「歩兵第46連隊」というのは大村(長崎県)の連隊です。

 もし、歩兵第111連隊の一員としてビルマ方面で戦闘に参加され、45年4月18日に戦没されたのが正確であるなら、アラカン山系の南西端タマンド〜アン地区の軍道路付近の戦闘で亡くなられたかも知れません。当時同連隊の主力は、タマンドにおいて2月11日から4月9日まで、またその南のレモウ、アンにおいて4月5日から15日まで来襲してきた敵の第82西アフリカ師団に対して邀撃戦を行っていました。両戦闘による日本軍(第54師団各部隊あわせて)の戦没者は約560名でした。
 

925.濱崎さん  投稿者:窪田やよい  投稿日:2007年 5月 7日(月)13時54分27秒
  詳細な記述ありがとうございます。
やはり実際に体験した方のお話は一般に聞かされている話とは異なり生々しく迫るものがありますね。
戦争のことについては、平和な時代の私たちが判断すると誤る部分があるのではないかと思います。九条改正の動きなどもあるようですがどうなるでしょうか。国民的に盛り上がっているとは思えませんが。
 

924.森さん  投稿者:窪田やよい  投稿日:2007年 5月 7日(月)13時40分31秒
  「つづき」待ってました。興味深く読ませていただきました。
阪神淡路震災の当時、連日終日報道されており画面から送られる映像やコメントを涙ぐみながら眺めていたものです。しかしそこから伝わる情報はほんの一部でしかないのですね。それぞれに様々なドラマがあったことでしょう。非常事態時の人間は案外強いものなのかもしれませんね。それは実際に経験した者でなければわからないものなのだと思います。
非日常を楽しく感じる(!ホント不謹慎ですみません)というのもなんとなくわかる気がします。
大変な被害を受けたことと思いますがご無事でなによりでした。
興味深いお話を寄せていただきまして本当にありがとうございました。
 

923.つづき  投稿者:  投稿日:2007年 5月 7日(月)00時25分5秒
  遅くなりましてすみません。続きを書かせていただきます。

そののち、当時大学のサッカーサークルの連中も友人宅に集まってきてお互いの無事を確認して喜んでおりました。
それぞれ解散して自宅に帰ろうとした折に、中年のおじさんから「兄ちゃん達ちょっと手伝ってくれへんか!」と生き埋めになっている方達の掘り返しを依頼されました。

最初は気軽に「いいですよ〜」と答えたものの実際作業にはじめますと道具がなく、また余震があり、どこに埋まっているかも皆目検討がつきませんで大変でしたが、埋まっているご夫婦の声がするので自然と皆必死になって掘り返し作業にかかっていました。

今から考えると大変不謹慎なのですが、作業を交代でやっておりまして作業の合間の待ち時間が普段の日常と異なり不思議な時間だったと思います。
わかりずらいですが、なんとなくご尊父の体験談を読んでおりますと、非日常の不思議な時間という意味でなぜか共感を覚えた次第でございます。
お気に触りましたらごめんなさい。
 

