過去の掲示板(その22)


「インパール作戦・父が語る戦争体験記」への感想を多くの皆さんに書いていただいています。今までの掲示板への書きこみ内容をまとめてみました。上から順に新しい書きこみとなっています。
なお、改行位置などは一部編集してありますのでご了解下さい

平成11年3月の掲示板開設以来のもの(No1〜63まで)は「過去の掲示板その1」をご覧ください。
No64〜99までは「過去の掲示板その2」をご覧下さい
No100〜172までは「過去の掲示板その3」をご覧ください
No173〜206までは「過去の掲示板その4」をご覧ください
No207〜250までは「過去の掲示板その5」をご覧ください
No251〜279までは「過去の掲示板その6」をご覧ください
No280〜321までは「過去の掲示板その7」をご覧ください
No322〜371までは「過去の掲示板その8」をご覧ください
No372〜407までは「過去の掲示板その9」をご覧ください
No407〜456までは「過去の掲示板その10」をご覧ください
No458〜483までは「過去の掲示板その11」をご覧ください
No484〜541までは「過去の掲示板その12」をご覧ください
No542〜576までは「過去の掲示板その13」をご覧ください
No577〜619までは「過去の掲示板その14」をご覧下さい
No620〜673までは「過去の掲示板その15」をご覧下さい
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No901〜1036までは「過去の掲示板その21」をご覧下さい
No1036〜1116までは「過去の掲示板その22」をご覧下さい

ホームページ編集責任  窪田 幸唯 

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1116.ミャンマー ニャンガン 

  投稿者:  投稿日:2012年 6月19日(火)04時03分7秒
  ご参考まで
地名として音が似ているのは以下の部落です。
Nyaunggaing, Sagaing, Burma
Nyaunggyaung, Rakhine, Burma
これを
https://maps.google.co.in/
に入れて検索されてみてください。
地図上に場所が表示されます。 もし場所が違っていたら御免下さいませ。

http://citroen2cv6.blog.so-net.ne.jp/2012-03-06

 

1115.ニャンガン部落はどこでしょうに関して

  投稿者:小松 悟  投稿日:2012年 6月 6日(水)05時44分39秒
  窪田様
 大変失礼かと思いますが、1か月以上回答されていないようなので
横から失礼します。

5月4日「ニャンガン部落はどこ」として投稿された 純子様へ

 防衛研修所へ聞かれたらどうでしょうか。そこではメール等では受
け付けていませんが、手紙での質問なら受けているようです。実際に
研修所へ行って自分で調べることもできるようです。

防衛研修所のホームページを見ると以下のように示されています。

戦史史料に関するお問い合わせ
・所蔵史料についての質問 ? 相談は、「相談係」へ、気軽にお尋ね下さい。
・ 遠隔地の方で直接史料閲覧室においでいただくことができない場合は、
 お尋ねの詳細を記し切手(80円)を貼付した返信用封筒(あて先明記)を
 同封の上、封書にて郵送してください。
・なお、戦史史料に関する電子メール及びファックスでのお問い合わせは受け付けておりま せんので、ご容赦ください

防衛研修所のアドレスは以下の通りです。

http://www.nids.go.jp/military_archives/index.html


 

1114.感想ありがとうございます

  投稿者:窪田幸唯  投稿日:2012年 5月25日(金)23時43分58秒
  虎徹さん、中国生活倶楽部さん。
感想の投稿ありがとうございます。
しばらく海外単身生活をしていましたので、登場するのは久しぶりですが、よろしくおねがいします。
このサイトを立ち上げて13年くらいになります。99年からです。
大勢の皆さんに立ち寄っていただいています。ありがとうございます。
細々と続けているサイトに感想を寄せていただけるのはありがたいことです。
一時は1日数百アクセスもあったのですが、最近は100を切っています。
色んな価値観もあるでしょうが、でも、この記録は亡き義父のメッセージでもあります。
私の実父はロシアに4年抑留された経験があります。そのことは子供のころよく聞きました。
本人が娘の口述筆記に近い形で、このような形式で残しているのですが、本人の伝えたい荷ニュアンスには近いと思います。
これからも、当サイトとこの掲示板をご愛顧くださいませ。
書き込みありがとうございました
 

1113.凄い内容です・・・

  投稿者:中国生活倶楽部  投稿日:2012年 5月23日(水)20時39分13秒
  私もあーと言う間に読み切りました。ありがとうございました。戦争とは何か、真実は何かを今一度考えなければいけないと思いました。一度進んでしまえばどんな矛盾をした命令でもそちらの方に進んで行く、恐ろしさ・・・進んでしまう前に国民は阻止しなければまた同じ道を孫子にあゆまさせてしまう。さて今私は中国での駐在員生活を終え、大阪と雲南省・昆明の2重生活をしていますが、この昆明も戦争時に日本軍が攻撃した街です・・・  

1112.ありがとうございます

  投稿者:虎徹  投稿日:2012年 5月22日(火)15時21分40秒
  全文あっという間に読ませていただきました
このような貴重な文章を残していただき誠にありがとうございます
諸先輩方の命や思いを大切にしていきたいと考えています
 

1111.ニャンガン部落はどこでしょう?

  投稿者:純子  投稿日:2012年 5月 4日(金)12時10分32秒
  はじめまして。祖父が第49師団最後の作戦参謀の的埜中郎です。祖父の亡くなった地域を知りたいとしらべていて、この掲示板にいきあたりました。まだこの掲示板が機能しているようなら幸いです。
なくなったのは昭和20年4月10日頃。当時小学生だった私の母も、いまは後期高齢者に達し、病にかかっており、私が幼き頃からずっと、死ぬまでに一度、祖父のなくなった地を訪ねたいと願っていたので、なんとかつれていってあげれないかと情報を探しています。
母が祖父のなくなった地ということで伝え聞いているのは、ニャンガン部落ということでしたが。。
祖父の最後は、戦後に九州電力の会長になられた永倉三郎氏がその著「無我の人生」で少し触れてくださってます。
最近やっとビルマも民営化というか、政情が安定し、一般人でも同地へ渡航がしやすくなったように感じますのに、情報が足りません。すでに67年の歳月が経ちますが、どなたか、ご存知の方があれば、どうか教えてください。よろしくお願いいたします。
 

1110.おはようございます。

  投稿者:佐藤 清メール  投稿日:2011年12月12日(月)09時41分52秒
  こちらこそお父上の貴重な体験談を拝見させていただき感謝いたします。
と申しますのも、母からだけの話を聞いていますと、遥か彼方の自分には関係のない話のように聞こえてきてしまい、いつの間にか「ああそう…う〜ん。」と、相槌を打つだけの会話になって来ていたからです。
このたび窪田様の体験記に触れたことで、母とのきずなが深まったのでした。
今度は、窪田様の体験記を僕から母に聞かせたいと思います。
 

1109.ありがとうございます

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2011年12月10日(土)21時56分51秒
  佐藤 清さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
父も他界して5年になりますが、父は昔から戦争の話をよく聞かせてくれました。戦争に行った方は皆さんよく話されるものだと思っていました。
母は健在です。佐藤さんのお母様と同じく以前よりも頻繁に戦争時代の話をするようになりました。今は戦争がなくてよかった…孫達が戦争に連れて行かれなくてよかった…という話で終わります。
興味を持って読んでくださる方がおいでて父も喜んでいると思います。
 

1108.母が語るインパール作戦

  投稿者:佐藤 清メール  投稿日:2011年12月 9日(金)12時00分35秒
  私、東京都墨田区に住む60歳の男子です。
数年前から、お酒を飲むと戦争体験を涙ながらに話すようになりました。
他界した父も「サントス軍曹はなァ…」と、復員後の話を良くしていましたが、戦地での話は、よっぽど辛かったのでしょうか話を聞いた記憶がありません。
母の場合は、南方に売られていったことから始まり、日本に帰りたくなくなるほどに、楽しい日々が過ぎていき、戦火にもまれながら兵隊さんたちと山中を撤退する様子を話します。
話の中に【第55連隊】【33連隊】【白鳥部隊】【インパール作戦】などがいつも出てきます。
手投げ弾を使っての自決。河原での力尽き食事を目の前にして逝ってしまった兵士の話など、同じ内容を拝見しました。
全文を読んでいませんが、涙無くしては読めませんでした。
またお邪魔せさせていただきたいと思います。
 

1107.内務班

  投稿者:ガンキョウメール  投稿日:2011年11月 9日(水)08時34分52秒
  昭和14年12月1日より昭和21年6月17日まての6年7か月、私は軍籍にありました。広島呉港より上海に渡ったのですが、入隊して僅か10日で戦地に送られる軍用列車は若い熱気で包まれていた。列車が広島に近ずくにつれ、国民の熱意に格差を感じた。軍服に満ちている軍用列車を見かけると、仕事の手を放ち、何か叫びつ、手を振りつゝ列車に向い駆けて来る。「あァ死んで来なければ申し訳ない」と云う感情が湧いて来る。関東では見かけぬ風景であった。
入隊して一ヶ月頃、初めて内地からの手紙を受け取る、初年兵係り上等兵より名前を呼ばれて受け取りに行く、女名前の手紙があると「下士官室に行って班長殿に見て貰って来い」「ハイ」と私も下士官室をノックする。
「入れ」「入ります」「手紙を持って参りました」「好し、読め」「ハイ」と私は読み出した。
「貴方が出征されて半月後の12月15日、私は大盛座でお披露目をしました、半月違いで叶いませんでしたが、一度お座敷でお別れしたかったです」途端に平手の往復ピンタが飛んで来た、「弛んどる、もっと緊張せい」「ハイ」これで広島近郷、列車内での決心は一度に消し飛だのである。
俺の書いたものなら、どんなに怒られても仕方が無いが、相手の書いた文章で、何故俺が殴られなければならないのか?、一介の事務員として業者に随行して、事務関係を処理したまでのことである。
この9ヶ月後の作戦で、この班長は戦死してしまった。その後任の班長も輪を掛けて殴られた。入隊して1年2ヶ月、上等兵になって漸く、ピンタから逃れられた。
 
 