922.水と洋子のこと  投稿者:濱崎和郎  投稿日:2007年 4月28日(土)23時37分55秒
  震災のドサクサは阪神地区でも2年ぐらいあったのではないでしょうか。同じように戦後の混乱は戦争中より酷かったのは住宅や食糧などで、母も物資不足は戦後のほうがひどかったといっていた。また、戦争の時は内部から士気を落すのも作戦の内であり、弱いもの、民間の戦意喪失を狙って攻撃するのが、近代戦争です。ヒトラーも軍事と無関係のロンドンをV2ロケット攻撃した。
軍も家族などの内側から泣き付かれると敵から攻撃されるより、士気が下がる。
 衣食住が乏しくなり、生命が脅かされる。軍事施設を狙うと返り討ちに会いやすい。
軍艦を狙うより、輸送船を狙え、となる。真珠湾攻撃は軍艦ばかり狙ったが、石油タンクや造船所、港湾や、水道施設、発電所、放送施設など破壊すべきだった。山本五十六、東條英機も東北の出身で純朴な正義感を持ち、悪人になりきれなかった。織田信長のように比叡山を焼く、浅井のしゃれこうべで酒を飲んで見せるような悪魔に心底徹しきれなかった。ローマ法王が中世、フローレンスのメジチ家を滅ぼす為、作戦として刺客を送って成功するようなこともできなかった。
 阪神地震に戻りますが、水で日本国民は困った。井戸水は畑のそばにあり、回虫が湧いた。
疥癬という皮膚病になった。兵隊は火薬よりもジャングルで蚊や飢えによって死んだ。
戦後私は農家で風呂に入った。3軒に2軒は五右衛門風呂の釜を供出した。風呂に入る順番は焚いた家族、次は持ち主、電灯の無い暗い中で、薪のそばでお互い農作業の話などした。
ある時、部落のボスのわりと若い奥さんがウンチが浮いていると騒ぎ出し、冬にタンゼンを引っ掛けて、別の家の風呂へ移動した。暗闇で別に恥ずかしくはない。幼児がウンチを風呂の中でしたのだろう。私はある時春菊の葉をかじりたくなり、3枚ぐらいかじった。その翌日大量の回虫が大便に雑じっていた。母屋の未亡人はお光さんを信仰するようになり、母も引き込まれた。皮膚から膿がでる疥癬は罪の毒が外にでるので、身体は清くなるのだと言う信仰宗教がはやり、手をかざすと
熱く感じて、霊により治るが、始めは膿を出さないといけない、お守りはこれで、幾らかの金額で買わなければならないとの宗旨である。父が造船所から汽車で帰宅したとき母をしかった。やめよと。また「マ」の名がつく木は切らないといけない、例えば「まさき」が家の周りにあってはいけない。とも私は母屋の囲炉裏で説教師の男がいうのを聞いた。部落の顔役は、普請で部落民を奉仕活動で堤防工事をさせた。父はそれにも参加しなかった。顔役の家には集団移動する朝鮮人を宿泊させた。イモを畑の側で地下貯蔵しているのを、彼らは食糧のため空になるほど盗んでしまうので農家は嫌っていた。それを宿泊させたのだ。あるとき風呂のそばで、大工と顔役が喧嘩になった。
大工も海軍の船大工だったようだが、戦後、住み着き、私と同学年の女の子と生活していた。小学校3年で私は父の勤務する造船所のある下関へ引っ越した。谷川から竹の筒を引いてパイプにして飲料水を引いていた。井戸を使わせてもらえなかったのかも。母親はいなかったようだ。大工が負けずに口喧嘩で、最後に「お前なんか殺してやる」と言った。顔役は「何にい、殺すなら殺せ」と何度も片肌脱いで大声でいきり立った。大人の喧嘩は凄いと思った。洋子はそのうち大きくなって都会で働き出したが、随分惨めなことになったと10年以上たって学生だった私が世話になった母屋の人に聞いた。(港の洋子、横浜の歌に似ている?)大工は私が父が造船所で作ってもらった木造船のオモチャ2ヶ、ペンキが灰色と船底は赤のを見て、しきりに眺め、誰にどうして作ってもらったのだと聞いていた。ほんとにあの洋子はどうなったのだろう。学芸会の準備で部落で夜持ち回りで歌や朗読を順繰りにやっていき、帰りは墓地が怖くて、古い外套を頭から被り、火の玉や、白い幽霊が見えないように走って母の所に帰っていた部落だった。私は「お猿の裁判」という芝居でお猿役で、虎を騙してまた落とし穴に落として、「めでたしめでたし」という裁判官の役目だった。夏の夜は蛍が草に多く、瞬かないのは蛇の目だと教えられていた。スイートピーの花もきれいだった。ジャックと豆の木のように空まで伸びるのかと思った。炭焼き釜の側で蒸し焼きの煙を見ながら岩魚を釣ったのも思い出だ。燃料は木炭だった。ガスはなく、バスも木炭バスだった。囲炉裏かどこかに種火を常に生めておくのだった。洋子ももう67歳だろうが、どうしているだろうか。これを書いて、ふと思った。 草々
 

921.(無題)  投稿者:  投稿日:2007年 4月28日(土)13時54分24秒
  お気にさわりましたらすいません。まずインパール作戦で大勢の日本人が亡くなられたことにお悔やみ申し上げます。

さて・・・ミャンマーの山の中をご本人が撤退されたことは大変なコトだったと思います。
ただ私が「阪神淡路震災の時の自分の様子に重なるようで・・・」で申しましたのは、
意外と非日常の状態におかれた人間は、現実の大変な状況を認識できず、現状を
悲観するものでもなく、ほのぼのしていてのんきだったと思えるのです。

拝読しました戦争体験記でも戦闘と戦闘の合間におとずれる落ちついたところに
そのような雰囲気を私は感じ取りまして、「阪神淡路震災の時の自分の様子に重なるようで・・・」と申し上げた次第です。
なかなか言葉でいいあらわすのは難しいのですが・・・ユーモアたっぷりで人柄がしのばれます。また最後にミャンマーに方の言葉は、自虐史観を教育されてきた世代としては非常に感動的でした。副産物ではあっても、日本も悪いことばかりしてきたわけではないことがわかり

後から考えれば、阪神淡路の震災は悲惨でした。
私は当時、王子公園に住んでおり、六甲山の麓にいましたので、揺れは大きかったのですが、ほとんど地震の被害がなく、無事でした。明け方になって、嫁さんを自宅に残して友人が住む灘区のJR六甲道駅周辺に様子を見に行ったのです。
ところが六甲道駅についた瞬間、それまで大変な地震だったという感想は驚愕にかわりました。
六甲道の駅前では、大勢血を流した怪我人が畳に乗せられ、病院にかつぎこまれていました。受け入れる病院の看護婦さん達もパジャマのままで看護にあたっていました。
六甲道から南へ100mくらいくだった桜口に友人は住んでいたのですが、ちょうどそのあたりは活断層がはしっており、また古いアパートが多かったため、軒並み家が倒壊、電柱も倒れて電線が引きちぎれ、あちこちで人が倒壊した家の下敷きになり、火事も発生して大変な状況でした
友人は幸い無事でした。友人が住んでいたビルの下から「しょう〜」と呼びかけると「おーう」とのんきな声がかえってきました。

時間がないので続く・・・
 

920.神戸  投稿者:窪田やよい  投稿日:2007年 4月26日(木)13時05分32秒
  森さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
 >不思議なコトに阪神淡路震災の時の自分の様子に重なるようで
どのような点がそう思われるのでしょうか?
叔父が神戸在住であったり夫が昔暮らしていたことがあったりで、神戸には想い入れが深いです。震災時には大変な思いをされたことと思いますが、お聞きしたいです。
 

919.生の体験談に感動しました  投稿者:  投稿日:2007年 4月25日(水)01時25分5秒
  このHPで貴重な体験談を読ませていただきまして有難うございました。
等身大のインパール作戦を読んでいるうちに、不思議なコトに阪神淡路震災の時の自分
の様子に重なるようでほほえましく可笑しかった(失礼)です。
 

918.素晴しい!  投稿者:窪田やよい  投稿日:2007年 3月27日(火)14時30分31秒
  素晴しい掲示板ですね^^
32tmさんの博識には驚くばかりです。いつも心に掛けてくださり丁寧な記述をいただき感謝いたしております。このような問い合わせが今後も多いのではないかと思いますが、ご無理のない範囲でお知恵を拝借いただけたらありがたいです。
よろしくお願いいたします。
 

917.32tm様  投稿者:妹尾  投稿日:2007年 3月27日(火)08時18分43秒
  有難う御座います。こんなに早く、しかも詳しい情報を頂けるとは思ってもいませんでした。感謝、感謝です。恥ずかしながら基礎知識不足で、折角教えて頂いた内を100%理解するに至っておりませんが、これから勉強して、頂いた情報を無駄にしないようにしたいと思います。

窪田様のお父様の体験記を読ませて頂き、その中で、「体力の限界を覚えた兵士が自ら手榴弾を炸裂させ、命を絶った」「川べりで飯盒炊飯をし食べる直前に命を終えた兵もいた。」「敵弾に倒れる者よりも、戦病死する者が多かった。その中には味方の足手纏いになるのを憂い自ら命を絶つ者も多かった。」との記述を読み、伯父もきっとこのような死に方であったろうと涙がこぼれました。
多くの方が、命がけで守ろうとした祖国を私たちは大事にしているだろうか?守り続けることができるだろうか?良い形で子孫に引き継いでやることができるだろうか?
こんなことも考えながら、伯父の跡を追ってみたいと思います。

窪田様

本サイトのお陰で、貴重な情報と考える機会を頂くことができました。
深謝申し上げます。

 


916.妹尾様に  投稿者:32tm  投稿日:2007年 3月26日(月)18時27分44秒
  窪田様またまた長文、お許し下さい。{
妹尾さま
始めまして、ビルマの部隊の行動は大まかなことしか説明できませんが悪しからずご了承下さい。
姫路の連隊に御入隊されたとの事なので、ビルマに派遣された姫路・鳥取・岡山関係を探しました。
ビルマ第28軍(策)隷下の鳥取、兵庫、岡山、各県で編成の54師団(兵)はアラカン山脈で昭和二十年四月頃まだ立て籠もっていた部隊です。他に壮(四国)楯(四国)狼(ソウル)等もあり総勢35000と云われていましたが終戦時に約半数が救出され残りは戦没及び生死不明になりました。