1106.5年になります

  投稿者:窪田幸唯  投稿日:2011年 8月29日(月)00時27分10秒
  当サイトの口述人、窪田孝之助が亡くなってちょうど5年を迎えようとしています。
ついこの前までのような気もしますが、5年という月日が経ています。
もし存命であれば、こんにちのこの混迷を大いに憂い、大いに語ることは間違いないです。
シンプルな切り口で・・・・一体なんていうんでしょう
地域政治の大好きな義父でした
そして自分には正直な生き方のように感じました
 

1105.(無題)

  投稿者:無名  投稿日:2011年 8月19日(金)11時04分41秒
  インパール市外に日本の敗戦後初めて入れました。50年以上も前のことです。地上の漆黒の闇に反して、満天の星空でした。諸兄はこの星空の天には、抱かれているのだと感じました。



 

1104.最近のアクセス状況

  投稿者:窪田幸唯  投稿日:2011年 8月 2日(火)17時40分34秒
  昨年まではこのシーズンになると当サイトへのアクセス量が異常に伸びるのですが、今年はどうも違うようです。本編そのものの更新をしていませんので年々アクセス量が落ちているようです。ネットの世界が変化しているんでしょうか。  

1103.また8月がやってきます

  投稿者:窪田幸唯  投稿日:2011年 7月27日(水)19時04分36秒
  また8月がやってきます。マスコミで戦争ものの特集をやるでしょうか。
当地、中国のテレビを見ていますと、相変わらず旧日本軍が悪者として登場するような番組が横行しています。しつこいほど流れています。
こうやって自国民にイメージを植え付けています。
それぞの国の考え方の違いですが、日本の当たり前と他の国の常識は違います。
大事なことはイメージを伝えるのではなく、事実を伝えていくことでしょう
 

1102.若山 牧水

  投稿者:濱崎和郎メール  投稿日:2011年 4月16日(土)23時46分3秒
  前報 石川啄木ではなく 若山牧水が正しいです。間違っていました。すみません。
宮崎県の医師の息子で 酒が大好き人間。幾山河 越え去り行かば・・の和歌も有名。

白鳥はヤマトタケルを表し、古事記では 東国のくまそを女装で破り、出雲の神を抜けない刀の交換で騙して殺し、相模で野火に焼かれかかり逆に火を放ち、向かい火とし、草薙の剣で草を刈り、敵の国造を焼き殺し、東国も平らげ、オトタチバナノ姫が嵐の海に身を投げて海神をなだめ帰途の船は助かり、伊吹山でヒョウに打たれた倭建命(やまとたけるのみこと)が三重の鈴鹿で倒れる。そして白鳥となって倭に帰る。
文学博士佐々木信綱の「卯の花の匂う垣根にホトトギス来鳴きて、・・夏は来ぬ」とともに白鳥が倭に飛ぶ和歌が昔の教科書にはあったようです。
   古事記の神話ではクラゲのような若い大地が水に浮く油のように浮き、神々も独身神が7代現れる。 アダムとイブの如く いざなぎノ神(男)といざなみノ神(女)が現れ(同性愛は無く)
下界のオノゴロ島で国を生み始める。 淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐、対馬、佐渡島、オオヤマト豊秋津島(本州)の八個の島 が日本国となった。大八島国と呼んだ。 その後更に6ケの島を生み、合計14の島を生んだ。その次に火ノ神、水ノ神、食物ノ神、船ノ神、野ノ神、風ノ神、気ノ神、山ノ神、海ノ神、水門ノ神、住いノ神、アマテラスオオミカミなど35柱の神を生んだ。(これは戦前の人は教わったであろう。)小生の頃は 黒塗り教科書になっていたのか。  火ノ神を生む時、イザナミノ神は やけどを負って、死亡する。イザナギノ命は 妻を黄泉(ヨミの国)に探しに行くが逃げ帰る。とにかく景行天皇の息子のヤマトタケルノ命の霊は 白い鳥となって ヤマトへ戻る。
辞書によれば神風は伊勢にかかる枕詞、又は蒙古が攻めてきた時の風 とか新聞社の飛行機の名称とある。 軍隊で神風を信じてたのは何%だろう。
 

1101.司令官も人の子

  投稿者:濱崎和郎メール  投稿日:2011年 4月16日(土)06時03分48秒
  オペレーションミスだと語る東京電力の清水社長だけでなく、無責任トップが多い。カルテル談合部下のせい、本社(地下壕の大本営)TPOかその場の空気を読む、部下のせいにして、無難にすごすのが一番。どこで負けを認めるか。石川啄木の歌、白鳥は悲しからずや海の青、空の青にも染まず飛び行く。 海軍も制空権無く、4月に沖縄特攻へ出かけた。 神風を待たなかった。米軍のグラマンなどが無力化する夏の台風を待てば、7万トン28ノットの 大和は沖縄に到着できたかも。この菊水作戦後の東条英機、夏に原爆2ケ受けてもなお腰を抜かすな大和魂と終戦拒否、悲しからずや。  

1100.脱落し一人歩いた靖国街道

  投稿者:関 由美子メール  投稿日:2011年 4月16日(土)00時30分10秒
  1943(昭和18)年に満州(中国東北部)の通信隊に入隊し、翌年ビルマ(ミャンマー)戦線に転戦、マンダレーで編成した通信部隊に入った。ラシオの北のセンウイで近くの川の橋が英軍に爆砕された時から、バンコクまで約1500キロの死の退却が始まった。指揮官の牟田口廉也・第15軍司令官がいち早く帰国していたことなど到底知らない。タイとの国境2千b級の山岳地帯の険しい山越えは、食料・弾薬の補給皆無、物資の欠乏から飢餓と風土病で落命した日本兵の遺体が連なる「靖国街道」だった。はずれの草むらに入ると下痢便だらけで足の踏み場もなく死臭が漂う。林の中に腐敗し腹部がえぐれた死体があった。谷底に折り重なった死体を見た。体が衰弱すると隊から取り残される。私もマラリアにかかり、3日ごとに発熱するたびこれで死ぬと何度も思った。脱落して一人歩き、同様に取り残された兵と助け合って国境を越えたところで終戦、武装解除された。チェンマイに着いたら乗れるはずだった汽車にも乗れずついにバンコクまで歩いた。収容所でも翌夏乗った復員船でも戦友を見つけることはできなかった。      2010.8.15 父 館林重雄が新聞の声の欄に投稿した文です。父はいまでもその時の辛い悲惨なインパール作戦の夢を見るそうです。娘として、人として、若い世代に戦争の悲劇を伝える事の大切さを知り、私の子供たち孫たちに語り継いでいこうと思います。  

1099.ダークダックスとロシア民謡

  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2011年 1月11日(火)08時31分14秒
   ビルマのインパール戦と日露戦争とはどこが違っているか。
日露戦争では勝利はしたがどうも日本側の戦死者が圧倒的に多いようです。坂の上の雲 では勇ましいことをいっている。女子のお手玉の歌でも「さっさと逃げるはロシアの兵、死んでも守るは日本の兵」と鼓舞。
  ダークダックスのロシア民謡(高見沢宏さんパクさん1/07 77歳死去)は灯火、走れトロイカなど
よく聞いた。    「道」という曲もあった

 オー  道よー  立つホコリ
  辺りは火の海  弾は飛ぶー
  寒さに震え 繁るフーリャン

  明日をも 我知らず ただ荒野の 露と消えん

前報  乃木将軍の詩の末尾 誤字訂正 金州場外(誤)金州城外(正)
東京赤坂に乃木亭があり、馬小屋のほうが住居より立派だと言われた。 馬小屋にはロシアのステッセル将軍の白馬が飼われていた。  米国ケンタッキー州の馬祭り 馬小屋が日本とは比べものにならないくらい立派だと、現地工場出向経験トヨタ社員から聞いたことがあります。

  ロシア兵捕虜が四日市港から帰還する写真が市の歴史資料にあります。 武士道が明治には生きていたと思います。乃木大将はどこで文学を学んだのだろう。
      
 

1098.乃木大将の漢詩

  投稿者:浜崎和郎  投稿日:2011年 1月10日(月)23時05分32秒
  第3軍 乃木希典 大将の漢詩

金州城下の作 (1904.6.6作と思われる)

                      金州とは大連付近

山川草木転た荒涼

十里風腥し
征馬前まず 人語らず

金州場外 斜陽に立つ
 

1097.ピンポンサガン

  投稿者:yoyo  投稿日:2010年12月16日(木)13時56分14秒
  初めて書かせてもらいます 当方の叔父がインパール作戦でモーレイク県ピンポンサガン東方5キロで
亡くなっております。ビルマの戦記などで少し場所が分かってきたのですがどうもインドとの国境沿いの
シッタとタムという地名の途中でどうも峠というようなイメージを持ってます
一度現地に出向きたいのですがその場所まで行けるのかどうか
ご存知の方教えて頂けませんでしょうか
よろしくお願い致します、
 
 

1096.ななし 様の11月30日のコメントへ回答

  投稿者:小松 悟  投稿日:2010年12月 6日(月)09時20分2秒
  窪田様 私に対して質問がありましたので、この場をお借りして回答させていただきます。
    大変長くなりますがお許しください。

ななし 様へ

 最初の同様の三つの質問に関しては、あなたが言っておられるように、殆どの人の回答と同じで、司令官が誰であれ、決してそのような戦争に自ら進んで参加したいと思う人はいないでしょう。しかし、決して望むことではありませんが、実際に日本国民が大東亜戦争と同様の戦争に巻き込まれたら(実際には今後はこのようなことは決して起こりません。何故ならば、当時は植民地があふれていましたが、今は植民地はほとんどありません。ただし、中国の周辺にはそれに近い状況がなしとはしませんが。)、昭和19年の状況では、自分としては昔から、命を捧げる気持ちは十分にありました。棺桶に片足の半分ぐらいを入れている歳ですので、役には立たないでしょう。インパール作戦に関しては、8月25日のコメントで述べた、英国ロンドン大学教授のエリック・ホプスバウ博士の言葉のような成果が認められるので、参戦する意義があったと思っています。当時実際に参戦された方々だけでなく、その当時の国民も、この点に関しては自信を持ってよいと思います。そうでなければ、この戦いで散華された方々が浮かばれません。
 大東亜戦争は日本が望んで始めたものではありません。ABCD包囲陣で経済的に封じ込められて已む無く自衛のために立ち上がった戦争です。このことは連合軍最高司令官のマッカーサー元帥も公式に認めていることです。自衛のためだけではありません。大東亜戦争の開戦の目的の中に、東南アジアの植民地からの解放、人種差別の撤廃も盛り込まれてます。日本の独立についてはともかく、アジア諸国の植民地からの解放、人種差別の撤廃に関しては、アメリカに黒人の大統領が生まれたことから、完全に達成されています。独立に関しては今一歩と言う段階ではありますが。戦争目的の達成ということから言えば、大東亜戦争の本当の勝者は日本ではと思っています。世界の歴史が植民地支配国家と植民地国家だったのを、植民地支配国家をたたきつぶし、植民地国家を独立に導いたのですから。この戦争の結果、完全に世界史が変わってしまいました。このことは貴方の頭に叩き込んで欲しいと思います。
 小泉元首相や石破元防衛大臣等の錚々たる方々ですら、日本は侵略国家だたと思われていますので、ただただ連合国の日本弱体化政策の恐ろしさを感じています。
 今の菅首相や仙谷官房長官、北澤防衛大臣等は、貴方が毛嫌いされる、東條元首相、牟田口元司令官等と比較したら、数段下位の人物でしょう。今の自衛官、海上保安官こそ哀れでなりません。この状況が続けば、反乱がおこらないとも限りませんね。sengoku38さんには大いに感謝しています。

 参考のためにパール判決書の2か所を示しておきます。
 1 ハルノートを突き付けられた日本は戦争に立ち上がらざるを得なかったというところ。
「今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものとおなじような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも合衆国にたいして矛をとって起ちあがったであろう」

 2 判決文の最後の文章
「時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう」

 

1095.終戦記念日2小松さんへ

  投稿者:ななし  投稿日:2010年11月30日(火)20時48分15秒
  では、特に小松さんへお伺いしますが、もう一度牟田口のような指導者の下、インパール作戦のようなことをする日本でいいでしょうか?さらに言えば「牟田口のような指導者の下、インパール作戦のような戦いに参加したいですか」「お子さんやお孫さんを牟田口のような指導者の下、インパール作戦のような戦いに参加させたいですか?」と言われたらどうでしょうか?少なくとも私はまっぴらです。牟田口や東條のような指導者の下、インパール作戦のようなことをする日本であってほしくないですし、そんな戦いに参加したくないですし、私は今学生ですので子供もいませんが、親族の誰にもインパール作戦のような戦いに参加してほしくありません。
戦時中の指導者が、無能で強欲で無責任で戦争の責任を取ろうとすらしなかったことは、少しでも戦時中の当時にいた人達なら、右翼左翼問わず誰でも知っていることです。ちなみに私の母方の祖母は満州から逃げ帰ったのですが「中国や韓国の人達が東條さんが祭られているところにお参りするのを止めろというのは、その通り。私も東條さんが靖国に祭られているのはおかしいと思う」と言っていました。それにA級戦犯の中には板垣や武藤のように、参謀総長の言うことも、陸軍大臣の言うことも、総理大臣の言うことも、あまつさへ、あらゆる戦争の拡大に憂慮された昭和天皇のご意思すら無視して、勝手に軍を動かして戦争を拡大させ、その後軍法会議にかけられるどころか出世した人物すらいます。本来なら武藤や板垣はその時点で処刑されても文句は言えません。もしその時点で彼らを処罰していれば、インパール作戦のようなことは実行されなかったでしょう。
ちなみに私はシベリア抑留帰りの父方の祖父と戦争の話をして、靖国の話になるときに「牟田口辺りをA級戦犯として殺しといてくれたら、わかりやすい議論が展開されたのにな」と言うと、祖父は「その通り」というような表情していました。そして「俺はシベリアに死んだ仲間が眠っているが、靖国で会おうという気持ちは全くない。上の奴らが勝手に言っているだけなんだ」と明言していました。
私は少なくとも当時の戦争指導者が如何に無能で強欲で無責任だったかということは、ちゃんと歴史の教訓として語り継ぐべきだと思います。でないとまた牟田口のような指導者を仰ぐ日本になってしまうかもしれないからです。そしてこのままだと「牟田口は立派な指導者だった、牟田口を悪く言うのは中国や韓国のでっちあげだ」ということを言う、ネット右翼や保守派文化人や政治家が出て来るかも知れませんし、その兆候はすでにでています。
というのは保阪正康さんの「あの戦争は何だったのか」という本があるのですが、その本は戦争における加害行為については一切触れず、作戦や指導者が如何に無謀だったかということに主眼が置かれて書かれています。そしてインパール作戦についても触れ、作戦の生き残りの人達が牟田口の名前が出るや否や「あんな軍人が畳の上で死んだことは絶対に許されない」ということもちゃんと書かれています。
ところがこれに対するアマゾンにおける書評には若い(であろう)人々の批判がかなり書かれています。
私はこのままだと、「牟田口は立派な指導者だった」という神話が定着しかねないと思います。
 

1094.(無題)

  投稿者:ガンキョウメール  投稿日:2010年11月28日(日)09時11分19秒
  昭和17年、浙贛作戦終了して我が22師団は杭州より、鉄路191`西方の金華に移動し、我が中隊は更に27`南方の寒村を接収して中隊本部とし,二箇所の山に分哨を出していました。何処の馬の骨とも判らぬ奴等に殴られるのが癪で、,殴られぬ様に気を使って居たら二選抜上等兵になりました。三ツ星大好きで以後進級なし、5年10か月万年昴星である。
17年12月の末,ポン友と二人、営庭で駄弁っていると人事係りがやって来て「二人とも初年兵係りをやらないか?」と言う。今更歩兵操典や作戦要務令でもない「嫌です」と言うと人事係りは「上司からは戦闘経験豊富な者と条件が付いている、お前達は最適だし、それに内地までは行くまいが上海か南京だぞ」と言われ、相棒は行こう行こう大喜び、承諾して1月27日トラックに便乗して金華の司令部に行き申告すると「初年兵は明日到着」と言われ、騙されたと知る。翌28日初年兵約70名が到着、烈31師団高田歩兵58聯隊の初年兵の由。当時南京の祭第15師団は師団長酒井直次中将が浙贛作戦中戦死し,後任は山内正文中将となり、今やインパールに向け移動中であった。私はこの初年兵を祭師団に転属して来た兵隊とばかり勘違いしていたのである。私達の担当は軽機班22名。
小銃班、擲弾筒班は別の中隊より派遣された兵隊が担当、昼は各個教練、分隊教練、夜は教範や操典の勉強、5月中旬1期の検閲も終了し、6月1日海路ベトナムの西貢に向け出発し、我々は元の前線に帰隊しました。
 彼らと別れる時、写真交換した中に二、三住所を裏書したものがあり、これを頼りに尋ねたところ皆戦死,たった一人高田のお寺の息子さんが生還したものの、私の訪問した時には既に亡くなっておりました。以来何十年そのお兄さんとは交流が続いて居ります。
人気のある窪田さまのブログの中には、きっと金華で教育を受けた経験者に巡り会えかもと思い、これまで覗き見をして居りましたが、私も91歳を過ぎ、もう諦めました、有り難う御座いました。
 

1093.ビルマ従軍特志看護婦・高橋たねについて

  投稿者:久美メール  投稿日:2010年11月20日(土)06時58分7秒
  窪田様、同ホームページを見つけることができて大変光栄です。ありがとうございます。
ビルマ線は本当にすごいものだったと手記からもよく理解ができました。

さて、この度、投稿させていただいたのは、私の曾祖母の妹にあたるビルマ従軍特志看護婦・高橋たねに関してもっと知りたかったからです。
最近になって、彼女の従軍記録が綴られている『孤高の華』柳井潔著(関東出版)を古本で手に入れることができました。
おたねおばさんのことは小さいころから聞かされていたのですが、
お恥ずかしいことに現在私35歳になるまで、この本を読んだことがありませんでした。
本には書かれてはいませんが、おたねおばさんの一人息子(東京の大学へ
通っていた)は彼女が日本へ帰国してみると、行方がわからずになってしまったそうで、
東京大空襲で亡くなったのではないかと聞いています。ということで、おたねおばさんの
純粋に血を引く者は現存しないのですが、同じ血筋である私としては、おばさんを知っている人がいたらぜひお話をおうかがいしたいと思いました。同書によりますと、
ビルマ戦線に行かれた多くの方が彼女のことを知っているようです。
本の内容は、正規看護婦ではないけれど、村医者の妻であったおたねおばさんがビルマ戦線の最前線まで行って看護にあたった話です。序文やまえがきだけ読んでも、かなりの
数の兵隊の方に携わっていたようです。最前線のエウ患者収容所や
モニワの兵站病院にもいたようです(同地では唯一人の日本人看護婦だったそうです)。
もっと早く興味を持っていれば、たくさんの方にお話がお伺いできたかもしれません。
期待はしていませんが、この掲示版を拝借させていただき、おたねおばさんのことを
ご存知の方がいましたら、少しだけお話をお聞きしたいと思います。
 

1092.投稿ありがとうございます

  投稿者:窪田幸唯  投稿日:2010年10月30日(土)09時11分7秒
  ガンキョウさん。
文字化けが解消できましたね。
10/26と27の書き込みが残念ながら読めません。折角ですので、もう一度この内容を書き込んでいただけないでしょうか。
 

1091.(無題)

  投稿者:ガンキョウメール  投稿日:2010年10月28日(木)12時05分5秒
  窪田様 文字化け 大変御迷惑をお掛け致しました、本当に失礼しました。私、中国の友人たちや北京広播電台と日本語、中国語チャンポンでE-mailのやり
取りをしている中に、大分パソコンが、いや頭がいかれてしまいまして、娘
に小言云われながら直して貰いました。私も92歳に踏み込みましたので、
先日亡くなった婆さんと、独り会話でも致しましょう。本当にご迷惑をおかけしました。御免なさい。
 

1090.(無題)