歩兵第111連隊、 通称、  兵(つわもの)  10112部隊 姫路編成
歩兵第121連隊   〃   兵   〃    10113部隊 鳥取編成
歩兵第154連隊   〃   兵   〃    10114部隊 岡山編成
他に(兵)には歩兵以外に野砲、工兵、捜索、等の連隊がありました。
「兵」兵団はビルマ中・南部に展開して防衛線を張っていましたがメークテーラを落してからラングーン目指しての勢いが止まらず、4月23日にはビルマ方面軍のラングーン放棄により防衛線は東西に完全に割られ策集団は孤立無援の状態になり、集団苦心の敵中突破作戦が終戦になるまで続き、折からの雨季で増水したシッタン河、渡河の悲劇となりました。

この窪田様「一兵士の戦争体験」にリンクの「ビルマ戦線生死の境」著者小田敦巳氏は「兵」師団が苦心して撤退作戦を実施、奇跡の生還を果した一部始終がよく書かれています。↓            ↓
                                                                http://www.bea.hi-ho.ne.jp/odak/Chapter1.htm

戦死されたのが4月18日ですからラングーンが放棄された5日前ころです。敵機甲部隊がビルマ中部都市のトングーを攻撃している頃で南部のアラカン山系にもインド側から、南部海岸線には海上からの攻撃が激しさを増していた頃です。
今年も十一月頃に高野山の「成福院」が慰霊に出かけますので問い合わせられたらと思います。
又それまでにとの事でしたら、大阪に「キャラウエイ・ツアーズ」というビルマに詳しい旅行社がありますので「Google」で検索の上問い合わせて下さい。どちらも関空からフライトします。

詳細にお調べに成りたいのでしたら窪田様お勧めの下記防衛庁サイト訪問をされてはと思いますhttp://www.nids.go.jp/military_history/military_archives/index.html 
 

915.昭和20年でした。  投稿者:妹尾  投稿日:2007年 3月26日(月)09時46分53秒
  すいません。戦死は昭和20年4月18日です。打ち間違いました。  

914.姫路歩兵第46連隊  投稿者:妹尾  投稿日:2007年 3月26日(月)09時38分51秒
  貴重な体験記、拝読致しました。
私は、今、インパール作戦後の日本軍の戦いに関して調べております。
私の伯父(父の兄)は、昭和25年4月18日にアラカン山中で戦死しました。(と、お墓に書いてあるだけなのですが、、、、)
姫路歩兵第46連隊(父の記憶)に所属し、当初ジャワに駐屯しておりましたが、その後、恐らくインパール作戦失敗後のビルマへ移動し、戦死したものと思われます。
父は、元気なうちに、私、孫を引き連れて、亡き伯父の慰霊のためにミャンマーに行きたいと言っておりますが、良く考えれば、どのような状況でジャワからビルマへ進軍し、アラカン山中で戦死したのか、さっぱり分かりません。
これでは、伯父も浮かばれませんので、できれば慰霊に行く前に、すこしでも状況が分かればと思って調べだしたのですが、その調べ方もさっぱり分からず、ネット上でウロウロしている際に、このHPにたどり着いた次第です。
当掲示板を拝見しておりますと、情報を頂ける可能性も有りそうだと思い、投稿致しました。
どなたか、少しでもご存知の方がいらっしゃいましたら、是非ご教示頂きたく宜しくお願い申上げます。
また、上述部隊の動きなどを調べるのには、どこに当れば良いのか、ご存知の方いらっしゃいましたら、是非教えて下さい。
 

913.高橋さん  投稿者:窪田やよい  投稿日:2007年 3月25日(日)13時28分52秒
  高橋さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
丁寧に読んで下さってありがとうございます。
昔の兵隊さんのためにも日本を愛してあげてくださいね。
 

912.はじめまして  投稿者:高橋  投稿日:2007年 3月20日(火)12時18分34秒
  まずは貴重な体験談を読ませていただきありがとうございます。
失礼になってしまうかもしれませんが一兵士の記録として読ませていただいて後半はとても興味深く、ときに頬が緩んでしまうこともありました。しかし戦友の霊を弔いに再来日した最後の部分では私たちにはまだまだ解決すべき、解決できるが野放しにしている問題があることも痛感しました。

現在20歳の私の家族、周辺では兵士として行ったものがおらず、戦争体験者のひいおばあさんも岩手の山奥に居をかまえているので悲惨というほどの経験もありせんでしたからとても参考になります。(たまに戦闘機が横切ったことと釜石艦砲射撃があったことを聞くぐらいです)

最後に稚拙な文面ですみません。戦争中の体験をなされた方が亡くなってしまったことはとても残念ですが冥福を祈りたいです。
 

911.32tm様 重ね々々有難うございます  投稿者:吉田定之  投稿日:2007年 3月18日(日)11時02分45秒
   32tm様 重ねてご丁寧なご返報をいただき有難うございした。
 いただいた内容を一つひとつ大事に噛みしめながらこれから行動をとらせていただき
ます。何もかもすべて私にとって初めて接する貴重な情報です。

 叔父長野知則の甥・姪は8人いて幸いにも現在全員が生存していますが、昭和14〜
5年頃何日かを生家で過したらしい叔父と一緒の写真に入った者が1人いるきりで、そ
の者を含め幼児であった我々に今、叔父の記憶は全くありません。

 そうした中で私が叔父の生涯を掘り起こして「叔父史」にまとめてみても、関心をも
って読んでくれそうな人物は限られていますが、私がしなければ永久に埋もれ忘れられ
てしまうのは確実で、そんな思いから作業を続けている次第で、32tm様のご返事に
感謝のほかありません。
 本当に有難うございました。

 どうかくれぐれも御身お大切にお過ごし下さるようお願い致します。

 窪田やよい様
このような掲示板をご提供くださいまして有難く、厚くお礼申し上げます。

http://members.jcom.home.ne.jp/yoshida.kouichi/index.html

 

910.第5遊撃隊  投稿者:32tm  投稿日:2007年 3月17日(土)13時11分38秒
  吉田定之様
ビルマ関係の寺院、高野山成福院より発行された仰光301ページに第5遊撃隊本部及び遊撃第15・16・17各中隊が記載されていました。この本の発行が昭和六十年七月なので、当時生き残りの何方かが成福院での慰霊祭に参加されたと思います。

★第5遊撃隊本部の通称号は(森12218部隊)
★遊撃第17中隊は  〃  (森12243部隊)
★「森」はビルマ方面軍の呼称で「森」がつく部隊は方面軍直轄の部隊です。

☆三月十一日ピヨベ北方発、サジを経て十四日二〇〇〇ころメイクテーラ北東方五粁地点に進出、同地を根拠に十五日〇三〇〇ごろ東飛行場に斬り込みを敢行した。とありましたが

☆三月十一日頃は、ピンマナ方面より急遽北上してメークテーラ奪回にむかった「狼」歩兵106連隊も東飛行場に斬り込み攻撃を敢行したとされていて我軍が総力を挙げて奪還を試みていた頃です。

☆この攻撃時、航空機一機および燃料庫数棟を炎上させた。
その後三度潜伏点を変更したが、十八日一三〇〇ころついに潜伏点を発見され、
戦車約三〇両を伴う歩兵約三〇〇の攻撃を受け、大打撃を受けて四散した。このとき小松原大佐は重傷を負い後送された。

☆その後三度潜伏先を変えたとありますが遮蔽物とてない砂漠のような飛行場周辺の事、空からの偵察で簡単に居場所を発見され、戦車群の集中砲火により部隊は全滅と思われます。

☆その後,将兵は各個に後退し、ピヨベ南方のシービンで・・兵力を終結した。
損害(戦死将校二、下士官兵二二、生死不明一八計四四)叔父の戦死は戸籍謄本によりますと記述のとおり『参月弐拾日午後参時ビルマ、メークテーラ東方四粁に於て』とあります。

☆同じ日に此の地点で「狼」の植月中隊が戦車群の猛攻撃に曝されて玉砕しております。
叔父様の戦死されたと云われる地点に「トーマ」村と云う小さな村がありその寺院には飛行84戦隊と狼兵団の兵士伊吹熊好様建立のパゴダがあり親日家の住職が迎えてくれます。
この部落の青年「テツナイ」君は戦後、和歌山の伊吹氏宅に身を寄せ林業の研修に一年在日しており、日本語も達者です。「メークテーラ」に行かれたら是非立ち寄って下さい。