  投稿者:ガンキョウメール  投稿日:2010年10月27日(水)11時52分12秒
  弥 91r、暴はボケました、孅才18定1埖、繁並Sりより兜定汚の縮圄Sりをやらないかと冱われ、凹にもoい、と僅ったものの、蜉L源な宀との訳周原きで、鷲郎・・肋・煩圓錣賻i椶韻泙靴拭5r寃臭福瑳巒に壓った皹床燭蓮7定5埖の寃恬蚋壤畉車櫃茲螳造僚霹A偏に卞咾掘∨淳_の嶄はその恷念の翫に肖りました。
孅才18定1埖27晩トラックに宴\して署に佩くと、呷28晩には双で兜
定汚が欺彭、泳らは仟互弥に秘した孅才17定・略F叨汚でした。
暴は、輝r屡に採Iかに卞咾鱸_兵していた掴奨の疾及噴励瞎Tとばかり
房っておりましたが、それが倉及13睾互弥のi汚及58の17定
鹿叨汚と岑ったのは、パソコンとび兵めた方定念からです。採Iかでか
が岑っていると佚じ、嶄でも弥のは誘後宀も謹く、つい噫にいてしま
い払撰しました。縮圄は18定5埖挑で阻し、6埖1晩今揃ベトナムの廉(サ
イゴン)まで僕り、哭えの汚に賦し僕りました・
暴も1r、泳らも88・9rのはず、伏きているのが辛丶しいです。
鏡り頂らしの予隼にむ輝rの晩は、音房と輝rの秤尚に飛さが剃佩する房いです。払撰しました。
 

1089.再投稿をお願いします

  投稿者:窪田幸唯  投稿日:2010年10月26日(火)11時49分18秒
  ガンキョウ様
当サイトへの投稿ありがとうございます。
せっかく投稿いただいたのですが、残念ながら文字が化けてしまい、判読できない状態となっています。お手数でも再度投稿をお願いします。
文字化け帽子のためメモ帳など他のソフトで書いた文章をコピーして張り付けるのはいかがでしょう
 

1088.(無題)

  投稿者:ガンキョウメール  投稿日:2010年10月26日(火)10時41分37秒
  弥 いつもきしていて賦しありません.暴は繁を冥して肖りました。
弥のIが誘後宀が謹く、つい噫にいてしまいました。
暴は孅才14定翟?2埖1晩秘咾如⊆幹鼕に局り嶄忽瑳巒に睨樵邁燭鰆辰?T2發望ネ襪5定4埖の瑳捨刷仇。恬蕁0埖の臭掴恬蕁?6定4埖の寃|恬蕁7定5埖より寃恬蕋?海譴茲衙樵邁燭禄霹A偏にをめ、呷18定1埖貧望より兜定汚Sりをやらないかと冱われ、匯稀は僅ったが貧今か掴奨で蒙に蜉L源な宀、と訳周があるから佩けよと冱われ覚岑しました。ところがgは署峭まりで、暴が18定1埖27晩署偏に佩く、呷晩には
兜定汚欺彭、暴はこれを弥さんのブログに竃氏うまで、屡にビルマに?け卞咾鱸_兵していた掴奨の疾15發留箸个?衙爾辰鴇咾蠅泙靴拭?毛Kわって6埖1晩巻揃で咫廉に佩き、哭えの汚に哈ぎました?暴は凪の瘁レ|に卞咾系羚靱蕋?飮蕁咫の
フランスの冷廾盾茅を佩なって蕋?毛靴審蟇椀互弥のi汚及58倉及13瞎Tでした。暴も書91r、泳吉も87?8r、爾薺悗鯢したとしても?もう肖らないでしょう?めました。嗤りう囮恙いました。
 

1087.ゆうにさんへ

  投稿者:みかんメール  投稿日:2010年10月10日(日)21時41分39秒
  検索していましたら おじいさまが 善通寺烈師団(山砲第31連隊。通称 烈10703部隊。)で無事ビルマより生還された方のホームページ見つけました。http://murakumotabi.web.fc2.com/c-jm/j-m05-002.html#1 何かてがかり見つかると いいのですが・・・・  

1086.みかんさん

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2010年10月 6日(水)19時49分53秒
  みかんさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
戦争へ行った人たちがどんなことをしてきたのかを知ることは、後世の人たちの務めだと思います。
私の父の体験はその一例ですが、参考となれば幸いです。
何か新しい発見がありましたら、またぜひ教えてください。
 

1085.ゆうにさん

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2010年10月 6日(水)19時37分31秒
  ゆうにさん ご訪問&書き込みありがとうございます。

防衛省防衛研究所資料閲覧室にて調べられるかもしれません。
サイトを紹介しますので、検討してみてください。

http://www.nids.go.jp/military_history/military_archives/index.html

 

1084.狼(勝)部隊

  投稿者:みかんメール  投稿日:2010年10月 5日(火)21時12分17秒
  はじめてお便りいたします。父が89歳で今年5月に旅立ちました。家族を本当に大切にしてくれた大好きな父でした。戦争でビルマに行っていたことは聞いていましたが 最近になって実家にあったビルマの戦記や慰霊団の旅行記など読み あまりの悲惨な体験に驚き、こんなにもすさまじい地獄のようなビルマの戦地から、よく無事で帰ってきてくれたと 父が元気な時に今の私達が生を受け幸せでいることの感謝の気持ちを伝えたかったと 後悔の気持ちでいっぱいです。 父は狼49師団 歩兵153連隊(勝部隊) 第2大隊 第5中隊と書いていました。斥候の教育を(はやて隊)120名ほど1か所で集められ4か月間受けたのち 元の各部隊にもどり 斥候として任務に就くも はやて隊で生き残ったのは30名ほどとありました。父の所属第5中隊も、父達が2名で斥候にでている間に全滅したと生き残った戦友から母が聞いていましたが 母も父からは最後まで戦争の詳しい話は聞いておりませんでした。2人の兄は女の私や母とは違い 父から時々ビルマの事など聞いていたようです。この掲示板は最近見つけて有難く読ませていただいています。今 いろんなサイトの戦記を読み 若かりし父に思いを馳せ いつか父のたくさんの戦友達や親切にしてもらった現地のビルマの人達が眠るビルマに 私も慰問に訪れたいと思っています。  

1083.善通寺烈師団のアランミョウの戦い

  投稿者:ゆうにメール  投稿日:2010年 9月21日(火)22時12分31秒
  私の父は20年4月28日アランミョウで山砲砲手として、英国戦車部隊の機銃掃射で死んだときかされていますが、アランミョウの記事が見つかりません。出身は愛媛県越智郡で善通寺の部隊に所属しており、18年6月に出征したまま帰らに人となりました。今年94歳の母を連れて足跡を探しましたが、松山の石手寺にある戦没者慰霊塔に名前を確認できただけです。部隊名などもわかりません。これらの関連記事をご存知でしたら教えていただければ幸いでございます。  

1082.mikuさんへ

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2010年 8月31日(火)23時03分58秒
  mikuさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
あなたのお父様と私の父とは1歳違いになりますね。きっと同じような体験をされたのだろうと思います。お父様がこの戦争をどのように捉えていらっしゃったのか、「手記」の内容を教えていただけたら、と思います。
 

1081.(無題)

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2010年 8月31日(火)22時55分35秒
  小松さん 小原さん ありがとうございます。
日本軍を(指導者を)憎く思っている人々がいるのも事実だと思います。
しかしだからといって悪い側面ばかり取り上げるのは公平に欠けると思います。
日本人としては良い側面を重視するほうが正しい姿勢だと思います。
 

1080.父の手記

  投稿者:miku  投稿日:2010年 8月30日(月)23時00分35秒
  お盆に帰省して、母の遺品の中に、57歳で亡くなった父の「半世紀の手記」が、みつかりました。そのなかに、ビルマに行った父が無事帰国までの毎日の行動が詳しく書かれてました。きっとこの戦争に参加していたのではないかと思われます。やはり広島の宇品に到着してました。大正11年生まれの父でした。40ページくらいにわたって書かれた父の文字を見ると、戦争体験の場所の文字に、力いっぱいの筆を感じられました。  

1079.大変感動しました。

  投稿者:小原  投稿日:2010年 8月30日(月)02時19分47秒
  小松様初めまして小原と申します。 小松様の投稿を見させていただきました。 今の世マスコミ、政治家などが反日適な報道を聞いていて納得していた自分がばからしく思えました。 小松様の投稿を見て私は、真実を知れたとおまっております。 これからは日本人である自分に誇りをまち生活してまいります。有り難う御座いました。  

1078.ななし 様へ

  投稿者:小松 悟  投稿日:2010年 8月25日(水)09時59分53秒
  窪田やよい 様 横から失礼します。

ななし 様へ
貴方が終戦記念日と題して投稿された記事を読み、GHQ(占領軍司令部)が日本に対して行った、日本弱体化政策(War Guilt Information Program)に完全に染められた方の意見を見た感じがします。尤も初代の防衛大臣をやられた石破代議士ですら、日本は侵略国家だったと公言されているからどうにもなりませんが。日本人なら日本人として日本の良いところを見られれば良いと思います。その意味で外国人が言われていることをいくつか紹介したいと思います。

まず第一はこの「インパール作戦体験記」の13戦跡巡拝の「ラングーン空港よりバンコク行きの便を待つ待合室でのこと」で
「マスター、なぜそんなことを言うのですか。日本の兵隊さんが私たちを支配していたイギリス人と戦ってくれたから、ビルマ人は民族魂が燃え上がり、ついに念願の独立を勝ち取ることができたのです。日本は私たちの大恩人です。どうかまた来る時はもっと胸を張って来てください。ビルマ人は日本の方を大歓迎します」とあります。

第二にタイ国首相をされた、ククリックド・プラモード 氏が自分が主幹をしていた新聞?で述べられたものです。
「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。」
( 十二月八日、現地の新聞「サイアム・ラット紙」において )
このお言葉は、大東亜戦争がその目的を達した証拠になると思います。西欧列強の植民地獲得競争に敢然と立って、楔を打ち込んだ戦争です。

第三に平成20年6月12日にコメントしていますが、英国ロンドン大学教授をされていたエリック・ホプスバウ博士の言葉で、
「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動に依るものでは無く、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍(INA)が協同して、ビルマ(現ミャンマー)を経由し、インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされたものである」
というのがあります。
インパール作戦については、悪評高い作戦ですが、これらの悪評の大部分は、当時の事情を無視して、何もかもが満たされた現在の基準で判断されている事象です。何事も当時の基準で判断されなければならないと考えます。窪田さんのお父さんは実際にインパール作戦の末期に参戦され、並々ならない苦労をされているにも関わらず、あなたほどこの作戦を批判的には見ておられないような気がします。それ故、私は平成16年以来このブログをよく拝見しています。

第四にパール博士が昭和27年11月に広島を訪れ、原爆慰霊碑に書かれている言葉を見て、これは違うだろう、アメリカ人が言うのであればうなずけるがと言われたのを知った、広島市中区小町にある本照寺の住職が、原爆や、大東亜戦争で亡くなられた方々を慰霊するに相応しいお言葉をくださいと言って、パール博士から頂いた言葉です。このお言葉は本照寺の境内に「大亜細亜悲願之碑」として刻まれています。

  激動し 変転する歴史の流れの中に
  道一筋につらなる幾多の人達が
  万斛の想いを抱いて死んでいった
  しかし
  大地深く打ちこまれた
  悲願は消えない
    抑圧されたアジア解放のため
    その厳粛なる誓いに
    いのち捧げた魂の上に幸あれ
  ああ 真理よ!
  あなたはわが心の中にある
  その啓示に従って われは進む

1952年11月5日  ラダビノード・パール

まだまだありますが、大変長くなりますのでお言葉はこのくらいにします。

昨年オバマ大統領が天皇陛下に拝謁されました。その時のオバマ大統領が天皇陛下に対して90度近く腰を曲げて頭を下げられました。あの意味を我々はしっかり認識する必要があります。日本以外の国の元首にオバマ大統領は頭を下げられるようなことはありません。大東亜戦争が、アジアの植民地国家だけでなく、世界中の植民地解放に与えた影響、人種平等に貢献したことに対する敬意の表現だったと解釈すれば納得がゆくと思います。

最後に言っておきますが、東京裁判の結果処刑されたり投獄された方々について、多くの方は誤解されています。東京裁判についてはそれを実施したマッカーサー元帥が昭和25年トルーマン大統領に誤りであったと言っています。また、昭和26年5月3日の米国の軍事外交委員会の席上で「大東亜戦争は日本国民の生活を守るための戦争であった」と証言しています。つまり、東京裁判で処罰を受けた方々は間違った裁判にかけられて処罰されたということで、初めから責められる事象はなかったのです。このような事実をしっかり勉強してください。
 

1077.靖国参拝

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2010年 8月25日(水)00時05分22秒
  ななしさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
中国韓国の側からの視点ではなく一般的な日本人の感情として「靖国」には国のために命を落とした御霊が祀られていると認識しています。そこに国の代表が参拝することは当たり前のことと思います。他所の国からとやかく言われる問題ではないです。
残念ながら日本は敗戦し、いまだに責任問題だとか悪徳非道な行いを反省しろだとかヘンなことを言われますが、そもそも戦争は慈善事業ではないでしょう。戦争をしなければならなかった時代を恨むべきでしょう。
物量の乏しい日本が豊かな国を相手の戦争にはそもそも無理があり、多くの若い命を失ったことは本当に惨いことでしたが、ではどうすればよかったのでしょうか。
今、こうして天国のような幸せな日本の国に暮らしていて、戦争を批評することは難しいことだと思います。

1076.終戦記念日

  投稿者:ななし  投稿日:2010年 8月20日(金)17時17分52秒
  私はなぜ、窪田さんが国の代表が靖国に参拝しないことを不満に思うのか理解出来ません。
なぜなら、インパール作戦が実行されたのは「牟田口が東條と仲がよかった」からです。そして作戦の失敗を事実上不問にされたのも「東條が牟田口を庇った」からです。
中国や韓国が「首相が靖国に行くな」というのはA級戦犯が靖国に合祀されているからです。そして中国や韓国も一般の兵隊たちが祭られたとこに首相が参るのは問題ないといっています。そしてB級戦犯たちですら、戦争の被害者だと中国は言っています。
それこそ何でもいいですから、牟田口を「A級戦犯」と言う理由で東條と一緒に殺しといてくれたら、それはそれで良かったはずです。
靖国問題は「A級戦犯たち」がどれだけ国民をなめた戦争指導をしたかを考えればすぐ解決する問題です(広田弘毅は別。同時に彼は自分が靖国に祭られていることをあの世で望んでないでしょう)。東京裁判の後に、形式的にでも日本側に身柄を引き渡されて、「お前達の身勝手な戦争指導でどれだけの国民が死んだのだ」と言う理由で殺されたって一切文句は言えないはずです。
 

1075.終戦記念日

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2010年 8月16日(月)14時07分49秒
  新井さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
国の代表に参拝してもらえないのでは、戦死した方々も浮かばれませんね。
終戦記念日に「お詫びの言葉」を述べるのはヘンでしょう。
戦争に従事した人も家で待っていた人もあの時代を生きた人々は怒っていると思います。
 

1074.(無題)

  投稿者:新井  投稿日:2010年 8月13日(金)14時31分49秒
  私の祖父もビルマ戦線から帰国しました。
数年前になくなりましたが、戦争についてはあまり話してもらえませんでした。
洞窟が嫌いだったのを今でも記憶しております。
 

1073.掲示板へのリンク切れ

  投稿者:窪田幸唯  投稿日:2010年 8月 9日(月)13時44分40秒
  掲示板へのリンクが切れていました。
さきほど修正いたしました。
ご迷惑をおかけしました。
今後とも当サイトならびに掲示板をよろしくお願いします
 

1072.ビルマ旅行など

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2010年 8月 8日(日)16時15分57秒
  直江さん お久しぶりです。ようこそまた来てくださいました。
以前に書き込んでくださった「掲示板19」に狼師団やビルマ旅行についてのコメントがのっていますので参考になさってください。
また、出版についてはお近くの印刷屋さんに相談なさったらいかがでしょうか。
 

1071.狼師団 

  投稿者:直江メール  投稿日:2010年 8月 7日(土)14時31分5秒
  数年前にこのサイトを見つけましたが、その時に比べてとても大きなものになっていて驚きまたうれしく思いました。

私の父は、狼、49師団にいました。
戦争の手記を残していて、それをできるだけ早く出版したいと考えています。 けれどもこのようなことはやったことが無いのでどのようなオプションがあるのかなど助言等お願いできるといいなと考えています。

また、父の言ったビルマに一度行ってみたい。父の歩いた足跡をたどってみたいと考えています。しかしビルマは個人旅行のできない(難しい)国と聞いているのでもし経験がおありの方があれば教えていただきたいと思っています。

時間を見つけてビルマ戦線や戦争そのものなどについての私の考えをこれからブログに書き込みたいと思っています。

よろしくお願いします。
 

1070.敗戦65年

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2010年 8月 7日(土)11時08分6秒
  日本人さん ご訪問&書き込みありがとうございます。

まさに我が意を得たコメントに、しばらくごあいさつを控えていました。
今、私たちがノホホンと暮らしていける幸せに感謝するのみです。
ノホホンゆえに他の国から舐められていることは否めませんね。

NHK「竜馬伝」を観ていて思ったことがあります。
朝廷、幕府、各藩と勢力が分散している日本は外国からしてみれば攻めどころがわからないんじゃあ、と誰だったか言っていました。
これは今の日本にも当てはまることで、強力な指導者がいないから他の国からは掴みどころがわからない。というか見下されている。
その代わり各分野で高い能力を発揮している。それが日本の強みだと思います。

戦争に負けてから65年。
社会の仕組みを作っていくのは時間がかかることですね。
 

1069.拝読致しました。

  投稿者:日本人  投稿日:2010年 7月28日(水)23時48分3秒
  はじめまして。

偶然ではありますが、本サイトへたどり着き拝読致しました。
実体験の生々しさが文章から十分すぎるほど伝わってきました。

当然ですが、私は戦争肯定者ではないですし、むしろ戦争反対論者です。
本文章を拝読したうえで改めて日本にも軍隊が必要だと思い至りました。

軍隊の無い国に住む者=警察のいない町に住む者。と理解しております。
軍隊=国民を守るものであり、軍隊=戦争というのは間違った考えだと思います。
世界各国に軍隊が存在するにも関わらず、日本がそのことに触れようものなら、
軍国主義への邁進と外から言われ、内からも発せられることが残念でなりません。

戦争の正義・悪は勝者の作るもの、これは世の常であります。
現代の日本人は被虐史観に囚われることなく、祖国日本・家族を守るために戦った英霊達の想いを認識・学ぶことが必要だと再認識させて頂きました。

戦後の人間として、貴重な体験を頂きありがとうございました。
 

1068.幸せな暮らし

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2010年 7月 5日(月)23時14分6秒
  石橋さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
私の息子が20代になりました。まさに父が(当時の若者が)従軍していた年代になりました。
今の若者もある意味厳しい時代かもしれませんが、命の危機に晒される厳しさ以上のものはないでしょう。当時の若者にも美味しいものを食べたり楽しい思いや便利な暮らしをさせてあげたかったなあと思います。
今の幸せな暮らしに感謝するばかりです。
 

1067.お礼と感想

  投稿者:石橋  投稿日:2010年 7月 4日(日)10時47分9秒
  調べ物中に偶然ヒットして拝見させて頂きました。
主張が少なからず入り込んでしまうメディアや出版社を通さない形で戦争体験を聞く機会は少ないので有難かったです。

私は20代ですので当時の窪田様とあまり変わらない年齢です。
それだけに情景が大変リアルに感じられ、私も窪田様の傍らで従軍していたかのような気持ちになりました。

もうお亡くなりになったんですね。ご冥福をお祈りします。
ありがとうございました。
 
 

1066.ありがとうございます

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2010年 7月 2日(金)14時06分5秒
  通りすがりの団塊者さん ご訪問&書き込みありがとうございます

父は確かに強運だったと思います。
心身ともに強い人でした。運を引き寄せる強さがあったかもしれません。
そんな父も亡くなって丸4年になります。
こうやって父の戦争体験記を読んでいただけることはとてもうれしいことです。

http://www.nids.go.jp/military_history/military_archives/index.html

 

1065.貴重な戦記を拝読いたしました。

  投稿者:通りすがりの団塊者メール  投稿日:2010年 6月21日(月)23時31分34秒
  窪田様。

お父様の貴重な戦記、一気に読まさせていただきまして、ありがとうございました。

この戦記を読むと、戦地までの航海、彼の地での戦闘、そして捕虜生活など
全部、なんとラッキーな方だったと思われました。

今後も引き続き、このHPを通じて、貴重な戦記を、お残しくださるように
お願いいたします。

生きて帰れてそれが本当に良かった事と(戦後生まれで戦争を知らない多くの者が、
ともすれば戦争を美化し勝ちですが決してそうではなかったのだと)はっきり
発言できるのこの言葉の重みは、戦争に従軍した人でなければ出来ない事と思います。
 

1064.2009/03/28/

  投稿者:kikkiメール  投稿日:2010年 4月 9日(金)08時42分19秒
  歩兵60連隊祭(連隊長 松村弘)にてインパールへ従軍いたしました、、
昨年(2009 03・28)89歳にて 永眠いたしました
 

1063.一体何が?