★第5遊撃隊の慰霊法要は生存者が不明なので難しいのではと思われます。
「メークテーラ」には旅行社に訳を話し「コース」に入れるよう申し込めばよろしいです。
★布団爆弾とは対戦車用の爆弾で素早く戦車の死角に飛び込み「カタビラ」の下におき「カタビラ」を破壊し走行不能にするもので身を犠牲にして戦車を葬るものです。野球のベースを思い出されたら良いです。英印軍では戦車一輌に10名程の歩兵がついてきていたので爆弾仕掛けるのは難しかったと聞きました。
★高野山成福院では毎年元兵士、遺族、学生等男女を連れて慰霊巡拝をしております。
★キャラウエイ・インターナショナルという旅行社はビルマ慰霊、小学校・病院建設など熱心にしています。上2点グーグルで検索されては如何ですか。
☆メークテーラは60年前も今も殆んど変化はありません。戦後6回訪れましたが東飛行場は軍用で使えず我々はマンダレーから又はパガンから自動車で訪れました。
☆窪田やよい様、掲示板お借りして沢山書き込みました。どうも有難うございました。
 

909.おぉ!  投稿者:窪田やよい  投稿日:2007年 3月15日(木)23時46分35秒
  すごい@@!の一言!
うれしいです!当サイトがお役に立ててよかったです!
どしどしご活用ください!
 

908.32tm様 早速のご返信有難うございます。  投稿者:吉田定之  投稿日:2007年 3月15日(木)22時16分2秒
   思いがけず早速のご返信に接し感激しています。有難うございました。
 重ねてで恐縮ありますが、叔父ののことについて2,3補足のうえ何かご教示いただけ
ればと思う次第であります。
(補足事項)
  ―第5遊撃隊は、叔父の本籍地北海道庁との応答では「ビルマ方面軍直轄と推定され
   る(そういう資料がある)」とのことでした。
  ―同じく同庁から受領した「第5遊撃隊本部部隊略歴」によりますと、同隊は「昭和
   19年12月17日緬甸蘭貢に於て編成完結・部隊総員八五名」とあります。
    (叔父はこのとき電信第19連隊本部から遊撃隊本部の編成に加わった模様)
  ―さらに、同『本部』について防衛庁の戦史叢書につぎの記述があります。
    遊撃隊本部および第十七中隊
     三月十一日ピヨベ北方発、サジを経て十四日二〇〇〇ころメイクテーラ北東方
    五粁地点に進出、同地を根拠に十五日〇三〇〇ごろ東飛行場に斬り込みを敢行し
    た。
     この攻撃時、航空機一機および燃料庫数棟を炎上させた。
    その後三度潜伏点を変更したが、十八日一三〇〇ころついに潜伏点を発見され、
    戦車約三〇両を伴う歩兵約三〇〇の攻撃を受け、大打撃を受けて四散した。この
    とき小松原大佐は重傷を負い後送された。
     その後,将兵は各個に後退し、ピヨベ南方のシービンで・・兵力を終結した。
     損害(戦死将校二、下士官兵二二、生死不明一八計四四)
   叔父の戦死は、戸籍謄本によりますと記述のとおり『参月弐拾日午後参時ビルマ、
   メークテーラ東方四粁に於て』であります。
(ご教示いただきたい事項)
 @上記補足にて「第五遊撃隊本部」の慰霊の方法・機会は探せないものでしょうか。
 Aまたは、メークテーラへの慰霊の方法・機会を探すにはどうしたら可でしょうか。
 Bまた、お答えの中の『布団爆弾』とはどのようなものでありましょうか。

 長々と申し述べました。どうかよろしくお願い申し上げます。

 窪田やよい様 申し遅れていますが、このような機会を与えて下さいまして誠に
 有難うございます。

 B

http://members.jcom.home.ne.jp/yoshida.kouichi/index.html

 

907.吉田定之様へ  投稿者:32tm  投稿日:2007年 3月15日(木)18時27分42秒
  知り得る限り述べます。当時私等の通信分隊はメークテーラ東飛行場の東南隅にあった地下壕を撤去シヤン高原のヘホ飛行場に2月中頃展開しました。その直後にイラワジ河を渡河した英印軍の機甲部隊は戦車などを先頭にメークテーラ目指して進撃し、戦闘部隊不在で野戦病院と兵站司令部だけで安泰と思われていた交通の要衝メークテーラがその後1ヶ月以上に亘り彼我攻防の決戦場となりコヒマ・インパール後のビルマ攻防の主戦場になりました。

◎叔父上の戦死された地域がメークテーラ東方4キロメートルとありますが、北の大都市マ ンダレーからビルマ首都に向うビルマの国道一号線と云われているマンダレー街道が南北 に東西にはタイ、インドに通じ、又、鉄道も平行して施設されている重要軍事拠点でもあ りました。