  投稿者:窪田幸唯  投稿日:2010年 3月10日(水)13時02分28秒
  3/8のアクセス数が瞬間的に上がりました。いつもの5倍くらいです。
どこかで紹介されたのでしょうか?
 

1062.ようこそ

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2010年 2月18日(木)10時20分25秒
  熊猫さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
うれしいです。
アップしてから10年経ちました。戦争への関心は次第に薄れていくように感じますが、こうやって訪問してくださる方がいて心強いです。
海外でのお仕事は大変でしょうが、がんばってください。

http://www.nids.go.jp/military_history/military_archives/index.html

 

1061.インド・チェンナイより

  投稿者:熊猫メール  投稿日:2010年 2月15日(月)02時13分7秒
  先月から会社の転勤でインド・チェンナイに赴任したものです。インドの歴史について勉強したくいろいろ見ていたら、たまたまこちらにたどり着きました。一言、感動しました。不勉強な私はあれやこれやコメントすることはままなりませんが、実際のご経験を垣間見させていただき、これからいろいろと勉強させていただきたいと思います。
ありがとうございました。
 

1060.ご返答ありがとうございます。

  投稿者:小原  投稿日:2010年 1月12日(火)00時00分22秒
  ご返答ありがとうございます。 さっそっく調べさせていただきます。  

1059.小原さんへ

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2010年 1月11日(月)11時34分30秒
  防衛省防衛研究所資料閲覧室にて調べられるかもしれません。
サイトを紹介しますので、検討してみてください。

http://www.nids.go.jp/military_history/military_archives/index.html

 

1058.独立砲兵第2連隊

  投稿者:小原  投稿日:2009年12月19日(土)22時42分23秒
  初めまして小原といいます。 皆様にお伺いしたい事がありましたのでこの度投稿させていただきます。 私の祖父が所属していました独立砲兵第2連隊についての情報について教えて下されば幸いです。私の知っている情報は戦死広報に載ってありました昭和十八年十二月二十九日戦死ということと中華民国安徽省安慶にて戦死とのことだけです。どうぞよろしくお願いしたます。 長文失礼しました。  

1057.hpみました

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2009年11月10日(火)22時17分32秒
  ioさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
ご紹介のタイ日本友好記念館hpを拝見しました。友好的なhpでうれしく思いました。
ビルマ戦線の記述を読みましたが、本当に哀れな戦いでした。国力のない国は戦争をすべきではないですね(どの国もですが)。物資の絶えた中での行軍を余儀なくされた兵隊さんたちは哀れとしか言いようがありません。お疲れ様でした、ありがとう、と心から感謝したいです。やはり日本兵はまじめで立派だったと思います。そういう精神が日本人には過去から現在まで繋がって存在していると思います。今の日本人も生真面目さ、勤勉、謙譲の美徳、そういうものを大事にすべきだと思います。
 

1056.10月中旬タイ、クンユアムの博物館へ行きました

  投稿者:ioメール  投稿日:2009年11月 3日(火)20時39分18秒
  はじめまして。わたしの叔父もインパール作戦で亡くなっております。弓33師団工兵33連隊でした。インパール作戦ついていろいろ調べるうちここにたどり着きました。
戦後生まれのわたしは当然(?)戦前の日本=悪という自虐史観に洗脳されていました。しかしインターネットのおかげで幕末から大東亜戦争までの歴史を学び直すことで目覚めることができました。
日本は歴史をGHQによって奪われてしまったと思います。大東亜戦争が侵略戦争なら欧米の400年を超える植民地時代は一体なんなのか。欧米列強はその凄まじい植民地政策に対してひとことの謝罪も一銭の賠償もしていないのに何故日本だけが謝罪し続けねばならないのか。
日本人は奪われた真実の歴史を取り戻さなければ戦後は永久に終わらないと思います。
戦争ですからさまざまなことがあったと思います。しかし俯瞰的にあの戦争を眺めてみれば、大東亜戦争=植民地解放戦争であったことも間違いないことと思う。
今回訪れたタイ日本友好記念館で過去の日本に思いを馳せ、現在の日本の有り様に深い憂いを感じました。http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/
 

1055.強い気持ち

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2009年10月25日(日)20時49分52秒
  シャイロさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
父はいつも楽しそうに(?)戦争の話を語ってくれました。
きっと自分のやってきたことに自信があったからだろうと思います。
そもそも戦争という非常事態の中で自分は間違ったことはしていない、という誇りがあったのだろうと思います。
〉清清しさを感じさせて頂きました。
そう感じていただけてうれしいです。
 

1054.子供たちにも。

  投稿者:シャイロ  投稿日:2009年10月23日(金)13時00分21秒
  偶然こちらに辿り着き全て拝見させて頂きました。
書籍等ではどうしても悲惨な戦場話が多くなりがちですが、
こちらの体験談を拝見して苦労の中にも人として日常を生きて来られたんだなと言う事を、
ものすごく身近に感じる事が出来ました。
失礼な書き方かもしれませんが、
清清しさを感じさせて頂きました。
ありがとうございました。
 

1053.ありがとうございます

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2009年10月 7日(水)16時56分16秒
  ふみぽんさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
なんか、うれしいです。
 

1052.お礼

  投稿者:ふみぽんメール  投稿日:2009年10月 1日(木)22時18分6秒
  ある学会に参加中で、たまたま会場からホテルに向かう途中、日本丸を横目に見てきたのですが、その後ホテルの部屋でインパール作戦についてのwikipedia項目を読んでいたときにリンク先のこちらの体験記を拝見し、お父上があの船で帰還したことを知り、驚きました。

貴重な体験談、本当にありがとうございました。

http://www.jsdi.or.jp/~fumipon/

 

1051.もとはし 様へ

  投稿者:小松 悟メール  投稿日:2009年 9月 1日(火)09時01分2秒
  窪田様、横から失礼します。

 もとはし 様 8月30日の投稿を読ませてもらいました。「アジアを白人から開放したのが、私たち日本人であったことをしり日本人としての誇りを感じます」とありますが、良くぞその域に達せられたと嬉しくなり、コメントを書いています。私は平成16年8月以来このブログをほぼ毎日見さて頂いています。今の日本人の多くは、大東亜戦争は日本がアジア各地を侵略するために始めた戦争だ、と思っている方が多いと思います。8月15日の戦没者慰霊祭で、麻生首相が「先の戦争ではアジアの皆様に多大な苦痛を与えて申し訳なかった」と挨拶されていたのをテレビで見て、泣けてきました。英霊の皆様や空襲で亡くなられた方々が、アジアの人々に進んで苦痛を与える行動をしたような言い方で、情けなく、大東亜戦争で亡くなられた方々に申し訳がない思いです。貴方のように、大東亜戦争の真実を理解される方が増えることを期待している者としては、貴方のコメントに限りない喜びを感じます。

 もとはし 様はビルマへ慰霊のために行きたいとのこと、必ずや実現されることを祈念します。ビルマまで行かれなくとも、近くの護国神社、東京の靖國神社へお参りされることでも、日清戦争以来の御英霊をお慰めできると思います。これはご自身の気持ちしだいではありますが。

 既に見て知っておられるかも知れませんが、次に示すアドレスを訪ねてみてください。参考になると思います。

 http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/daitoua.html

大変失礼しました。
 

1050.がんばれ日本

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2009年 8月31日(月)21時53分0秒
  もとはしさん ご訪問&書き込みありがとうございます。
そうなんですよね、日本人はすごい民族ですよね。
と、自分達は思わないところがまた奥ゆかしいというか。。。
真面目で勤勉で温和な日本人は世界に誇れると思います。
政治はだめですが、日本の社会はそうそう悪くはならないと思います。
 

1049.日本人の誇り

  投稿者:もとはしメール  投稿日:2009年 8月30日(日)20時02分38秒
  アジアを白人から開放したのが、私たち日本人であったことをしり
日本人としての誇りを感じます。
日本人はすごい民族だと思う。
戦没された方が多く眠るビルマに行ってみたいです。
長野県 モトハシ
 

1048.うれしいです

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2009年 8月 9日(日)15時26分55秒
  ミキヒコ さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
丁寧に読んでくださってうれしいです。
戦争に行ったのは大多数が普通の生活をしていた普通の人々だったわけですね。
 

1047.体験記ありがとうございます

  投稿者:ミキヒコ  投稿日:2009年 8月 7日(金)20時37分31秒
  窪田幸唯 様
窪田やよい 様

 偶然このHPにたどり着き、拝読させて頂きました。
 体験記、読ませて頂きありがとうございます。


 38歳の私には、『戦争』『兵隊さん』という文字は
 どこか対岸の火事で、実感の無い物でした。

体験記を拝読させて頂き、
  村人と物々交換で、うまい物が食える!
  収容所で「さあ 麻雀だ麻雀だ」と書かれてるスケッチ等を見て、
 私の中の戦争・兵隊さんのイメージが変わりました。


 普段、私が口にしている事となんら変わらないんですよね・・・


 戦争映画や歴史の知識とは違って、この体験記は私の中に溶け込む感じがしました。
 体験記、ありがとうございます。

 文末で失礼致しますが、
 父上様のご冥福をお祈り致します。
 

1046.ありがとうございます

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2009年 7月26日(日)11時17分29秒
  匿名さん ご訪問&書き込みありがとうございます。
お祖父さまは辛いおもいもなさったでしょうが、きっと誇りのもてる体験をなさったのだろうと思います。
それはきっと戦後の生活の中でも気概ある姿勢としてあらわれていたことと思います。
兵隊さんたちには心から感謝と敬意を表します。
お疲れ様でした、ゆっくりお休みください。
ご冥福をお祈りいたします。
 

1045.貴重な体験記ありがとうございます

  投稿者:匿名  投稿日:2009年 7月24日(金)15時07分32秒
  私の祖父は戦争で右目を失明し、左肩には銃弾の痕が残っていました。
戦争のことを直接聞いてみたかったのですが、私には想像ができないくらい辛かったのではないかと…思い出させるのが可哀想な気がして、聞けないまま最近亡くなってしまいました。
葬儀のときに祖父は17歳で志願兵となり、インパール作戦に第31師団の一員として参加していたことを聞き、インパール作戦について調べているうちにこちらのHPに辿り着きました。
本当に酷いものだったようですね。
叔父や祖父と一緒に住んでいた従兄弟は酔っ払ったときによく戦争の話を聞かされたと言っており、NHKや市から取材を受けたりもしていたらしいので、私も勇気を出して聞いてみればよかったと思いました。
実際に体験された方のお話は本当に貴重です。
ありがとうございました。
 

1044.ブログのご利用を

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2009年 6月11日(木)13時15分18秒
  息子からの手紙 さん ご訪問&書き込みありがとうございます。

お父様の貴重な体験談、ご自身でページをアップして公開なさってはいかがですか。
ブログなら簡単にアップできます。
こちらからはリンクを張る等ご紹介はいたしますが、内容を全て掲載するのはいかがなものかと。。。
当掲示板の趣旨に反しますし、せっかくのお父様のお話がもったいないです。
 

1043.切込み敢行 (ワードに変換)

  投稿者:息子からの手紙  投稿日:2009年 6月10日(水)23時33分44秒
  ここの前線では既に死闘が繰り広げられていた。
ここで指令部からの軍命令があり陸軍中尉の昇級の告示を受け、軍隊に入隊して三年四ケ月にて始めて陸軍中尉となった。
夜になると、遥か北のメークテーラの辺りか、ドーン、ドーンと腹に響く音と共に暗闇の中にも、何か薄明るく雲に映えているのが、見えた。未だ実戦に参加している実感は湧かなかった。しかし、その時期も間もなく到来したのである。何日か経った後、日没が過ぎた頃、突如、隊長集合の命令が掛かった。何事か何か変事でも起きたのだろうと思いつつ集合に馳せ参んじた。草原の筵の上に、御賜の酒と御賜の煙草が並べて用意されている。
玉田隊長曰く“わが隊は今夜00時00分を期して、00部隊に続行し、メークテーラ00方面の敵陣地に対し、切込みを敢行する。00中隊の00小隊は尖兵となり、以下00中隊、00中隊、00中隊、本部の順とす。云々”と命令の下達があった。
部隊将校全員で乾杯し、武運長久を祈り、若し戦死することが有っても悔いのないように心の整理をした。当時の私の心境は、先ず朝鮮にいる父に対し、この世に生を受け何等孝養する事なくこの世を去るのは忍び難いが、これも運命であり。これも日本の為、家の為、家族の為、であり、お許し願いたい.と空に向かって祈った又満州大連にいた姉に対してはこの世に兄弟として生まれ、姉として既に他家に嫁いでいるが、早くから母を亡くして母の代わりとして、色々迷惑を掛けたことをお詫びすると共に、感謝し、将来私の分まで長生きし、私の一人の姪と幸福な一生を送るよう祈った。自分自身については、齢既に二十六才になり、生まれてから今迄、一般の日本人とは異なり、植民地に育ち、軍国時代を経て、楽しかるべき青春時代も無く、これからが俗世に出て、わが良き人生が来るものと期待していたが、それも空しく、戦争という怪物に巻き込まれた如何ともし難い人生であった。若し幸いに生有らば、私なりに一生懸命に、日本や社会、自分の為に働く事が出来れば幸だと思った。只、亡くなった母が、“私は天国から何時でも見守っています”と言った言葉が強く強く脳裏に刻み込まれていた。戦場での生死は理屈では無い。全て運命であると割り切っていた。しかし今思うと、この激戦の最中にも拘らずたいした戦傷も無く帰還出来た事は、亡くなった母の天国からの見えない加護が有ったと固く信じている。先ず部隊全員の装備の点検である。怪我人や病人は装備監視にして置いていくのである軽装にしなければならない。私は第三中隊長として、軍刀、拳銃、図嚢、両肩から白襷を交差して掛け、下士官以下は小銃、雑嚢、のみの軽装である。この軽装で敵陣地に夜間暗闇を利用し、敵陣地に突入し、敵を刺し殺せというわけだ。他に何等の兵器もない、戦車を破砕する破甲爆雷もない.歩兵砲も無い。迫撃砲。無し戦法といい、装備といい、これでは全く日露戦争時代と同じではないか。独り憤慨したが、装備の欠如は、輸送船舶の不足、飛行機の不足により、如何ともしがたい。それでは充分に戦えないし犬死にもなり兼ねない。軍隊は理屈では通らない。命令は絶対である.天皇陛下の命令である。駄目だと判つていてもやらなくてはならない。これには人の命が掛かっていても問題ではない。
今考えると恐ろしい日本の軍隊の制度であった。当時はこれが当たり前で、これは日本人の義務であり道理であったのである。戦列は、先に述べた尖兵小隊を先頭に、各中隊がこれに続き、四人縦隊の戦闘順列をとり、暗闇の中を、戦友の後ろ姿を失わずにこれにき、粛粛と黙々と只管、静かに前進するのみであった。
突如ピシッピシッと小銃の落下音がある。これが段々と前進するにつれ、あたり一面多くなった.気持ちの悪いものである。何時当たるかもしれない。当たれば当たったまでのことと糞度胸をつける。前方が薄明るくなった。ドロドーン・ドロドーンと太鼓の鳴るやうな音が聞こえた。
シュルゥ、シュルゥ、シュルゥと上空より聞こえたかと思ったら、近くでドカンドカンと物凄い大きな破裂音がした.敵の迫撃砲の攻撃である。
これが周期的にドロドーン、ドロドーン、シュルゥ、シュルゥ、ドカン、ドカン、と落下する。その度に全員地べたにへばりつくのである。
キヤウセの北のミンゲが戦線の前線のやうであつた。絶えず大砲音が聞え、夜空に走る閃光が、しきりに見えたみえた。砲弾の破片を避ける溜めに、起きたり伏せたり何回も繰り返しているうち、土に塗れて真っ黒になってしまった。気力体力も段々消耗してきた。まだまだ前進はつづくのである。何時敵陣に到達するのか、何時迄この前進は続くのか一切わからなかった。
メークテーラにおいては、ビルマの北方中国龍陵にて当時駐留日本軍の撤退援護に当たっていた吉田部隊(0四部隊)が完敗して下がって来ており、この部隊が主力となり、メークテーラに急遽入って、敵の侵入の防御と攻撃に当たっていたのである。
この龍陵の戦いは吉田部隊の緒戦であり、この戦闘にて、わが原隊で在った第八中隊の同期の幹部候補生の将校、同期の初年兵、古兵、第三大隊の同僚将校の大半を一遍に失ってしまった。吉田大佐はここメークテーラにおいて壮烈な戦死を遂げた。(御冥福を祈る。合掌)
敵まで未だ相当の距離があると推測されるが、専らドカン、ドカンと猛烈な迫撃砲の砲弾が落下する。目の前が一瞬真っ赤になった瞬間ドカンと音がした.無意識に地に伏せる.ヤラレタかなと思ったが、何処も怪我負傷した感じも無く形跡も無い。
自分は大丈夫で助かったなあと思った時、前の方で[ヤラレタ][ヤラレタ]との声がする[軍医、衛生兵前え]の号令を出す.暗くて判らないが、七〜八名の負傷者がでたらしい。前方のわが部隊は、この隠密切り込みが露見して、猛烈な集中砲火を浴びているとの事であった。[今夜の切込み行動はこれをもって中止とする。各隊はもとの発進地点まで後退せよ]と伝令上等兵が命令下達に飛んできた。
内心今夜はこれでやっと命が助かったなあと、ほっとした気持ちがしたのが実感である。帰りは暗闇ではあるが、一度通ってきた所なので、割りと早く、もとの地隙の発進地に戻った。早速負傷者の手当てである。幸いに死者は出なかったが重傷者も軽傷者も出た.未だ師団には少数ではあったが、資材輸送用のトラックがあり、重傷者はトラックにて軽傷者は徒歩にてそれぞれ後方の野戦病院まで転送する処置をとった。実は、この頃迄はこのやうな事が出来たが、これ以降はトラック等はなく哀れなものであった。
この日以降二三回挺身切込隊として、夜間行動を起こしたが、前に述べたやうにどうしても敵の前線をどうしても、突破することはできなかった。只人員の損害を受けるばかりであつた。無駄な損傷を受ける事が判っていても、軍の参謀の石頭は大和魂を盲信するだけである。かくしてある日、突然昼間のことである。前方の方に騒音と砂煙りが上がっているのが見えた。暫くして良くみると、敵のMC戦車が、五〜六輌こちらに向かって進んでくる。我々は初めてみる戦車である。その大きいことに驚いた。砲塔を回転しながら、戦車砲を発射しながらこちらに向かってくる。その音はキャタピラーのガラガラという音と、パンパン。ドンドンという発射音と破裂音の交錯音である。戦車砲の場合、水平射撃の為か、この発射音と破裂音の間隔が短いのである。[敵襲、敵だ]悽愴な将兵の声が地隙に響く、部隊は一斉に近くのゴム林に退避する。目は連日の不眠不休で赤鰯の目のやうに赤く濁っていた。
汗と埃で赤茶色に煮染めたやうな手ぬぐいで、後ろ鉢巻きにし、その上に鉄兜を被って攻撃態勢につく。我々は攻撃兵器が無い。幸にも、この椰子林には山砲が展開していた。この砲も水平0距離射撃だ。
山砲のドーン、ドーン、敵戦車のパン、パン、ドン、ドンの熾烈音が響きわたる。
椰子の上部に敵弾が当たる度に、バラバラと破片が落ちてきて、鉄帽に当たってカラ・カラと音がする。
しまったと思ったときに、青い迷彩色をした戦車が十メートルばかり前方にせまった。どうにもならないので、一歩一歩退いたが、窪地が無い。
一番太そうな木をみっけて、その陰に遮蔽し、じっと息を凝した。
青白いスマートな姿が現れたとみるや、わが山砲が一斉に火を吐いた。敵の応射も、射撃も激しく、弾は意外に低く、椰子の葉をかすめ、枝をおって横なぐりの雨のやうに降りかかった。身動き一つできなかった。
それなのにおかしなもので、何だか自分だけが当たらないような気がするのだが、生きた心地がしない。
スピードの落ちた最初の一台が千鳥足で過ぎた瞬間、火達磨に成ってかくざした。
濛々とあがる白煙の中に止まっている。
二台目の奴が一番頑張っている。全身に葉っぱと砂と赤土を頭からスッポリ被った。しまったと思ってももう手遅れだ。危ないと後ろの大木の陰に入ろうとした途端に、私の鉄帽の上に、太い木の枝が落ちて来た。機銃弾が木の枝に当たり落ちて来たらしい。[突っ込め、ヤッツケロ]とものに付かれたやうに、不気味な叫びであった。
弾は途絶えた。道路の端までへっぴり腰にて這うようにして出た。
北に逃げる戦車を追って、ガソリン瓶を左手に、銃剣を右手にして、戦車攻撃した歩兵の兵が突っ立いる。
わづか十五分ぐらいの死闘であったが、その長かったこと、一時間以上はたっぷり有ったやうな気がした。
陽はようやく椰子林に落ちて、燃える戦車の火がアカアカと照らし出していた。
何時のまにかはぐれて居た部隊のものも、段々自然と集合してきた。
わが隊の点呼をとると、幸いなことに、傷を受けたものは、若干あったが、戦死が出なかったのは幸運といえよう。
兵器は無かったが、ガソリンを詰めた火炎瓶を、戦車の砲塔に投げ入れ、炎上させたものだ。我々は専らこの戦法を採ったが、至近距離に成らないと行動が起こせないので、それだけ損害は多きかった。
戦局を若干述べることにしょう。
北部ビルマに対する扇の要というべきマンダレーを失った為、次に方面軍はトングー付近からぺーグー山系を経て、ラングーンに渡る要線を握り、南部地域を確保しようと考えていた。イラワジ河の戦線を喪失したことは、泰緬国境まで後退する事を意味するものであるから、方面軍としていかに仕手も、ペーグーの線の確保の必要があったのである。そこで方面軍は第十五軍をして、シヤン州を南下して右翼に、第三十三軍を左翼に、プローム付近に集結して側方を固めつつ、メイクテーラ、マンダレー方面から殺到する英印軍を、ピンマナ、トングー、付近で食い止めようとしたが、部隊の集結中を疾風の如く突進して来る機甲部隊に踏みにじられ、軍指令部も一週間も敵中に消息を絶つ程で支離滅裂、トングー会戦どころではなかった。
実にインパール敗退後の作戦には自主的なものは無く、殊にメークテーラの線を突破されてからは、一応陣地を整えようと下が、後手後手と成り、英印軍のなすが儘であった。そしてピーユも、ぺーぐも一気に突破され、五月十日には首都ランクーンも占領される事になったのである。
南方総軍は五月二十四方面軍に対し、主力を持つてケマピユ、トンクー、シッタン河の線、並びにテネサリウム、地区を確保し、第二十八軍を持つて、ペーグ山系を占拠し、ラングーン方面の英印軍を撹し、南部マーレ方面に対する連合軍の侵攻作戦準備を妨害するやう指示してきたのである。この為、方面軍指令部は五月二十六日モールメンに移動し、シッタン河付近の防御強化を計ったのである。・・・・・・・・・以上抜粋・・・続く
 