◎私はインパール作戦中はビルマに赴任途上で、インパール敗戦は輸送船上で知りました。 電信19連隊に赴任した者はシャン高原のメイミヨーの部隊本部に行ったと思います。

◎第5遊撃隊は何部隊の所属か分かりませんか? 一般的に斬り込み隊の装備は手榴弾1〜 2個、小銃弾30発、対戦車用布団爆弾が必要であれば1〜2個、と比較的軽武装でした。そ の当時我方には自動小銃、火炎放射器などはありませんでした。
 英印軍は3月3日にメークテーラ占領と発表しましたが、それ以降も我各師団は陣容を立て 直して奪還を試みますが何れも失敗、損害ばかりが増え日本軍の総崩れが始まりました。

◎部隊名が分かりませんので現地での慰霊祭の事お調べの仕様がありません。
 電信19連隊は広島市の電信2連隊が分かれた同じ部隊です。毎年広島の電2会が十月に慰霊 祭を旧陸軍墓地跡で開催しております。

◎ビルマにはマンダレー西方イラワジ河を越えたところの聖地サガインヒル頂上に祭部隊有 志が建立した平和パゴダが立っていてその基礎部分に電信19連隊戦没者約1500名の氏名が 刻み込まれています。

以上知っている限りですが何しろ80歳を迎え記憶も次第に衰えて来ているので悪しからずご容赦ください。

窪田やよい様、沢山書かせて頂きました。有難うございました。 32TM>

 


906.32tm様 ご存知でないでしょうか  投稿者:吉田定之  投稿日:2007年 3月13日(火)16時38分15秒
   私の母方の叔父長野知則は2枚程の写真と、戸籍謄本に「昭和20年3月20日午後3時ビルマ、メークテラ東方4粁に於て戦死」の記録があるほか今誰もその在りし日を知りません。
 そんなことから私が鎮魂のため彼の生涯を調べ、親戚一同に報告しようと思いつたない作業を続けています。

つきましては、
 @電信第19連隊の「本部」はインパール作戦の際どの辺まで進出したか
 A第5遊撃隊は昭和20年3月15日払暁メークテーラ東飛行場に斬込みを敢行したが、
  そのときの人員および装備はどの程度のものであったか
 B第5遊撃隊の戦跡を慰霊する機会があるだろうか
の3点について、何かご存知でしたらご教示下さいませんでしょうか。

http://members.jcom.home.ne.jp/yoshida.kouichi/index.html

 

905.慰霊  投稿者:濱崎和郎  投稿日:2007年 3月12日(月)21時19分38秒
  私の母方の祖父が海底電線敷設船の南洋丸(3,600t)がs19.2.20石垣島付近で米潜水艦の攻撃を受け、沈没し乗組員124名中77名死亡した。故佐藤首相はs27.6.22横浜市神奈川区出田町1番地のNTT海底線エンジニアリングセンターに他の犠牲者と共に記名した殉職碑を建ててくれ、定期的に花を供えてくれている。その孫の安部晋三首相が、「でっち上げ」という筈がない。
古来、「天網恢恢、疎にして洩らさず」という言葉があります。事実をして語らしめることが大切です。
 

904.後5年もしたら  投稿者:ななし  投稿日:2007年 3月12日(月)20時14分13秒
  「インパール作戦はアメリカや中国のでっち上げ」などとぬかす「愛国者」が出て来る可能性は多分にあると思います。今の流れでいけば。
「ありもしないインパール作戦を日本人は信じ込んだことによって、日本人の精神は堕落した。アメリカや中国が日本人を自虐的にさせるためにこんな神話が作られた」「これから自衛隊が外に出て行くためには、こんな自虐的な神話から卒業しなくてはならない」等と、渡辺昇一や中西輝政、安倍晋三辺りが言い出す可能性は十分にあるでしょう。
 現在の改憲や「愛国」は、基本的には自衛隊をアメリカの植民地軍のような状態にするための一手段として使われています。極めて逆説的かつねじれたナショナリズムです。
 

903.B29墜落  投稿者:濱崎和郎  投稿日:2007年 2月25日(日)22時11分7秒
  終戦直前、幼稚園に入園する予定だったが、空襲が激しくなり、3輪式の人力車の乗っての疎開先の大分県南海部郡のM村の農家の馬小屋を改造した一部屋に母と祖母と弟と私は引越した。その農家もご主人(36歳だったとのこと)が南方への輸送船団が撃沈され、火の海で亡くなられた後で国民学校3年生ぐらいの長男やそのお姉さん等がいた。それまでと違い、空襲警報、爆撃も、防空壕へ逃げる必要もなく、サツマイモも十分食べることが出来た。ある日川沿いの道路をたくさんの車、オートバイ、サイドカーなどが川の上流の山地へ通って行った。 B29が墜落したとのことだった。
そこの3年生が私に言うには、「落下傘でアメリカ兵が降りてきて言う事を聞かないのを一人撃ち殺して、他は憲兵が連れて行った。ビラや、銀紙が落ちていたら拾って学校に届けるように」ということだった。3年生のその上級生は日本神話の太陽が弓に付いてまぶしくて敵が目がくらんで
攻撃できず、神武天皇が勝ったのだ、とかシナ人がチェーンを持って暴れたので日本軍が抑えに行ったのだ、と言い、「もしも日本が負けたなら、電信柱に花が咲く」という歌を教えてくれた。
桑の木の皮を集めたり、松の木からヤニを採っていたようだった。
 終戦がいつ来たか解らなかったが、私は国民学校に入学した。画用紙が無くて、昭和天皇が欧州旅行したアルバムをちぎって、その裏がつるつるするのに絵を書いた。
 ある日川の堤防からたくさんの村人が川原のほうを見ているので一緒に見た。
村の交番のお巡りさんと誰かとが天秤棒に炭俵をぶら下げて、川の石ころの上をヨチヨチ歩いてきた。お巡りさんが後ろ側だった。そして鼻をつまんで「臭い」という身振りをした。
 B29の搭乗員の死骸を川の竹薮に埋めていたのを掘り起こして、交番の方へ運んでいたのだった。  母屋のFおばさんは未亡人になっていたが、米兵捕虜がトラックで連れ去られるのを見たようだった。私の母が言うには「捕虜達は裸にされ、後手に縛られ、
目隠しされ、舌なめずりしていた。きっと水を飲みたかったのだろう。又よその未亡人が捕虜達に殴りかかり、憲兵が木刀で制止していた。」とFおばさんが言っていたとのことだった。
 自分の夫が米軍にやられて、怒るのも当然だし、米兵に同情するFおばさんも当然だ。
Fおばさんも5年ぐらい前に亡くなり、私の母は92歳で存命。
 米兵達は生体解剖にでも連れて行かれたのだろうか。それともどこかで強制労働させられ、戦後母国へ帰ったのだろうか。2年生ぐらいになったとき、米兵がジープで学校に来て、皮の土足でピカピカの廊下を歩いた。高等小学校の先生が通訳していた。トイレを借りに立ち寄ったのだ。
 翌日の朝礼で、校長がトイレに花が活けてあり綺麗だと米兵が誉めていたと言った。
米兵は川で裸足で水遊びして、足の裏が痛そうに歩いていたと級友が言った。
 やがて学校給食の粉ミルクが登場した。アメリカ向けに絵を書いた。マッカーサー有難うという趣旨で日本の風景を書いた。 運動靴などは配給だったし、草鞋を作った。教科書には墨が塗られていた。 芋飴が唯一の甘い食べ物だった。    濱崎和郎
 

902.当時の出身者  投稿者:Z会  投稿日:2007年 2月17日(土)17時06分46秒
  お尋ねします。

幹部の方の出身地や出身隊は
どちらが多かったでしょうか。

既出でしたら、その旨を回答願います。

 


901 濱崎さん、女子大生さん  投稿者:窪田やよい  投稿日:2007/ 2月15日(木)14時31分34秒
  濱崎さん、女子大生さん ご訪問&書き込みありがとうございます。

小説や映画は作者の意図するものがあり戦争はその素材に過ぎないので、事実を伝えているとは限らないと思います。濱崎さんがおっしゃる
>マッチを借りに来た。村民は山火事を恐れて貸さなかった。私は帰れと言ったのだ。疎開先の上級生に言えといわれて。復員兵は直立不動でお国のため尽くしたのだと言った。<
といった部分の方が鮮明に事実を伝えているように思えます。
体験者それぞれの真実があると思います。当サイトも一兵士の真実として捉えていただき、感謝いたします。当サイトのリンクにあります「関口さん」「小田さん」の体験談も生々しい真実が綴られていますので、是非参考になさってください。
父に意図があるとすれば、日本兵は誇り高かった、ということだと思います。

一緒のコメントにて、失礼いたしました。
 

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