1042.父の思い

  投稿者:石原メール  投稿日:2009年 5月29日(金)01時51分27秒
  私は今年で39歳になるものです。
父は栃木県佐野市出身で、窪田様のお父様と同じ大正12年生まれで、やはりインパール作戦に参加していた1人です。
私の父は72歳で他界しており、もう戦争の話を聞くことも出来ないのですが、やはり自分が小さい頃良く聞かされました。
そんな話の中で辛うじて思えているのが、砲撃手(?)をしていたこと、インド付近にてイギリス軍に捕まり捕虜として終戦を迎えたこと、日本に帰国する際には、スーツをあしらえて貰えたが、帰国後すぐに没収されたことなどです。
父は捕虜になっていた期間が長く、軍事恩給の対象にも数ヶ月足らず、国に対してはあまり良い思いは持っていないようでした。
この度、ふと父の話を思い出しネットサーフィンしていて、このHPへたどり着きました。
どなたか、父と同じようにインド方面へ行かれた方がいらっしゃいましたら、当時の状況などを教えていただければ幸いです。
駄文で申し訳ありません。
 

1041.もう一人のインパール作戦

  投稿者:息子からの手紙  投稿日:2009年 5月27日(水)13時50分2秒
  初めまして。私の父も、第四十九師団の一員として昭和二十年三月十四日夜ペーグから貨車輸送により出発し、メークテーラー飛行場奪還作戦に初めて参加した後、奇跡的に部下十数名だけとともに日本に帰国できたました。あまり語らなかった父の数少ない戦争の話では、迫撃砲の砲撃で隣にいた部下が上半身を吹き飛ばされたたこと、弾丸がヘルメットに当ったが正面ではなかったので気を失ったが死ななかったこと、白襷に軍刀を抜刀して夜間突撃したがかすり傷だけで助かったことなどだけでした。ただ父は、70歳を過ぎた頃から自分の回想記を当時のワープロで作製し、それを製本し二冊に残しました。ビルマインパールの戦いの部分はA4で60ページ位ありますが幸いに、ワープロフロッピーもありましたので、それをワードに変換してもらおうと思っています。整理したら書き込みます。今も自宅にはビルマの土で焼いた素焼きの位牌が、マラリヤの薬キネーネ等とともに残っています。合掌  

1040.サイト開設から10年経ちました

  投稿者:窪田幸唯  投稿日:2009年 4月 1日(水)13時34分51秒
  このサイトの立ち上げ、掲示板を設置して10年が経ちました。本当に大勢の皆様の訪問に感謝です。特にこの掲示板は通算1000件を越える書込みがありました。
今や、この掲示板こそが当サイトの宝物です。
掲示板の整理をしながら、10年経ったと気づいた次第です。今後も当サイト、掲示板をよろしくお願いします
 

1039.ありがとうございます

  投稿者:窪田やよい  投稿日:2009年 3月22日(日)23時04分43秒
  大内晴夫さん
>妻子を残して応召した父の気持ちはいかばかり!涙が出る。
本当ですね。そして、残された奥様のご苦労を思うと更にまた切ないです。

しかし
y.u.さんが投稿してくださった内容からは、日本兵が矜持ある姿勢で戦場に臨んだ様子が感じ取られ、ホッとします。

一緒のコメントで申し訳ありませんが、お二人とも貴重な投稿をありがとうございました。
 

1038.コヒマ

  投稿者:y.u.  投稿日:2009年 3月13日(金)02時39分29秒
  はじめまして。
コヒマ周辺におけるインパール作戦について調べていましたら、偶然、こちらのサイトに行きつき、体験談を拝見させていただきました。私はいま大学生で、祖父が南方戦線に従軍していました。第55師団歩兵第144連隊第2歩兵砲小隊所属です。

このサイトには、関係者の方が多くいらっしゃってるようですので、先日の旅行の件を簡単にお知らせできればと思い、書き込みさせていただきます。

先日、ナガランドのコヒマ(Kohima)、ディマプル(Dimapur)、コノマ村(Khonoma)、キサマ村(Kisama)、プチャマ村(Pfuchama)に行ってきました。こちらに住んでいる方々は、日本兵や戦いのこと、軍が来た日にちや経路まで覚えていらっしゃいました。そして、顔立ちが日本人と瓜二つの民族(ナガ人)ですので、今でもすごく日本兵のことをよく思っているようです。また、彼らは独立運動をしているのですが、50年代は日本軍やイギリス軍の遺して行った武器を使って戦ってたと言っていました。

また、プチャマ村(日本軍の通信施設があった場所)で、当時のことをいろいろ伺う機会があったのですが、そこにいらしてくださったご老人が「もし、日本兵の弔いのために記念碑を建立するのなら、喜んで土地を提供します」とおっしゃっていました。

以上です。
些細な報告ですが、何かのお役にたてれば幸いです。
 

1037.私の父

  投稿者:大内 晴夫メール  投稿日:2009年 3月 3日(火)10時08分19秒
  徳島県の小松島港まで遺骨を受取りに行った。白木の箱の中にはわずかの骨片が入っていた。ビルマのチャンドイン県とかでアメーバ赤痢で戦病死(昭和19年8月11日)と戦死公報にあった。私の父は近衛歩兵第二連隊・陸軍特務曹長で予備役だったが、49歳の時 赤紙が来て応召した。近衛兵がミャンマーまで遠征とは不思議な気がする。妻子を残して応召した父の気持ちはいかばかり!涙が出る。  

1036.実話の重み  投稿者:窪田やよい  投稿日:2009年 2月15日(日)23時00分27秒
     

 


 

 

 

 

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